猿神

安良巻祐介

 村から数町、古樹ばかりが目立つ大白髪の森の、夜叉の根戸と異称される岩屋に一匹の老猿が棲んでいたが、ある雨の晩に自殺した。

 通いの猟師が、明くる朝、いつも聞こえる老猿の野良念仏が聴こえぬことを訝しんで、死を覚悟して岩屋へと踏み入り骸を見つけたもので、獣の自殺とは実に珍しいと最寄りの寺より物好きの住職が見聞に来たが、村人たちが囲む中で専門の獣ばらしと共に猿の死骸を調べていた坊さんは、やがて首を振りながら立ち上がり、これは猿ではない、人じゃと恐ろしい事実を告げた。

 総身真っ白な銀毛に覆われ、目玉は黄色く濁り、口は耳までも裂け、覗く牙は鬼の如く、手足の爪は鋭く、簑のひとつも身に付けぬ姿であったが、これが人だというのか。震えながら尋ねる村の男どもに、この猿は念仏を唱えておったそうじゃなと坊さん。

 しかしそれは、畜生と言えども年経たならば念仏くらいは唱えるぞ、しかも人に近い猿ならばなおさらだと、庄屋が青い顔で言う。

 坊さんは渋い顔で、それは全くの見当違いじゃ、皆はこれを猿の経立ふつたちじゃと思うておったのだろう、しかしそれは違ったのだと苦しげに吐いた。

 その傍らで、曲がり背の獣ばらしの男が、老猿だと思われていたものを解体し終わり、喉の潰れた低い声で、すっかり様相が変わり果ててはいるがこれは人の肉と骨じゃと告げた。

 人々が動揺する中、では、なぜ、このような姿に、と、村の老婆が呟くと、老僧は数珠を揉みながら、ばけものと言うのは、孤独、寂しさ、無常に押し潰された人や獣が化すると聞く、この男がいつからあの森の岩屋に棲んでいたかは知らぬが、それだけの年月の孤独が、男を猿に間違うほどの様相に変えてしまったのじゃろう、何とも悲しい話じゃと、今は静かに目を閉じ、眠っているような表情をしているその生き物の首へと向き直り、頭を垂れて南無阿彌陀仏を唱えた。

 人々は恐れざわめいていたが、やがてそのざわめきは少しずつ静まっていった。辺りが血だらけなのにも関わらず、その首の有り様は不思議と安らかで厳かで、血の紅さえもこのばけものの永き孤独のようやくの終わりを祝い、或いは彩る送り火に見えて、住職に倣って獣ばらしの男が深く首を垂れるのに続き、村人たちも次々とその首を伏し拝み始めた。

 そして、その日のうちに村の総出で祠を立てて、この先寂しくないようにと子どもたちの手になる雛をも飾り、交代で供物と水を代える決まりを作り、名も知れぬ男の菩提をば、末長く弔うたということだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猿神 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