僕の「初恋」

舞浜 リョウ

第1話

彼女との出会いは、小学二年生の時だった。

僕は当時から人付き合いが苦手で、遊びに行くクラスメイトを横目に、ずっと本を読んでいた。彼女も休み時間は本を読んでいたから、きっと僕と同族なのだと思った。でも、違った。

ある日、クラスメイトが彼女に声をかけた。

「ねぇ、一緒に外でドッヂボールしようよ」

僕は羨ましくて仕方なかった。僕にも声をかけてくれないだろうか。ああずるい。憎い。

しかし彼女は笑顔で言った。

「本読みたいからいいや」

そう、彼女は僕と違って人付き合いが苦手なわけではなかった。純粋に本が読みたかったのだ。

僕はハッとして、申し訳ない気持ちになった。勝手に同族意識を抱くなんて。

もう本の内容も入ってこない。外からはクラスメイトの笑い声。彼女はきっと、いつも通り本を読んでいる。真っ直ぐ伸ばした背筋で、愛おしげにページをめくっている。

僕はまるでその行為が大罪であるかのように、顔をそっと上げた。一番後ろの席の僕。窓際で前から2番目の席の彼女。彼女の髪が、窓から入った風になびく。彼女が鬱陶しげに頬にかかる髪を耳にかける。

きっとあの時の僕の気持ちは誰にもわからないし、わかってもらう必要も無い。つける名前もいらない。

その日から僕は、彼女のことがどうも気になっていた。彼女と話をしてみたい。どうしたらいい? どうしたら、彼女は僕の方を振り返るのか?

そこで、僕は頑張ることに決めた。人付き合いを、勉強を、運動を。他人なんてもうどうだっていい。彼女と話せるなら何だっていい。全員道具だ。僕のコミュニケーションツールだ。僕はトップカーストに立って、彼女に声をかけようと思った。

結局、その年は彼女と話せなかった。次の年、クラスは離れてしまったが、廊下で姿を見る度に頑張ろうと思えた。どれほど不器用だろうと、仲良くなった人間に裏切られようと、本当に笑顔になることがなくなろうとも。

その次の年、僕はまた彼女と同じクラスになった。相変わらず休み時間は本を読んでいる彼女に、やはりどう声をかければいいかわからない。彼女の前に立つと、急に手の汗が止まらない。

そんなとき、クラスの友達が彼女と幼なじみなのだと知った。友達を上手く丸め込んで、僕は彼女と友達になれたのだった。

彼女は僕と2年前同じクラスだったことを覚えていなかった。好都合だった。2年前の僕は、今の僕以上に嫌いだから。

でも、彼女はやはり僕を本当に見てはいない。僕と話している時、きっと今、本の内容について考えているのだなと思うことが多々あった。

どうして。僕は変われたのに。変われたはずなのに。

それなら僕だって、とヤケになった。もう他人となんて話したくない。彼女以外の人間なんて嫌いだった。ある昼休み、僕も本を読み始めた。

そんな僕を見て、つまらない、と友達は他の人と遊びに行ってしまった。

ああ、努力が全て水の泡だ。馬鹿げたことをした、と思った。足音が聞こえた。教室には2人きりのはず、だった。

驚いて顔を上げる。

「ごめん、邪魔した? 何読んでるのか気になって」

彼女が真っ直ぐに僕を見る。僕は、2年前の僕ごと救われた気になった。なんだ、簡単なことだった。

「その本、私も読んだことある」

「面白いよね。私○巻が好き」

彼女が、僕と話す。僕の言葉で笑う。それだけで満たされた。全部、ぜんぶ満たされた。

僕はまた人付き合いを頑張る気になった。でも友達をもう道具とは思っていない。全員生きているのだと気づいた。友達が笑うと、嬉しい。世界が色づく。形が変わる。生まれ変わったような気持ちだった。

それからまたクラスが離れて、でも廊下で会えば話をするようにはなった。話し終えて、彼女が通り過ぎる。僕はふと振り返る。彼女の髪が、あの日と同じように揺れる。どうも泣きたいような気持ちになる。

そうしてるうちに中学生になった。僕はある部活に入ろうと思っていた。楽な運動部。やはり僕はどれだけ頑張っても運動が出来なかったから、ちょうどいいと思った。

部活動体験が終わって、帰る途中。やはりあの部活に入ろうと心に決めた。そんなとき、横断歩道を5、6人で渡る同級生が目に入った。まさかと思った。中央で眩しく笑っていたのは、彼女だった。

6年生の時に仲のいい人達がいるとは聞いていたが、実際見るとショックだった。何故かはわからないけれど。

彼女たちはみんなある部活に入ると言った。厳しいと噂の運動部だった。

僕は何を思ったのだろう。その翌日、その部活の体験に来ていた。

「あれ、君もこの部活に入るの?」

彼女は僕を見て首をかしげた。そういう、まるで本の登場人物のような仕草をする所は変わっていない。僕は下心を隠して、理由を聞かれたらなんて答えよう、「君がいたから」? そんな馬鹿な、と思いながら、ちゃちな理由を付けて肯定した。

「そう。嬉しい」

彼女は笑顔で言った。……はあ、彼女はこんな人間ではなかった。こんな簡単に嬉しいなんて言う人間ではなかった。あの友達とかいう奴らに変えられてしまったのか。なんて残念なことだ。そう考えながら、僕は熱くなる顔を逸らした。

