カリスト1989
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思いがけない幸運の連続に、かえって不安になってしまう久我少年なのであった。
秋葉原から乗り込んだイエロー一色の車両は、デイゲーム開始の一時間も前だというのに人でごった溢れていて、小柄な久我少年は、おっさんとおっさんの汗臭い背中同士にその丸い顔を挟まれ、往生しているかのように見える。
しかし、それでもラッキーの神の祝福に包まれていることは、微塵も疑いを持ちようがないのであった。
東京ドーム。一年ほど前に開場した日本初の全天候型球場であるそれは、さほど野球に興味を抱いて来なかった久我少年にとっても、未来を象徴したかのような、うおお絶対行ってみたい、と胸焦がす憧れの場所なのであったのである。
隣に住んでいる従兄の父親が、とあるつてで、土曜日のデイゲームのチケットを三枚貰ったのだという。これが二枚だったら誘われなかったわけで、そこがまずツイていたと言える。
行われる試合が日ハム×ロッテという、パ底(当時)であることは、この際まったく関係がないのであった。
浮ついた気分で四時間の授業を乗り切り、小太りの体を弾ませながら自宅へ急行した久我少年は、昼食のハヤシライス(これも彼の大好物だ)を二皿分かっ込むと、迷惑かけなさんなよ、という母親の言葉を背に、意気揚々と従兄親子の後についてバスに乗り込んでいくのであった。
背にしたリュックサックはぺらぺらの安物であり、鮮やかな紫色というお世辞にもあまりセンスのよろしくない代物ではあったが、ここに彼の全てが納められている。
父親から借りた正方形のごつい携帯ラジオ。プラスチック製のぱかりと開くちゃちなオペラグラス(これも薄紫色のボディに内部が濃い紫)。HI-Cオレンジを詰めて前日から凍らせておいた幼稚園の時から使っているプラスチックの水筒。読売ジャイアンツのオレンジ色のバット型メガホン。おやつは、穴場である近所の酒屋と、自転車で30分もかけて買いに行った隣町のコンビニで買い集めたビックリマンチョコが6つ。
着ているTシャツは何シーズン着てんだよくらいに擦り切れて裾はごわごわ、首の部分はでろでろ、黄色の半ズボンはぴちぴちすぎてホットパンツのようになっているが、特に自分の服装に関して興味のない彼は、全く意に介さないのであった。
大人サイズのヤクルトスワローズの野球帽は、おととし日本球界を震撼させた赤鬼ボブ・ホーナー来日の年に買ってもらった物である。デブでもヒーローになれる、と久我少年は失礼な憧れを胸に抱いて熱烈に応援していたのであった。早々に昨年、米国に帰っていったが。
リュックに収めた巨人のメガホンといい、この紺色の帽子といい、本日の試合にはそぐわないと思わなくもないが、「野球」であるという一点で、持参することがフォーマルであると久我少年は信じているのであった。
混雑した車内ではあるものの、肉付きのよい手首に嵌められたタキシードサムの形をした腕時計(スライドさせると蝶ネクタイの部分から液晶が現れるが、非常に小さく見にくい)で意味もなく時間をチェックしたりと、いろいろと余念のなさそうな久我少年。
天井の扇風機が車内の熱気をほどよくかき混ぜつつ、列車はレールの継ぎ目で大きな音を立てながら進んでいくのであった。
JR水道橋駅に到着すると、人の流れに乗って、一路、ドーム球場を目指す。
従兄と意味も無くはしゃいでふざけ合い、隣を歩く老人にその小柄だがそのみっしりと質量の詰まった体でぶちかましをしてしまって、割と本気で、殺す気かッと低く怒鳴られたりしてびびりながらも、とにかく文字通りの浮足立つ気分を抑えきれないのであった。
視界が開ける。
東京ドームは、正に未来の球場なのであった。スペースマウンテンみたいだ……とその白い威容を見上げて、例えとしてどうなの、という感想をツイートする久我少年。まだ開場まで10分くらいあるとのことで、近くのベンチに腰掛け早くもおやつを摂り始めようとする、燃費の悪い健康優良児なのであった。
その時。
ラッキーの連続、と言うと語弊があるかも知れないが、価値観はひとそれぞれであり、久我少年にとっての「生まれて初めての幸運」がここで訪れるのであった。
