ナイフ

ひゐ(宵々屋)

ナイフ

 日付が変わって、しばらく経った。

 僕はついに自室を出た。静かにドアを開けて、足音を消して廊下を歩き出す。暗かったけれども、自室を真っ暗にし、耳を澄ましてこの時を待っていたから、もう慣れてしまっていた。ぼんやりと長い廊下が見える。しかし目的のドアは暗闇の向こうにあって、まだ見えない。

 家の中は物音一つしない。父さんも母さんも、もう寝ている時間だ。そして姉さんも部屋で眠っているはずだ。けれども油断してはならない。決して物音をたててはいけない。

 向かう先は、同じ二階にある姉さんの部屋。この家はそもそもやたらと広いのでけれども、いまはいつも以上に広く感じる。廊下が長すぎる。姉さんの部屋まで遠すぎる。昔は同じ部屋だった。でも成長するにつれ、隣同士の部屋に分けられ、そして気付けば姉さんの部屋は遠い場所にあった。

 一歩、また一歩と進むたびに、心臓が破裂しそうになる。嫌な緊張感。見つかったらどうしようかという不安。しかし裏には心地のいい緊張感。きっと、恋の告白をする前のような昂ぶりなのだろう。希望と絶望が入りまじった、この気持ち。

 やっとのことで姉さんの部屋の前に来ると、ゆっくりとドアノブを回した。幸い、鍵はかかってなかった。ドアをわずかに開けた瞬間、黄色っぽくて弱々しい光が廊下に漏れ出す。姉さん、まだ起きていたのだろうか。だとしたら困るのだけれど、それでも嬉しい。

 でも部屋の中から物音がしないので、どうやら姉さんは起きてはいないようだった。もし起きていたら、すぐに僕に気付くはずだから。

 そっと侵入してドアを閉める。その際音もなく鍵をかけた。これで誰も入ってこない。これでこの部屋は僕と姉さんだけの世界になる。

 ここまで到達できたことに深呼吸をすると、姉さんの匂いが体中に満ちた。それは魔力を持っているようで、僕は思わずぼんやりとしてしまう。姉さんの部屋は綺麗に片付いていた。僕の荒れた部屋とは大違いだ。床にはゴミひとつなく、本や大学で使っている教科書もちゃんと棚に並んでいる。

 姉さんの部屋は、僕の部屋を鏡に映したような部屋だった。綺麗な調度品が、僕の部屋とは鏡合わせになるように置かれている。僕の部屋と、そっくりなこの部屋。ただ、全体的に女の子らしい。僕の部屋にはないドレッサーが置いてあったり、衣装ダンスが一回り大きかったり、また装飾がかわいらしい。そして荒れていない。僕の部屋はあんなにも荒れているのに。

 それが何だか、憎たらしく思えてしまう。憎くて、悲しくて、寂しい。

 姉さんはベッドで寝ていた。天蓋付きの豪華なベッド。ゆっくりと隣まで進む。姉さんは首から下を隠すように布団に入り、仰向けで寝ていた。だから、ランプがついていたこともあって、顔がよく見えた。とてもきれいな顔。誰が見ても完璧と言うほどよく整った顔立ち。陶器のように白い肌。唇は何も塗っていないのに赤く、いま目は閉じられているものの、まつ毛は絵にかいたように長くて繊細だ。余計なものはなに一つもない美貌。長い髪こそは黒々としているものの、まるで西洋人形がそこに横たわっているようだった。いまは布団に隠れてしまっている身体だって、誰もが望むような理想的な体型であって、ドレスを着せたら本当に人形のようになるのだ。誰にも優しくて、どこか儚げな、美しい人形。

 眠る姉さんを見ると、不思議な気持ちになる。横たわる姉さんはまるでお伽噺の中から出てきたお姫様のようだった。キスでもしたら、目を覚ますのではないだろうか――しかし目を覚まされては困る。それに僕は王子様じゃない。長い廊下を歩いて来て、部屋に侵入して、傍らに立って、僕はあたかも夜這いをしているようだった。

 そして実際、欲望を突き刺すのだ。

 思わず笑ってしまった。欲望を突き刺す。間違いなく、僕がやろうとしていることだ……。

 せめて、最後に姉さんの瞳が見たかった。あの美しい双眸に見つめられたい。僕だけを見ていてほしかった。でもそれは叶わない。本当はこの白い肌に触れて温もりも感じたかったけれども、そんなこともできない。

