A18.ヒップホップの初期衝動
乙戯が万羽市図書館の館長になったことによる変化は、あまり多くはなかった。
元々、図書館は市の施設。無料開放されていたものを個人で運営するには、システムの変更に多大な時間が必要となる。当面の間は、これまで通り市が管理することになった。
「え、ちょ、聞いてないんですけど。私は一国一城の主のはずでは……?」
市の管理である以上、乙戯に大した決定権はない。
喫茶『太陽』はそのまま。図書館司書も牛谷氏が一人で務めている。
変化を強いて挙げれば、入荷する蔵書がこれまで以上に乙戯の趣味(ファンタージ小説)に寄ったことくらいか。
あとはそう、AVルームが全て乙戯のものになった。
ひとまず寝室とリビングと応接間に切り分けたらしいが、端から見てもあまり有効活用できているとは言えず、すでに持て余し気味のようだ。
「乙戯てめえこら、殴り込みだこら、一発かましてやるから食らえこら」
「ふふん? まぁ構いませんけど? 今日も私の勝ちですよ?」
応接間は、基本的にこらこらやって来る切見の相手をするのに使われていると、これは牛谷氏経由の情報だ。
乙戯の大会での呼びかけに応え、彼女の客として訪れる万羽市民も未だゼロらしい。まぁそれもそうだろう。
乙戯は大会後も図書館のAVルームを住居としているが、何日かに一度は大名賀邸で夕食を取っているのだという。こちらは琴姫さんからの情報だ。
「寂しがる姉がいるようなので……」
とにやついた笑みを浮かべる乙戯が可愛かったと、琴姫さんは語る。
つまるところ、図書館に変化はなかったが、乙戯自身には大きな変化があったのだ。
『超新星を蹴飛ばした彗星ラッパー 御伽噺』
そうタイトル付けられたブログ記事がネットにアップされると、ヘッズの間で乙戯の存在は大きな話題を呼んだ。
彗星とはよく言ったもので、ラッパーとしての乙戯の姿は、万羽市MCバトル大会でしか見られなかったものだ。メトロを倒したのはどんな才能だ、と界隈がざわついていた。
乙戯は、自他共に認めるラッパーになったのだと思う。
――――。
さて、それじゃあ、俺は?
俺は、乙戯に自分を託していた。
おそらくあいつも、それを知っていて、だから大会でああいう言葉を放ったのだと思う。
大会の終わった夜、自宅で辞書を引いてみたものの、この感情の正体を知ることは叶わなかった。辞書というのは最低限の言葉でしか物事を記していない。単に日本語が並んでいるだけ。ラップとは大違いだと俺は思った。
結局、俺がこの感情の名前を知ったのはヒップホップを聴いていた時のことだった。
いくつかの曲に共通する概念が見つかり、ようやく俺のこれは『憧れ』と呼ばれるものなのだとわかった。
俺もああなりたいと、乙戯の姿に羨望を抱いた。
しかしそこまでならこれまでと同じだ。
ああなりたい、だけじゃない。その先があった。
憧れにも種類があることを俺は知った。
近くで眺めるだけでは駄目だった。俺も、あの場所に立ちたいと感じた。
音を乗りこなしたいと思った。
俺の内に篭もるこの感情を吐き出したいと思った。
歓声に包まれたいと思った。
スポットライトに照らされたいと思った。
焦がれて、憧れて。
鳴り止まないビートが、俺の口を開かせたのだ。
ぶうん、と、ふいにスマホが震える。
何かと見れば、俺たち三人のSNSグループ宛に、切見から一枚の画像が送られてきている。
『ほれ、クソザコ女の姿だぜ』
そこには、アマテルズの連中や牛谷氏などを背に、図書館の駐車場で拳を突き上げるメトロと、地面に跪いて打ちひしがれる乙戯の姿が写っていた。
『なんだこれは』
そう送ってやると、今度は乙戯からメッセージがある。
『見ればわかるじゃないですか! メトロに負けたんですけど!』
……なるほど、メトロが乙戯へ再戦を申し込んだわけか。思えば二人は同じ赤星学校だ。連絡を取るのは簡単だったんだろう。
『魚類! 練習です! 次は私が勝ちますから!』
乙戯からの、特訓の要請。
……以前と今とでは状況が違う。
俺に教えられることは全て教えた。
作戦を一緒になって考えてやることは出来るだろうが、すでに乙戯は一人でも十分にバトルへ臨める地頭を身につけている。
俺にやれることと言えば、ビートを鳴らすことくらいのものだ。
――――。
しかし、本当にそれで良いのか?
変わったのは乙戯だけか? 状況だけか?
俺は、はたして、変わりたくはないのか?
キックが、スネアが、胸の内でビートを刻む。頭の中からは言葉が溢れてくる。
変化はすでに始まっている。あとはもう進むだけだ。
『構わないが、できれば条件を付けさせてほしい』
『なんですか! まあ大抵のことなら聞いてあげますけど!』
『バトルの練習の相手役として、俺も混ぜてくれ』
俺がそのメッセージを送ってから、乙戯のメッセージまでは1分ほど時間が空いた。
『てことは、見つけられたってことですかね?』
俺の事情を知っている乙戯に、「何を?」と返す必要はなかった。
『その通り』
乙戯は、猫が真顔で「超うける」と叫ぶ、腹の立つスタンプを送ってきた。
何が何やらわかっていない切見は『ポエム野郎共こら説明しろ』などと言っているが、特に答える気もなく俺はスマホをベッドへ放り投げる。
それよりも俺にはやるべきことがあるのだ。
「この感情の誕生日……参上したからには……やってやんぞう」
乙戯のことを言えたものではない。クソみたいな韻だ。恥ずかしくなってくる。
それでもあいつは何度も練習を重ねて、あの場所へ立った。
俺にだって、やって出来ないことはないだろう。
PCを立ち上げる。ビートを流す。足でリズムを取る。体を揺らす。
あー、あー、と少しだけ発声練習、小節の区切りから踏み始める。
「感情 誕生 参上 ……参謀 肝臓 ……参考 ……感動 バンド 難航 ……山村」
意味は通っていない。ビートにもいまいち乗れていない。
もどかしくはあるが、それでも俺は楽しかった。嬉しかった。
「寒村 行灯 シャンソン ……ちゃんぽん ……半ドン …………冠婚葬祭」
俺は韻を踏み続ける。
「搭載 交際 要塞 ……濃彩 ……正体 交代……広大 …………東西南北 単独 バンコク 満足――――」
そしてラッパーになる MC三郎 @mc_saburo
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