せっかくの遠出のおやつなのだから、バラエティに富んだラインナップにすればいいのに、何かの一つ覚えのように、単一のチョコウエハースだけを持って来ていた久我少年だったが、この時代の大抵の少年にとって、おまけのシールの方が実際には「本体」であって、開ける時のドキドキ感はただならないのであった。
もちろん絶妙なチョコ・ピーナッツ・ウエハースの黄金比率も大好きな彼は、シールだけ抜き取ってお菓子を捨てようとする不埒な輩から、それらを全て譲り受けたり(時には10円で買わされたり)、捨てられているのを見つけては心を痛めつつ、雨でふやけていなければ躊躇せずそれを拾って食すといった、ビックリマン憲章を忠実に履き違えつつも遂行する、これから試合を行うロッテオリオンズのスポンサーから何か感謝状でも貰ってもいいくらいの逸材なのであった。
閑話さておき、ラッキーとは他ならぬ、その「シール」の事であった。
「?」
いつも通り、アルミの包装の端を慎重に引き裂き覗き込むと、ウエハースの下から見慣れない四角い輝きが久我少年の目に差し込む。しかもそれは心なしかピンク色の光沢を持っているかのように見えたのであった。
「?……?」
落ち着けッと自分に言い聞かせながら、そっと厚紙のトレーを引き出す。期待と驚きと歓喜の一歩手前で、かえって真顔になりながらウエハースを持ち上げる。
そこにはピンク色に輝くプリズムのシールが、ウエハースの粉にまみれながらも、確かに存在感を放っていたのであった。
うぶぶぶぶ、のような声を上げながら、隣でイチゴ味のポッキーを前歯で小刻みに咀嚼していた従兄の肩を連打する。
何だよ痛えな、みたいに振り返った従兄も、そのピンク色の眩さを目にした瞬間、ふはぁと声にならない声を上げた。
「愛然かぐや」という、かぐや姫を模したエルフのようなそのキャラクターは、久我少年を祝福するかのように、優しく微笑んでいるのであった。
お、女じゃんダッセそんなの全然うらやましくないんだからねっ、と殊更興味無さそうに振る舞う残念な従兄を尻目に、久我少年はその輝くシールに付着した粉を払うと、リュックから細いチェーンに繋がれた自分の財布を取り出し、べりりと開いて、テレホンカードとオレンジカードの間の半透明のカードホルダーに丁寧に仕舞い込むのであった。
そんな少し熱に浮かされたような妙なテンションで、いよいよ球場内に入る。外周周りは電気工事が入っているとのことで、半周以上遠回りをして目指す座席に向かわなければならなかったのだが、売店や揚げ物の匂いにふらふらと惹きつけられつつ彷徨うように、結構楽しんでいる久我少年なのであった。
座席は三塁側と外野の中間くらいの場所であり、ちょっと距離感つかみづらい位置ではあったものの、上空を覆うクリーム色の天蓋と、ぎらりと目を刺す照明、地面から湧き上がってくるかのような人々の歓声や、体に響くように発せられてくる音のうねりに、しばし圧倒されてしまう久我少年であった。
通路を挟んで従兄親子とは少し離れた座席に腰を降ろした久我少年だったが、ひとりで観に来ている風で大人じゃん、みたいに少し誇らしげな気分になる。
ラジオ中継に事前に合わせておいてもらった携帯ラジオを点け、解説に意味もよく分からずふんふんと頷いていると、うるせぇみたいに後ろの怖そうなおじさんからシートを靴先で小突かれたので、慌ててボリュームを極小まで絞ると、スピーカー部を耳に押し付け、聞き入る振りをするのであった。
割と空席が目立つ中、ゲームは開始された。普段はテレビ画面の枠内でしか試合は進行していないと思っていた久我少年だったが、グラウンド全体を俯瞰してみると、当たり前だがボールの来ないところやベンチ、ネクストバッターサークルでもリアルタイムで選手たちが躍動しているのであり、その迫力は遠目で見てもやはり違うのであった。早々に電池の切れたラジオは仕舞い込んで、視界の彼方で行われているボールゲームに心奪われていると、
(……?)
視界の下で、先ほどから落ち着きなく行ったり来たりしていた赤いものにふと視点が合うのであった。
赤と白の細いボーダーのワンピースを着た、小学校高学年くらいの女の子だった。両肩に垂らしたおさげは赤い玉飾りのついたゴムでまとめられている。
その少女はフェンス際をずっと試合を見るでもなく客席を見上げたり、おそらく知らない人にだろうが、何事かを話しかけたりしている。
(迷子?)