 片手に持っていたナイフを両手で持ち直し、頭上で構える。まるで儀式をしているかのようだった。ランプの明かりはぼんやりとしているのに、それを受けて輝くナイフは鋭く冷たい。

 まさかこのナイフを、姉さんに使う時がくるなんて。いや、このナイフは、最初から姉さんに向けられていたのかもしれない。姉さんのために用意したものなのだから。

 ふと、人魚姫の話を思い出した。人魚姫は愛する王子を殺せず、自分が泡になってしまった。

 僕はそんなことにはならない。愛するお姫様を殺す。けれどもそのあと、泡になろう。

「姉さん――」

 漏れた自分自身の声は甘く、口元が綻んでしまった。

 さようなら。愛する姉さん。憎い姉さん。

 死んでくれ。


 * * *


 僕と姉さんは双子だった。ただし男女であることからわかるように、二卵性の。一卵性の男女の双子というのは、滅多にないそうだ。逆に言えば、僕と姉さんが一卵性だったなら、同性に生まれていたのだろう。

 僕と姉さんは二卵性だったけれども、よく似ていた。確かに顔立ちは少し違うけれども、考えることは同じで、雰囲気が似ているとよく他人から言われたものだ。その原因はおそらく、僕と姉さんは二人で一つと括られ、同じ環境で育ったからだと思う。そして僕と姉さん自身も、二人で一つだと思っていた。

 姉さんは、子供の頃から綺麗な人だった。それはびっくりするほど可憐で、みんなによく可愛がられていた。僕も姉さんと一つだから一緒に可愛がられていたけれど、僕なんかよりずっと姉さんの方が可愛らしくて愛されるべき存在だと思っていた。でも姉さんは自分よりも僕の方が綺麗だと言ってくれた。自分なんかより、僕の方が愛されるべき存在だ、と。そんなことはない、と僕はよく言ったけれど、姉さんにそう言われるのが大好きだった。僕は姉さんに大切にされていた。僕も姉さんを大切にしていた。

 幼い頃から僕と姉さんは何をするにしても一緒だった。食事ももちろん、お風呂に入るのも寝るのも一緒。僕と姉さんの関係は、あまりにも強固だったから、父さんと母さんでも離せなかったものだ。僕にとって姉さんとは僕自身であって、姉さんにとって僕は姉さん自身だった。

 ある雨の日のことを、憶えている。十歳の頃だ。寒い秋の日、激しい雨が降っていた。父さんと母さんはなかなか家に帰ってこない人たちで、でも僕と姉さんの世話は家政婦さんがやってくれていた。その家政婦さんが帰ってしまえば、僕と姉さんだけになる。そしてその雨の日も、時間になると家政婦さんが帰ってしまって、僕と姉さんはこの広い家に二人きりになったのだ。

 外は激しい雨で閉ざされ、僕と姉さんは広いこの家で二人きり。そうなると、まるで世界が僕と姉さんだけになってしまったようだった。

 僕と姉さんは何をすることもなく、ただ一緒にいて絨毯の上に座り込んでいた。そのうち、寒い、と姉さんが言った。僕も寒くて身体が冷えていた。そこで僕は毛布を一枚持ってきて、姉さんと一緒にくるまったのだ。毛布の下で、姉さんの手を握った。姉さんの白い手は、驚くほど冷えていて、けれども僕も同じくらいに冷えていた。互いの体温で互いを温めた。そうしていると、自分が溶けていくような気がして、気持ちがよかった。溶けて、姉さんと本当に一つになっているような感覚。いまでもよく憶えている、あの時僕と姉さんは一つだったのだ。

 ――一緒だと思っていたのは幼い頃までだった。成長するうちに、僕は姉さんとは別の生き物になっていった。

 そう、姉さんに初潮が訪れた時だった。僕の目の前で、僕には一生わかることのない痛みに、姉さんは苦しんでいた。僕はその痛みを分かち合えないのが悔しかった。今までずっと姉さんと一緒だったのに。僕は姉さんとは違う生き物になったのだと痛感した。そして――姉さんが愛おしくてたまらなくなった。

