7.雲のバルコニー

 私たちが築き上げ、たどり着いたのは、積乱雲の頂点、真っ白な雲の山の、頂上だった。

 雲は太陽の光を浴び、きらきらと輝いていた。氷の結晶だけがはなつ、純白のきらめき。硬くなめらかなようにも、ふかふかと柔らかいようにも見える。

 雲は時間とともに、その形を変えていった。千変万化せんぺんばんか見飽みあきることがない。

 雲が魚のように見えるとき、それは、魚の魂が目を覚まし、うれしそうに泳いでいるのだった。雲がイルカに見えるとき、それはイルカの魂が喜びのあまり飛びねているのだった。なぜなら、それらの雲を構成こうせいする氷晶は、海水面からき立った水蒸気と、海塩粒子かいえんりゅうしから作られていたからだ。その海塩粒子は、かつて海の生き物の血液に溶け込んでいたからだ。

 魚、イルカ、クジラ、海老えび、タコ、巻貝まきがい……全ての海の生き物の魂は、雲の神殿しんでん参詣さんけいすることを許されているのだ。いや、彼ら自身が、雲の神殿のはしらであり屋根であり、神像しんぞうであった。そして、私と光も。


 氷晶である私と光の魂は、風に乗ってのんびりと散歩した。光の魂は、わずかに、この世への思いを残していた。

 「お父さんとお母さんは、今も悲しんでると思う。わたし、もっと長く生きてあげたかった……」

 「君が生まれてきただけで、お父さんとお母さんはとても嬉しかったんだよ。君は精一杯せいいっぱい生きたから、それでいいんだよ。君は、とてもいい子だった」

 光は、不思議そうな顔をした。

 「わたし、ただの女の子なのに……雲さんは、わたしをとても大切にしてくれた。どうして?」

 「それは……」

 私は、光の中にあって、彼女の喜びも苦しみも、ずっと見守ってきたから。いつしか私は、光のそばから立ち去りがたくなっていたのだ。でも、私はそのことを光に言えなかった。私の、水のような冷静さがそこなわれるような気がして。

 イルカの魂が、私たちのそばに近寄ってきた。光と遊びたいようだ。光はたちまち笑顔になった。

 「イルカさんの背中に乗りたい!」

 イルカの魂は、口笛のような笑い声をあげ、なめらかな背中を光に差し出した。私と光を背中に乗せたイルカの魂は、雲海うんかいの上を泳ぎ回り、跳び回った。光は大喜おおよろこびし、われを忘れていた。

 光の魂は、あらゆる苦しみや悲しみから解放され、安らぎを取り戻していった。


 私たちは、イルカの背中から降りた。光はイルカにほおずりし、頭をなでた。

 「イルカさん、ありがとう!」

 イルカの魂は、軽やかな口笛を残して泳ぎ去った。仲間たちの群れに戻っていく。光の魂は、私の前でくるりと回り、いたずらっぽく微笑ほほえんだ。

 「ねえ、もっとお散歩しよ?」


 風下かざしものほうに、雲のバルコニーが伸びていた。積乱雲の頂点が、地球の空気の天井である対流圏界面たいりゅうけんかいめんにぶつかり、天井に沿って広がったものだ。

 私は、光を雲のバルコニーに案内した。

 見下ろした地上の世界は、おもちゃの国のように小さくてたいらだった。人間が積み上げることができるような高さは、雲の世界では何の意味も持たなかった。

 目の前につらなる積乱雲の峰々みねみねは、圧倒的あっとうてきなエネルギーと質量をそなえながら、とても柔らかく、自由自在に動いていた。私たち水分子だけが、この偉大いだい構造物こうぞうぶつを、地球上に出現させることができるのだ。

 見上げる空は、どこまでもあおく、果てしなく深く、恐ろしいほどだった。

 光は驚きのあまり、口もきけなかった。

 私たちが光に、最後に見せてあげられる一番素晴すばらしい光景だった。


 突然、光の魂は、私にき付いてきた!

 「ありがとう、雲さん! わたし……あなたのこと、大好き!」

 光のひとみからは、いっぱいの涙があふれそうになっていた。

 私は動揺どうようした。私は今まで、通算で10億年も水分子を続けてきた。様々さまざまな物を運び、数多あまたの魂を包んできた。でも、私が抱きしめられたのは、生まれて初めてだったのだ。

 私は……。


 夕陽が雲の峰を紅色くれないいろめ上げた。お別れのときが来た。

 「やさしい雲さん。私、あなたのこと忘れません。さようなら」

 「私も忘れないよ。光ちゃん、君に出会えてよかった。さようなら」

 光の魂は、沈む夕日に溶け込むように、去って行った。光が行った先は、水分子である私にも浸透しんとう不可能な、謎に包まれた世界だった。



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