一見ではそう思った久我少年だったが、それにしてはべそかいたり不安げな素振りはしていないように見えた。気になって紫のオペラグラスを取り出し、その子に焦点を合わせてみる。
かわいいけど、何か顔に力入ってるな……と、試合に集中できなくなった久我少年だったが、何回かその子の元へ行こうか行かないか迷っているうちに、ふ、とその少女はスタンドから外の方へ歩き出していってしまった。
ととトイレ、と隣の従兄親子に告げると、その後を追いかける。スタンドから慌てて外周に出ると、少女は売店の前で立ち止まって、手元の紙に何かを書き込んでいるところだった。
なにやってんのー、と軽薄そうなクラスのお調子者の声色をまねたつもりだったが、慣れない物言いに、ガチガチに顔面は固まっているのであった。しかしその少女はこちらをちらりと振り返ると、ぼそりと、お父さん探してんのー、と低いテンションながらそう返してくれる。
女子とまともに喋ること、年4回くらいの久我少年は、それだけで舞い上がりそうになりそうな気持ちを押しとどめながら、おとさん、どどこ? みたいな、ままならない日本語を繰り出すのであった。
探してる。今日ここに来るって言ってたから。仕事で忙しいから外野辺りを探してくれって。でもほとんど回ったけどいなかったんだー。
久我少年に話しかけるように、自分に確認するかのように呟く少女の手には、×印がつけられたこの球場の地図があるのだった。
ひ、ひとりで来たの? お母さんは? と聞いてみるが、一瞬の沈黙の後、お母さんは別のひととバックネット裏、との言葉に、拙い思考は止まってしまうのであった。それでも、
ぼ、僕野球そんな好きでもないしさー、なんか飽きたから一緒に探そうかー? と軽く言ってみる。苦し紛れに言い放ったものの、その被っている帽子からは、まあねえというような説得感がやけに醸されているのであった。
つかず離れず少女の周りを、のたのたとついていく。もう一度外野席を一通り見回ってみるものの、少女が言うところの、「がっちりして、短い髪」のお父さんは見つからないまま時間は過ぎていく。
試合は八回裏。2対2の緊迫した展開が続いているようだったが、なるべく試合長引いてよ、と祈るような気持ちの久我少年なのであった。
歩き疲れ、売店横のベンチに並んで腰かける。完全に溶け切っていた水筒の中のジュースを二人で分け合うと、少女は、もういいよ、と何でも無さそうに呟くのであった。
いくないよ、と久我少年は言う代わりに、そうだ、と自分の財布をばりりと開き、ほつれ気味だったカードホルダーを根元から引きちぎると、先ほど引き当てた輝くシールが内包されたそれを少女に手渡すのであった。
これ御守り。絶対いいことが起こるから、と丸顔に力を込めて頷いてみせる久我少年。奇しくもその「愛然かぐや」は「お守り」の「ヘッド」なのであった。
すごいきれい……、と少女が手に取って光に翳しながら微笑むのを見て、気力が満ち溢れてくるのを感じる久我少年。伝説級のヘッドなんだよ、とおそらく女の子には理解できない無駄な蘊蓄を語り出そうとするも、え、でんせつ? と少女が顔を向けてくる。
……少女の手を引いて、最初に入場してきた外周の出入り口を目指す。お父さんも「でんせつ」だよ、「電気設備」の略だけどね? といたずらっぽく笑った少女の言葉に、もしかしたらと閃いたのであった。
勢いで握っちゃったけど、女の子の手ってちっちゃくて冷たいな、と、幸運をオウフオウフと堪能する間もなく、電気工事をしている現場にはすぐ着いてしまう。張られた白いシートの内側から、何人かのカーキ色の作業服の人たちが、今まさに作業を終えて出て来るところのようだった。少女が久我少年の手を離して駆け出す。
お父さん! と少女が呼んだ声に反応してこちらを向いたヘルメット姿の「お父さん」は少し照れたような、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
<世田谷区からお越しの、クガ ガクトくん……お連れ様がお待ちです……>
やべ、迷子扱いされてる、とその感動の再会にもろくに立ち会えずに、いま来た道をのたのたと引き返す久我少年なのであった。
しかし、肩越しにちょっとだけ振り返ってみたら、少女が満面の笑顔で跳ねながら手を大きく振ってくれていた。それだけで満ち足りるのであった。
叱られつつも、延長15回まで延びに延びたその試合を、ドーム型のプラ容器に入ったオムライスを頬張りながら楽しんで、ほくほくの体で帰路につくのであった。
明日からまたあそこのコンビニに通ってヘッドを出すぞ、との無駄な決意を新たに、とっぷり暮れて街灯が眩しく照らす駅までの道を、「マンホールを踏んでいる時しか息できない」という謎ルールを課しながら従兄と共に走っていく。
その頭上に、確かに光るひとつの光点。
(終)
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