世界の広さは変わらない。

λμ

世界の広さは変わらない。

 なんだか無性に腹が立ち、千堂藍里せんどうあいりはふらりと家を出た。街は浮足だってて落ち着かなくて、人がいなさそうだからと美術館に入った。

 街の、小さな美術館。あるのは常設展だけ。人影は学芸員くらいのもので、ほとんどゼロだ。

 美術館って、何年ぶりだろ。

 物珍しさもあって、藍里はふらふらと展示室に入っていった。


 何も知らずに楽しめたのは五分だけだった。並んでいる絵は面白みのない風景画ばかりで、ほんの数人ばかりの客もみな流し見ている。そのくせ、堅苦しい雰囲気と静けさに肩が凝って仕方がない。

 早足で順路を歩いていくと、ひとり、熱心に絵を見つめる老人がいた。


 藍里は老人の視線の先を追った。あまり面白みの感じられない田舎を描いた風景画が、仰々しく飾られていた。途端にばからしくなった藍里は、からかうつもりで老人の横に立ち、隣にだけは聞こえるくらい微かに呟いた。


「こんな田舎の絵、時間の無駄じゃん」


 老人は少し驚いた様子で藍里に目を向ける。

 藍里は一瞬だけ老人と視線を絡ませ、すぐ脇を通り過ぎていった。

 やったった。

 得意になって、少し興奮していると、後ろから老人の声が飛んできた。


「無駄だから描いたんだよ」


 無駄だから、描いた?

 もしかして作者だったりする?

 足を止めてしまった藍里は、喉をこくりと鳴らして振り返る。

 白ひげを蓄えた老人が、少し得意そうな笑みを浮かべていた。


「私が描いたわけじゃないんだがね」


 カっ、と顔が熱くなった。藍里は慌てて駆け去った。

 野暮ったい眼鏡をかけた学芸員に走らないでと注意されながら展示室を飛び出し、少し離れたラウンジに隠れて、どこかの国のデザイナーが作ったらしい座りにくそうなベンチに腰かける。

 ここなら出てきた老人に顔を見られずにすむ。そう思っていた。


 瞼の裏に、さっきの老人の顔が焼き付いていた。

 どこか嬉しそうな、やり返してやったと言わんばかりの笑みだ。

 みすぼらしい格好をしているくせに。

 まるで路頭に迷ったサンタクロースみたいなジジイのくせに。

 口の中で悪態をついて瞼を開けると、路頭に迷ったサンタクロースが佇んでいた。


「――――」


 思わず、声が出そうになった。

 老人は相変わらずどこか嬉しそうな顔をしていた。


「隣、いいかな?」


 なんで? 藍里はそう尋ねることすらできず、そっぽを向く。老人はそれを了承と受け取ったのか、隣にすとん腰をおろした。


「人生は短く、世界は広い。だからだと、私は思うよ」


 老人は持っていた小さなビニール袋を開いて、中からポストカードを出した。


「ほら。私みたいな爺さんに話しかけてくれたお礼だ」


 言って老人はポストカードを差し出した。あの、面白みのない風景画のポストカードだ。いい絵だとはちっとも思わないが、カードになっているということは、有名な画家が描いたのだろうか。

 藍里は無意識の内に伸ばしかけた手を、さっと引く。


「いや、いらないし。こんなつまんない絵のヤツ」

「面白い絵のヤツだったら欲しかったのかい?」

「えっ……と、それは……多分、そう」

「まぁ、私みたいな爺さんに話しかけるなんて無駄なことをしたお嬢さんには、ちょうどいいお礼だろう?」

「別に……話しかけたわけじゃないし」


 ただ、からかっただけだ。

 からかったということは、話しかけた内には入らない。はずだ。

 老人はポストカードを差し出したまま、淡々と言った。


「人生は短く世界は広い。でも今は飛行機もあるし電車もあるし、移動するのが楽になったからね」

「……なに?」

「時間だよ。移動するのにかかる時間。短い時間で遠くに行けると、世界が狭くなったように感じられる。この風景を探すのがどれだけ大変だったのか、今の人たちには分からなくなる」