 別の生き物だからこそ、愛おしくなった。そして僕はそれまで姉さんと一つだったこともあって、姉さんにずっとそばにいてほしいと願った。いままでずっと一緒だったのだから、これからも一緒にいるべきなのだ、と。別の生き物になってしまったからといっても、離れるべきではないと。

 初潮以来、姉さんも僕とは別の生き物になってしまったと、自覚したようだった。それでも姉さんは、僕と同じことを考えたのか、前より僕と一緒にいるようになった。成長すればするほど、これから僕と姉さんは別々になっていく――そんな漠然とした不安を、互いに抱えていた。けれども離れないように、離さないように、そう言葉なく誓ったのだ。

 しかし、社会的にずっとそうではいられなかった。

 大人になるにつれ、僕と姉さんは一緒にいる時間が短くなった。一緒にいる時間が短くなる分、ほかの人と一緒にいる時間が長くなる。僕には耐えがたいものだった。姉さんと一緒にいられないのはもちろん、何より姉さんが他人と一緒にいるところを見るのが辛かった。姉さんが、そのままその人とどこかに行ってしまうような気がして。

 高校生の頃、偶然にも、姉さんが他の男から告白を受けている現場を見てしまったことがある。僕と姉さんはもちろん同じ高校に通っていた。クラスこそ別々にされてしまったものの、行きも帰りも常に一緒だった。けれどもその日、姉さんと一緒に帰ろうと校庭の隅で待っていたところ、いつまで経っても来ないから、ふと姉さんのクラスを見上げたのだ。そしたらそこに、姉さんがいた。

 姉さんは誰かと話していた。男子だった。全てを察した。

 僕は慌てて校内へ入っていった。思えば、ほかの男が姉さんを放っておくわけがないのだ。だって姉さんは綺麗だもの。

 姉さんを他の誰かに取られたくなかった。姉さんと僕はたとえ別の生き物になったとしても、ずっと一緒にいるべきなのだから。誰かにとられるなんて、考えもしたくなかった。

 教室にたどり着くと、すでにあの男子の姿はなく、帰り支度をする姉さんの姿だけがあった。姉さんは僕を見てびっくりしていた。それもそうかもしれない、僕は怖くてたまらなくて、ぼろぼろ泣いていたのだから。

「姉さん、どこにもいかないで。僕を一人にしないで」

 そう言うと、姉さんも泣き出してしまったのだ。

「大丈夫、断ったの。どこにもいかないわ」

 そしてこの時、僕と姉さんは約束した。互いにどこにもいかないと。ずっと一緒にいると。

 ――それなのに、姉さんは。

 僕と姉さんは、大学ももちろん一緒のところに入った。学部学科ももちろん同じ。ここにきて、僕はちょっと安心した。ここは高校と違って、比較的姉さんと同じ時間を過ごすことができる。できる限り同じ講義をとった。席も基本的に並んで座ることができる。

 僕と姉さんは、いままでに別々の時間を相当過ごしてしまった。別の生き物へとどんどん変化してしまった。けれどもここでなら、取り戻せるかもしれない。そして、やがては昔のように一つになれたら。そんなことを願っていた。

 しかし裏切りは突然だった。

 姉さんに彼氏ができた。

 驚くほど美人である姉さんは、昔から告白されることが多かった。けれどもいままでずっと断ってきていた。僕と一緒にいるためだ。それが突然、彼氏を作ったのだ。

 その事実を教えてもらったのは、二十歳の誕生日。二十歳ということで、僕と姉さんは互いにカクテルを作りあった。僕が作ったのは、コーヒーリキュールにベイリーズ、アマレット、生クリームにミルクという、非常に甘いものだった。このカクテルにするべきか迷ったけれども、思い切って作ってみた。すると姉さんも全く同じものを作って僕に差し出してきたので、互いに笑ってしまった。僕と姉さんは、二十歳になっても考えることは同じだったのだ。別の生き物になっていくけれども、僕と姉さんはまだ一緒の存在であるという、確かな証拠だった。

 けれども、そのあと言われたのは、裏切りの言葉。

「私、彼氏ができたの」

 僕は信じたくなかった。

 それ以来、姉さんが大学内で他の男と一緒に歩いている姿が見られるようになった。あまりにも冷酷な事実だった。

 でも僕は、心の奥底で姉さんを信じていた。あれは、姉さんの気まぐれなのだ。そのうち別れて、僕のところに戻ってきてくれるはずだ。姉さんだって、本当は僕と一緒にいたいんだ。けれどもきっとあの男の勢いに圧されて嫌々付き合っているんだ。