部活動というのは、素晴らしいシステムだと思う。同じ部活に属しているだけで、毎日、土日まで彼女に会える。どさくさに紛れて一緒に帰ったりも出来る。口では面倒臭いとか、休みたいとか言ってみたりもした。彼女は僕の嘘にも気づかずに、僕をいちいち宥めてくれたのだった。

僕は彼女を見る度に癒された。でも、だんだん辛くなってきた。彼女は見る度誰かと笑い合っているから。そんなとき僕は、今すぐあそこに駆け寄って、彼女の手を引いて連れ去ってしまえたらと何度も思った。相手のことを何度も呪った。

この気持ちはなんて言うのだろう。多分、僕はもう知っていたのだった。でもそれを認める訳にはならない。何故なら、彼女は僕に絶対に、一生、同じ種の気持ちを抱くことがないとわかっていたからだ。これは自分に自信が無いからとかそういう次元の話ではない。生き物としての道理であった。

ネットで調べてみたら、僕のこの気持ちは一過性のもので、気の迷いで、この年代にありがちなことらしい。

だから、高校に入ったらきっと、と思った。彼女とは別の高校に入った。

そうして、入学してすぐ僕はその気持ちを抱く事が出来た。ありふれたほど劇的なきっかけ。これだ、と思った。ただ甘いだけの気持ち。彼女の時のように苦くない。純粋な砂糖菓子。これこそが、皆が夢中になる恋愛感情とやらだ、と思った。

だが、その人からある日聞いてしまった。クラスに好きな人がいることを。

僕は、ただへぇと言った。あれ? なんでだろう、なんの気持ちも抱かない。

きっと自覚がないのだ、と思った。まだ失恋した自覚がないのだと。

そして暫くあとに、その人には恋人ができた。

僕は、良かったねと言った。あれ? なんでだろう、なんの気持ちも抱かない。

そこで僕は、恋の定義にすがった。僕は焦って辞書を引いたり、ネットで調べたりした。その内容をまとめて、なんで、ああ、もう、彼女の顔しか思い浮かばなかった。

いや、でもやはりあの気持ちを認める訳にはいかないのだ。だって、実はあの気持ちが今も消えていない。一過性のはずだろう、思い込みに過ぎないのだろう?これではまるで初恋だ。

僕は考えた。そうだ、あの人に恋出来なかったのは、あの人が僕を好きでなかったからではないか?だから僕は安心してあの人を好きになれなかった。では、僕が誰かに好かれればいい。

クラス替えがあった。新しいクラスで僕は出会ったのだ。僕によく似た人。僕は自分が好きなタイプの人間を演じた。だからその人は、僕が想定するように僕に応答し、頬を染めた。僕が話しかける度に嬉しそうに笑うその人を見て、そうだろう、僕の理想は完璧だろうと嬉しくなった。それを恋愛感情だと信じた。僕の演技は自分の心までをも騙してみせた。

その人と仲良くなって、一緒に帰るようになった。時折甘い目で見つめられると、こそばゆい気持ちになった。ミルクチョコレートで心が満たされた。

だが、そんなある日。あれは夏の日だった。夏の下校中、その人はまるで他愛のない近況報告のように、サラリと言った。

「君が本当はどういう人間なのか知っていた」

と。

その瞬間、甘いキラキラしたチョコレート菓子が一気に溶けた。

その中から現れたものは、酸味でも辛さでも、もちろん甘さでもない。ただ虚無だった。何も無かった。強いて言うなら冬の朝の冷たい空気だった。

あの日、蝉が鳴く傍らで確かに私はそういう空気が通り過ぎていくのを聞いたのだった。

もうそれからは何も思えない。でもその人は私の事をまだ愛おしげに見つめるのだ。

ああ、この人はもしかしたら、最初から気付いていたのかもしれない。

この目、この優しい声は、最初から本当の僕に向けられていた。

そう思うともう気持ちが悪くて、寒気がして、全て理解出来て私の思う通りに動いていたはずのその人のことがわからなくなった。ただおぞましかった。

もうその人と目を合わせることさえできない。

本当の自分を好かれて、嬉しいはずじゃないのか?だが、もうどうも気持ちが悪い。僕はその人を誑かしてしまったのだ。罪悪感で押し潰されそうだった。しかも、一旦自分にかけた暗示を解いてしまえば、その人は僕によく似ていた。世界で一番嫌いな僕に。すぐにその人のことを避けるようになった。

僕は一生恋愛感情を抱けないのではないかと思った。絶望した。泣きそうになった。気づけば冬だった。

冬の最寄り駅。彼女の行った高校の制服を着た女の子。彼氏らしき人を見上げて楽しそうに笑う。髪が、揺れる。あの日やあの時と同じように、揺れる。彼女本人だった。

僕はふと、あれ? 彼氏の方、SNSで見たことあるなと思った。彼女は気づかず通り過ぎて行った。僕はその時気がついた。あ、無い。あの気持ちが、もう、ない。

存在を頑なに拒んでいたのに、ずっと僕をニヤニヤ見ていたあの気持ちが、どこにもない。何も思えない。

大切なものは無くしてから気付くという。僕はもうそれがどんな形だったかさえ思い出せないのだった。

馬鹿だ、と思った。もう遅い、と気づいた。 もっと早く名前を呼んでやるべきだった。大切にしまっておくべきだった。

もう、呼べない。僕の初恋は、もうどこにもないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の「初恋」 舞浜 リョウ @maihama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る