「私その、『今の人たち』って言い方、嫌いなんですけど」

「安心していいよ。私だって今の人だから。ジジイだけどね」


 藍里ははっとして老人を見やった。

 路頭に迷ったサンタクロースは、顔を隠すようにポストカードを掲げていた。


「この風景画が描かれたのは十六世紀らしい。分かるかな? 一五〇〇年代だよ。この頃、人間は皆、歩いていた。よっぽどの金持ちでも馬に乗るのが精々でね。彼らにとって世界は無限に近いくらい大きく見えていたはずだ。自分の見たことがない風景は、そりゃあ貴重だっただろうね」

「……それが? 今の私たちからみて無駄なら、無駄じゃん」

「おっしゃる通り。無駄だね」


 皺だらけの手がゆっくりとポストカードを下げていく。徐々に出てくる笑う老人の顔。

 老人は演技がかった仕草で藍里にカードを差し出す。


「その無駄が君や私を作っているんだね」

「……無駄が?」


 受け取らなければ終わらない気がして、藍里は仕方なしにカードをつまんだ。

 だが、老人は小さく首を縦に振っただけで、手を離そうとしなかった。


「昔の人は移動するのに苦労したから、なんでも貴重だった。今の人たちは移動するのが楽だから、なんでも無駄に思える。けど、さっき私が言ったこと、覚えているかな?」

「……いっぱいあったけど、どれのこと?」

「人生は短く、世界は広い」

「……でも世界の大きさは変わっていない?」

「そう。君が無駄だと思った風景は、昔の人には貴重だった。世界の広さは本当は変わっていないから、君は昔の人にとって貴重なものでできている」

「なるほ……ど?」


 藍里は胸の内で老人の言葉を反芻する。意味は分かる。なんでもないことが大事なんだとか、そういう説教のつもりだろうか。だとしたらなんて回りくどいんだろう。

 ――って、違う。

 藍里は力任せにポストカードを引ったくり、老人に絵を見せつけた。


「さっき無駄だから描いたって言ったじゃん! 全然違う話になってるし! 騙されるところだったわ!」

「いや、同じ話をしているよ」

「は? どこが?」

「この絵を描いた画家は、まぁ十六世紀だし、どっかの金持ちの息子かなんかだろうね。そしてこの絵を描かせたのも金持ちだよ。つまり世界を狭く感じていた。彼らは気づいていたんだよ。この風景はいずれ無駄になって、失くなってしまう」


 老人は藍里の目を真っ直ぐ見つめていった。


「無駄だと思うことは、あとでいくらでもできる。私くらいの年になると、振り返ってみればなんでも無駄だったように思える。でも、やっていた頃は、不思議と無駄だと思ってなかった」

「……世界を広く感じていたから」

「そう」


 老人は正面に向き直り、深く息をついた。


「私は年寄りが若者に説教をするのが嫌いだ」

「なに? 突然」

「だから、この世に無駄なことはないなんて、そんな嘘はつきたくない。この世は無駄なことばっかりだよ。でもそれは、君や私たちの世界が狭いからだ」


 老人はさてと膝を打ち、重そうに腰を上げた。


「覚えておくといいよ、お嬢さん。無駄は君をつくるが、無駄だと思うことは君を少し殺す」


 去り際にそう言い残し、老人は足を引きずるようにして歩いて行った。

 藍里は手元のポストカードに視線を落とす。どこか知らないヨーロッパの、古い田舎の風景画。どれだけ見つめていても何の感慨も抱けない、つまらない絵だ。


「結局、最後は説教じゃん……」


 行ってみたくはならない。見てみたいとすら思わない。

 無駄でしかない。無駄だと感じるのは変わらない。

 せっかくのクリスマス・イブ、一家総出で田舎に帰るという。

 私の世界は狭いんだろうか。

 藍里はポストカードを見つめて、ため息をついた。

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世界の広さは変わらない。 λμ @ramdomyu

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