8.どこかで

 わたしは雨となって上空からり注いだ。

 厚くわだかまる灰色の雨雲あまぐもは、私たちを手放した。私たちは旅立ち、もう振り返らなかった。雨雲は熱気を失い、私たちを浮遊ふゆうさせ、雨粒あまつぶへと育て上げることに、み疲れていたから。

 めた空気塊くうきかい下降気流かこうきりゅうが、私たちを地上へと攻め下らせた。私たちはまんして切って落とされた、空の軍勢だった。


 私は山中にり、谷あいのダムにめられた。浄水場じょうすいじょうで水道水にされ、蛇口から噴出ふんしゅつし、歯ブラシの先を濡らしてから下水道に流れ込んだ。

 晴れた日の下水道は、ゆるやかな勾配こうばいをひたひたと流れ下る、のんびりした道中どうちゅうだった。

 私のとなりにいた水分子が、ぶつぶつとつぶやいていた。

 「何を言ってるんだ?」

 「まあ、聞いてくださいよ。

 ぼくの生まれは太陽です。フレアの噴出ふんしゅつによって、宇宙空間に放出された、水素イオンでした。

 僕は暗く、冷たい、孤高ここうの宇宙を、ひたすら突き進んでいました。僕の心は栄光に満たされていました。このまま宇宙の果てまで旅を続けるんだ、そう思っていました。

 でも、僕の前に地球が立ちふさがりました。僕は地球の重力にからめ取られ、大気圏たいきけんに引きずり込まれました。ありふれた酸素原子さんそげんしと結合させられて、水分子にさせられて……今じゃこうして、下水道の中ですよ……」

 なんと、彼の体を形作かたちづくっている水素の部分は、宇宙からやってきたというのだ!


 私は、彼にたずねた。

 「宇宙は、どんなところだった?」

 「どうもこうも、ただの真空ですよ。真っ暗で、何もありません。ること自体は、たいして楽しくもなかったですよ」

 「降りてくるとき、地球はどんなふうに見えた?」

 「緑色の、オーロラがはためいていました。あれはちょっと、面白かったかな。でも、オーロラにひっぱたかれて、そのあとは、地球に吸い込まれるのがいやいやで……よく覚えていません」

 頼りにならない目撃者もくげきしゃだった。でも私は、がっかりしなかった。彼と私が、何かの機会に化学結合かがくけつごうし、同じ分子に組み込まれたら、その時は記憶を共有できるからだ。

 その時は私も、ひかるという女の子の思い出を、彼に伝えることができるだろう。


 私は、しばらくは水の流れが変わらず、彼と同行できるようにとねがった。しかし、彼がいつまでもぶつぶつ呟き続けるのには、困ったものだった。

 「ああ! 宇宙に帰りたい!……でも、もう帰れない! 地球が端微塵ぱみじんに砕け散ってくれないかなあ!

 ……砕けない。

 ああ、僕はもうんでる。僕は、終わったんだ……」

 私は、彼があまりにもうるさいので、なぐさめることにした。

 「水分子をやめるのは、簡単だよ。私たちが何かと化合かごうするのは、よくあることだから。でも、もうちょっと続けてみたらどうかな?

 きっと、いいことがあるよ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水分子の思い出 星向 純 @redoceanswimmer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