 だって約束したじゃないか。

 しかしいくら待っても姉さんはあの男と別れない。そして今日、夕食のあと、姉さんは僕に言ったのだ。

「今度、彼氏の家に泊まりにいくことになったの……私初めてだから、ちょっと怖いわ」

 男の家に泊まりにいくとはつまりそういうことであるし、姉さんの口ぶりもそういうことであった。

 僕は許せなかった。僕は姉さんを信じて、戻ってくるのを待っていたのに。そして姉さんが他の男にとられる、遠くへ行ってしまうことは、どうしても阻止しなければいけないことだった。何よりも、性交をするなんて――つまり姉さんが他の男と一つになるということだ。姉さんは僕と一緒であるべきなのに。

 僕はもう我慢できなくなった。そして悲しくなった。僕と一緒だった姉さんはもういないのだ。姉さんは僕を裏切った。

 部屋に戻って、枕の下に隠していたナイフを手に取った。そして夜を待った。みんなが寝静まる夜を。

 このナイフは、いつか姉さんを取ろうとする男がいたら、刺し殺してやろうと思って用意していたものだ。けれども結局、そんなことはできなかった。できていたら、姉さんが今日あんなことを言い出さずに済んだのに。姉さんの彼氏を殺したら、姉さんが悲しむんじゃないかと考えてしまって、できなかった。僕は誰かに姉さんをとられるのも嫌だけれども、姉さんに悲しい顔をしてほしくない。僕まで悲しくなってしまう。だからナイフを使うことがなかったのだが、今夜、ついに持ち出す。

 標的は彼氏ではなく、姉さんそのもの。

 裏切り者の姉さん。それでも僕は姉さんが愛おしくてたまらなかった。誰かにとられるのなら、どこかにいってしまうのなら、僕がこの手で姉さんを殺してしまおう。そうしたら、姉さんはほかの誰にもとられなくて済む。僕のこの愛おしい憎しみも果たせる。姉さんを殺したら、僕もすぐに死んでしまおう。それで姉さんを追うのだ。

 このナイフは僕の欲望で、絶望で、希望で、愛情だった。


 * * *


 振り上げたナイフを、なかなか下ろせずにいた。

 僕は姉さんが憎くて憎くて仕方なかったけれども、それと同じくらい愛していたから。でもここで姉さんを殺さなければ、姉さんは遠くへ行ってしまうのだ。他の男と一つになってしまうのだ。

 殺さなければ、姉さんは僕のものにならない。

 目を瞑る。手が震えていた。それでも息を止めて。

「――やっときてくれたのね」

 不意に、愛おしい声が聞こえた。僕が目を開けると、姉さんが目を開けていた。美しい大きな瞳。僕が最後に見たかった、姉さんのまなざし。

「姉さん……」

 ああ、なんて綺麗なんだろう。僕は頭上で構えていたナイフを下ろした。ナイフはそのまま手から滑り落ちて音もなく床に転がる。

「いつ来てくれるのか、気が気じゃなかったわ。来てくれないなんて考えたら、それこそ気が狂ってしまいそうだった……」

 姉さんは囁くように言うと、身体を起こした。布団がずり落ちたその下は、一糸まとわぬ姿だった。下着も何もない、白い身体。姉さんはその細腕で僕を抱きしめた。姉さんのぬくもり、姉さんの匂いに包まれる。すごく懐かしかった。子供の頃はよくくっついていたのに、この長い間、手を繋ぐことすらも減ってしまった。

 姉さんに抱きつかれて、僕も姉さんを抱き返す。姉さんの体は華奢で儚かった。白い肌は滑らかで、柔らかい。

「姉さん……どうして僕を裏切ったの……どうして僕を一人にするの……」

 僕は泣いていた。そして姉さんも泣いていた。

「あなたが遠くへ行ってしまうような気がして……」

 そんなことはなかった。僕は絶対そんなことはしない。

 驚いて姉さんを見ると、姉さんはとても傷ついたような顔をしていた。それはまた儚げで、かわいそうで。

「大学で、ふと窓の外を見たら、偶然あなたを見つけたの。あんなに遠くからあなたを見たのは初めてだった……あなたは、ほかの女と歩いてた……それを見ていたら、あなたがそのままその女とどこか行ってしまうような気がしたの……あなたは私のことを愛しているから、ほかの女のところにはいかないと知っていたけれども、それでもあなたが私から離れてどこかへ行ってしまうような気がして、怖くて怖くてたまらなかった……」

