終
東京に雪が降っていた。
昨晩から降り始めた雪は、あっという間にビルの1階ほどの高さになってしまった。僕が東京に戻って来て20年ほどになるが、これほどの雪が降ったのは初めてだった。
どうにも今朝から足がうまく持ち上がらず、普段以上に歩くのが苦痛だった。
杖にもたれかかるようにして、どうにかシンクまでやってきたものの、蛇口をひねっても水はでてこなかった。どうやら一晩の間に、雨水タンクと蛇口との間で水が凍ってしまったらしい。いや、もしかしたらタンクの中身自体が、凍ってしまったのかもしれない。
何か、この状況に対する悪態の一つでもついてやりたいところなのだが、口から出たのは微かな吐息だけだった。
僕は再び寝床の上に戻るの億劫で、その場でしゃがみこんで、シンクにもたれかかった。ぺたりと床についた手の指先が何かに触れた。
見ると、それは先日食べ残した干し芋の切れ端だった。
この世に残ったあらゆる保存食品の消費期限よりも長生きしてしまった僕は、自分で食べるものを自分で作らなければならなかった。
僕のために誰かが何かをしてくれることはないし、誰かのために僕が何かをすることもない。なぜなら、世界にはもう僕しか残されていないのだ。
大昔に仲間だった人たちは、皆、家族を、友人を、生きる目的を探して、向こう側へ行ってしまった。もうこっち側には、何も残っていない。僕は残りかすだ。
超越領域の門から溢れでた何かが、すでに地球上を冒していたのだろうか。僕の命は不要に長大に引き延ばされていて、尽きるべき時を遥か後ろに置き去りにして生き続けた。
そうして得た長い、長い時間をかけて僕は仲間を――僕と同じような取り残された人を探して、世界中を巡った。でも、結局、どこにも人の姿がありはしなかった。
ただ、いつの日からか増え始めた超越領域の門が、そこら中に、まるで雑草のように開き放題に口を開けているばかりだった。
ある時からは、僕は道を歩くのにも、うっかり超越領域の門に触れてしまわないように、気を付けなければならない程に、増えていた。
いまこうして、壊れかけた雑居ビルのキッチンでシンクにもたれかかり眺めている窓の向こうでも、10近い超越領域の門が、好き勝手な方向を向いて、向こう側の景色を映し出している。
それはまるで、最後の人間である僕を余さず向こう側へ取り込むために、超越領域がやけくそになっているような光景だった。
僕は干し芋の切れ端をつまんで、顔の高さまで持ち上げた。
よくよく思い返してみると、僕は数日前から何も食べていないのではなかったか。
だけれども、どういうわけか、僕にはまったく食欲がなかった。
少し前までは僅かにあった、水で喉を潤したい、という欲求も、薄れていた。
乾いた喉は、外の雪を溶かせば、潤すことが出来る。
そんなことは分かっていたけれど、今の僕には、それが酷く面倒だった
自分の手と同じように萎びた芋を眺めているうちに、何か僕の中から、急速にあらゆる意欲が失われていった。
僕は生き続けなければならなかった。
僕が生きている限りは、地球上にまだ独り僕が居続ける限りは、超越領域は全人類を向こう側に取り込んだことにならないのだ。
だから、僕は死ぬわけにはいかないのだ。
それなのに、僕の手はいつの間にか再び床に投げ出されており、干し芋は床の向こうへ転がっていってしまった。
音も無く倒れていた杖は手を伸ばしても届かず、手を床について踏ん張ろうとしても、体は持ち上がらなかった。
それっきり、もう僕は考えることしかできなくなった。
てっきり僕の寿命は無限に引き延ばされたのだとばかり思っていた。だけれども、なんのことはない、僕は結局死ぬのだ。たかだか数世紀ほど、無駄に命が伸びたに過ぎなかったのだ。
僕はもう、向こう側から誰かが戻ってくるのを出迎えることもできないし、この先何が起こるのかを見届けることも出来ないのだ。
僕の予感が、不安が、正しかったのかを知る事はできないし、向こう側の人たちが本当に恐ろしい目に遭ったのかも、僕には決して分からないのだ。
このまま僕が目を瞑れば、この地球上から人類はいなくなってしまう。
するとどうなるのだろうか。
僕が居なくなったあとの世界は、どうなってしまうのだろうか。
僕が、僕たちがずっと恐れ続けていた、正体の分からない恐るべき破滅が、やってくるのだろか。
それとも、このまま何も起こることはなく、地球からただ人間という種が消えただけの、ただそれだけの景色が、永遠に残り続けるだけなのだろうか。
どちらにしても、それを僕が知ることは、決してないのだ。
ただ、僕はたった一人、心残りを置いて、ここから去って行かなければならなかった。
目を瞑って、ここから居なくならなければならなかった。
未だ知らぬ何かを恐れることを、止めなければならなかった。
――超越領域の至る未知 終
超越領域の至る未知 なかいでけい @renetra
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