第2話


 ビルの屋上には私のような輩を阻むために柵が設置してあった。柵は屋上の空間をぐるりと一周囲むように設置してありどこにも扉のような物は無かった。だが登ろうとすれば登れてしまうようだった。有刺鉄線などもない。仮に柵の向こうに行った自殺志願者がいるとしてそれを強引に止めようと思ったら柵の内から何かを引っ掛けて動きを止めるしかない。万一その様な事態になった時のために緊急扉くらい付けてあっても良さそうな物である。

 さて、その柵を登ろうと上を向き手を伸ばす。だから空が私の目に入った。

 見事な夕焼け空が広がっている。気候は程よく暑くも寒くもない。たまに吹くそよ風が涼しげだ。それがなんだか嬉しかった。人生の最期の風景としては最高だ。私はそれをもう少し味わいたくなり馬鹿みたいに上を向いて屋上を歩く。

 雲は疎らだ。その向こうに夕暮れ時特有のオレンジが、その反対側には紺が見え始めている。二色に染まった空が実に美しい。オレンジは段々暗い紺に押し遣られるように小さくなっていく。それがどう幕を引くのかが気になった。だからこれまで何億回とあっただろうその天体ショーを寝そべって眺めている事にした。墜ちるのは日が落ちてからでも遅くはない。


 その時だった。空は紺が優勢になっていたので、だからこそ、それは余計に目を引いた。

 初めに一つの流れ星。

 次いで二つ小さな流れ星。

 そして長い尾を引いた流れ星が落ちてきた。


 流星というにはあまりにも大きかった。

 それは見る見る大きくなって

 そして空を飲み込んだ。


 私は世界の終わりを錯覚した。そして恐怖した。人間の、いや人類の生み出した文明がこんなにあっさりと終わりを迎えるのか、と。

 それを見ていた人が悲鳴を上げているのが聞こえる。

 こんな高さのビルの上からでも人々が狼狽うろたえざわめいているのが分かる。


 そして、それは大きくなり光を増し──

 そして、パァン、と乾いた音を残して爆ぜた。


 衝撃波はない。地震もない。何かが振ってくるわけでもない。熱くもない。寒くもない。体はどこも異常はない。怪我も何もない。

 結局、それは文明を滅ぼしたり街を破壊するような巨大な隕石ではなく、ただちょっと大きな火球が私達の頭上で爆ぜただけだったのだ。

 どこにも被害はない。残ったのは極稀にしか発生しない奇跡のような天文ショーを目の当たりに出来たという経験だけだ。


 空からオレンジはもうなくなった。夜が到来した。いつもと変わりのない、何万年と毎日毎日続いてきた夜の訪れだ。



 気付くと私は笑っていた。

 腹の底から声を出して笑い転げていた。

 死ぬ瞬間自分の内にどんな感情が催されるのかだと?たった今、死を恐れた人間が何を言うのだ。

 確かに火球は地表を焼き尽くすメテオに見えたのだ。そして引き起こされるカタストロフィに奥歯を鳴らして恐怖していたのではないか。

 落下して死ぬ瞬間の感情なんて分かり切った事ではないか。それは恐怖だ。死への恐怖だ。訪れる痛みと苦しみと後悔を一瞬の内に味わった後、何も感じない無へと至るだけだ。


 結局のところ私は麻痺していただけだったのだ。代わり映えのしない毎日、ルーチンワークのように日々をこなすだけの日常、そんな刺激のない状態で感覚が麻痺していたのだ。

 だから理由もなく自殺してみようかなどと妙な発想に至ったのである。


 ひとしきり笑い転げた後で私は空腹を自覚した。せめて死後の汚物垂れ流し現象を少なくしようと断食に近い真似をして消化器系の内容物を減らしていたのである。まったく姑息な事を考えた物である。

 起き上がり考える。


 さて、今夜は何を食べようか。

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或る自殺志願者の見た流れ星 山村 草 @SouYamamura

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