 何かの機会で、女と一緒に歩くことはあった。けれども僕自身は全くなにも意識していなかった。常に意識しているのは、姉さんだけだった。しかし姉さんには僕が、そういう風に見えてしまったようだった。

「姉さん……僕はいつも姉さんのことだけを考えていたよ」

「でも、でも怖かったのよ。私、女に嫉妬したのよ。あなたがとられるって。そのまま遠くへ連れ去ってしまうんだって。それで……怖くなったの」

 姉さんは僕の胸に顔を埋める。温かい身体は震えていて、まるで傷つききった小動物のようだった。

「あなたに戻ってきてほしかった。そばにいてほしかった。でも口に出すことはできなかった……だって私とあなたは自然に一つであるべきだと思ったの。そうでしょう? でも私、怖くて……だから、あの男に告白されたとき、付き合ってみようと思ったの。そうしたら、私がしたように、あなたが嫉妬して戻ってきてくれるんじゃないかって、思ったの。それでも、あなたは付き合い始めた私を見守るだけだった。絶望したわ、あなたは遠くへ行ってしまったんだ、もう私のことなんてどうでもいいんだって……それで最後の賭けに出たの。もし私があの男と寝ると言ったら、どうなるか」

 姉さんは僕から腕を離すと、枕の下に手を入れた。そこから引っ張り出したのは、ナイフだった。僕のものとは違う形で小振りだけれども、刃物であることは確か。首にでも刺せば、相手を殺すことができるだろう。

「あの日から、怖くてたまらなくて、悪夢を見るようになったの。あなたが誰かにとられる夢よ。だから、もしそんな奴が現れたら、これで殺してやろうと思っていたの。でも、もし私がとられる日の前に、あなたが会いに来てくれなかったら、これであなたを殺して、そのあと死ぬつもりだった……あなたに裏切られたということだもの。そしてあなたがいないのなら、私もいない……でも、あなたはこうして来てくれた。ずっと待ってた……」

「姉さんは、ずっと僕のことを想ってくれていたんだね」

「あなたがナイフを持って部屋に来てくれて、嬉しかった。あなたは私を殺そうとするほどに愛してくれているのね」

 再び僕を見た瞳は潤んでいて、涙は頬を伝って落ちていた。たまらなくなってその涙を舐める。そのまま唇まで移動してキスをする。姉さんとのキスは初めてだった。ずっとしたかった。けれども今までできなかったのだ。

 姉さんの持っていたナイフがベッドに落ちてわずかに跳ねると、床に転がっていた僕のナイフと音もなく並んだ。構わず僕と姉さんは舌を絡ませる。姉さんの舌は熱かった。ふと、何故か憎くなって、姉さんの舌に歯を立てる。いとも簡単に血が出て、口の中は姉さんの血の味でいっぱいになった。すると、姉さんも僕の舌を噛む。鋭い痛み。血が出ているのがわかる。姉さんはその傷を、えぐるかのように、けれども愛おしむかのように舐めてくれる。

「ねえ、あなたと一つになりたい。戻りたいの……いえ、本当の意味で一つになりたいの、お願い。もうどこにも行かないで。私のそばにいて。私を離さないで」

 言われる前に、僕は姉さんをそっと押し倒していた。姉さんは生まれたままの姿で僕を待っていた。ずっとずっと待っていたのだ。僕も一つになりたい。

 子供の頃は知らなかったけれども、大人になった僕と姉さんは、本当の意味で一つになる方法を知っていた。二卵性の男女で生まれた意味が、いまここでようやくわかった気がした。僕と姉さんは男女だからこそ、一つになれる。

 昔のことを思い出していた。あの激しい雨の夜。あの日、子供だった僕と姉さんはくっついて、互いの体温に溶けそうだった。

 そして今も、互いの体温で溶けてしまいそうだった。今度は本当に溶ける。溶けて一つになるのだ。

 もう誰にも姉さんを渡さない。僕はどこにも行かない。鍵をかけた部屋の中には、僕と姉さんだけしかいなくて、僕と姉さんだけの世界だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナイフ ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