6.六甲山系上空

 夏の中天ちゅうてんに差し掛かり、じりじりと大地をあぶっていた。

 熱せられた大地は空気をあたため、暖められた空気塊くうきかい膨張ぼうちょうし、浮かび上がり始めた。空気が浮かび上がった後の何もない所には、まわりの空気が流れ込む。その空気塊も大地の熱を受け膨張し、浮かび上がっていく。風が吹き始めた。上昇気流じょうしょうきりゅうが生まれたのだ。

 空気塊は水蒸気すいじょうきが大好きだ。水蒸気をがぶ飲みする。なぜか? 気化きかした水分子が抱え込んでいる高熱が欲しいのだ。空気塊のさらなる上昇に欠かせない、エネルギータンクだからだ。

 水蒸気の私と光の灰は、ある貪欲どんよく空気塊くうきかいに取り込まれた。

 「お前の熱はもらったぞ。文句は言わせない」

 「かまわない、この子を、雲の神殿に連れて行ってくれるなら」

 「それは俺の望みでもある。お前たちは天空で光り輝き、俺の勲章くんしょうになるのだ」

 こうして私たちは、上昇気流の一員いちいんとなった。


 私という水蒸気の中で、ひかるが目を覚ました。

 死の恐怖にさいなまれ、気を失ったたましいは、空へと昇り始めた時、目を覚ますのだ。

 「ここはどこ?」

 「空の上だよ」

 光の魂は、灰の中から立ち上がり、まわりを見回した。

 「わたし、空を飛んでる! すごい! あなたは誰?」

 「今の私は、水蒸気だよ。光ちゃん、君の魂を包んで、天国へ運ぶつとめをしている」

 「ここは、天国なの?」

 「天国は……」

 私は静かに答えた。

 「ここから10キロメートル、上空にあるよ」


 貪欲な空気塊の高度は、2000メートルを越えた。さらに上昇していく。次第しだいに空気が薄くなり、気圧が下がってきた。空気塊はさらなる膨張を許された。しかし内部にたされた熱もまた広がり、薄まった。

 空気塊の温度は下がり始め、浮力も弱まり始めた。墜落ついらく危機ききだった。だが彼はしたたかだった。彼は切り札をたくわえていた。私たちという切り札を。

 「頼むぞ、水蒸気たち」

 「まかせろ」

 私は、周りの水分子仲間に呼びかけた。

 「この子を、雲粒くもつぶにしてやってくれないか」

 「かまわんよ」

 「引き受けた」

 私たちは光の灰をしんにして寄り集まった。光の魂は戸惑とまどった。

 「えっ、あの……」

 「心配はいらないよ。見ていて?」

 私たちは一斉いっせいに熱を放出した。私たちは光の灰を芯に凝結ぎょうけつし、空気中に浮かぶ10ミクロンの極微小ごくびしょう水滴すいてきになった。これが、雲粒だった。

 「わたし、雲になった!」

 「そうだよ。雲に乗るんじゃない。雲になるんだ」

 光の灰は他にもあった。光の血液に溶け込んでいた塩の粒子りゅうしもあった。仲間たちがそれらに寄り添い、雲粒にした。私たちは、光の体を出来るだけ多く、上空に連れて行こうとしていた。

 貪欲な空気塊は、上機嫌じょうきげんだった。

 「熱を手に入れた! 俺はまだまだ、昇っていける!」

 大気が不安定になってきた。私たちは、雄大積雲ゆうだいせきうんを形成し始めていた。積乱雲せきらんうんの始まりとなる、雲のいしずえだ。


 真夏の太陽は大地をあぶり続けた。光の家族は、光のおこつをお墓に納めていた。

 光の魂は、空の上から、それを見ていた。

 「お父さん、お母さん、さようなら!」

 光の涙は、雨粒になった。だが地上に降ることはなく、私たちとともに上昇を始めた。


 陽は中天を過ぎていたが、地上の炎暑えんしょは留まるところを知らない。上昇気流に、新たな援軍えんぐんが到着した。それは、海風うみかぜだった。

 海水は、地面より温まりにくく、冷めにくい。熱せられた海水面かいすいめんが、海上の空気を暖め始めるのは、陸より一歩遅れる。発生した熱気ねっきの温度もやや低い。それらの熱気が、地上の上昇気流に吸い寄せられてきたのが、海風だった。海風は、出足はにぶいが、頼もしい後続部隊こうぞくぶたいだった。海からもらった水蒸気を、たっぷりと蓄えているからだ。

 複数ふくすうの海風が、我先われさきに上昇気流に吸い込まれようと衝突しょうとつし合い、上昇気流の足元には大気のうずが生じ始めた。

 もはやひとつの上昇気流だけでは、押し寄せる空気塊の上昇欲じょうしょうよくを満たすことは出来なかった。一つ、また一つと、新たな上昇気流が立ち昇ってきた。


 高度は5000メートルを越え、私たちは雄大積雲の上層部じょうそうぶに到達していた。天国にはまだ足りなかった。この先の雲のみねは、私たちがきずくのだ。

 貪欲な空気塊は、あせっていた。

 「熱が足りない! 雲粒たちよ、早くこおってくれ!」

 私たち雲粒(水滴)が熱を放出して、極小の氷の結晶になれば、空気塊はさらなる上昇に必要な熱を手に入れられる。それは私たちも望むところだった。だが、凍結とうけつできないのだ。雲粒はすでにマイナス20℃まで冷えていたが、凍るきっかけをつかめない。きっかけの到来とうらいを、私たちは待っていた。

 光の魂は、私たち雲粒を信じていた。でも、私たちが静かに待っている理由が分からない。光は私に問いかけた。

 「ねえくもさん、何を待っているの?」

 私は力強く答えた。

 「氷の芯になる物を。氷晶核ひょうしょうかくを」


 私という雲粒の中に、何かが突入してきた。それは遠い昔、インドネシアの火山から噴出ふんしゅつし、長い間高空を彷徨さまよい続けていた、3ミクロンほどの火山灰だった。その衝撃が、すで過冷却かれいきゃくされていた私たち水分子を、激しくき動かした。

 私たちは瞬時しゅんじに凍結し、六角柱状ろっかくちゅうじょうの氷晶になった。氷の破片が飛び散った。それは次々と周囲の雲粒に衝突し、凍結の連鎖反応れんさはんのうを広げていった。

 あっという間に全ての雲粒が氷晶に変わった。私たちは持てる熱の全てを吐き出し、貪欲な空気塊は一滴もあまさず熱を飲み込んだ。マイナス20℃といっても、絶対零度ぜったいれいどより253℃も熱い。

 貪欲な空気塊は、目も鼻も口もない巨大な顔で、氷晶である私と光の魂を見つめていた。

 「お前たちは、大したものだ……よし、熱の続く限り、どこまでも上昇するぞ!」

 「まかせた」

 雲内部うんないぶの上昇気流は秒速40メートルに達した。私たちは雄大積雲であることを超え、積乱雲の頂点を形成しようとしていた。



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