たとえ逆風であろうとも

辿り着いた医務処置室は、昔に街の病院で見た手術室によく似た部屋だった。建物自体が要人の滞在施設というその性質故か、簡易的な病院設備も備えているらしい。所狭しと置かれた医療機器の隙間から消毒薬の匂いが鼻を刺す、無機質な部屋。僕の記憶にある、故郷の村やレナードとの生活で訪れた病院よりもずっと高度な技術が使われているのだろう。結局手術室まで同行したライナが見つめる中で、アリシアによって白衣の技師へと引き渡された。専門用語の羅列に流されるまま、意思表明のサインを済ませる。手術台の上に寝かされ、マスクを被せられて。気づけば手術は終わって、僕の延髄にキーは埋め込まれていた。

意識が浮上したのは、白いベッドの上だった。視界の端に映る時計から察するに、医務処置室に連れてこられてから三時間も経っていない。首に手をやるまでもなく、包帯で巻き留められた大きなガーゼがあるのが分かる。麻酔がまだ残っているのか倦怠感があるが、違和感や痛みはない。


「気がつきましたか? 手術の直後です、まだ安静にするように」

横たわったまま首を巡らせて確認した言葉の主は、壁際のスツールに座るライナだった。アリシアの姿はなく、見る限りこの小部屋にいるのは僕とライナだけ。

「アリシアから貴方の保護任務を引き継ぎました。彼女は今、テロの調査に同行しています。これを預かっています、貴方が目を覚ましたら渡すようにと」

歩み寄ってきたライナは、僕の寝ているベッドの隣にあるサイドボードに何かを置いた。天板と触れあって軽い音を立てたのは、見覚えのある物体。牙の紋章が刻まれた、黒の直方体だ。目に入った次の瞬間、だるい上体をなんとか起こして。レナードの遺したデバイスを掴み取っていた。

「見たのか?」

「そのデバイスの記録情報を、という意味ならば答えはノーです。確かにドッグタグ信号を発しており、所持者の死亡による一部ロックが外れていますが、現時点の所有権は貴方にあるとアリシアから聞きました。私が己に課した『定言命法Kategorischer Imperativ』は、他者の許可なくしてその所有物の権利を侵すことを是としません」

現時点の所有権は貴方にある。換言すれば、本来の所有者レナードはもういない。今更な事実を突きつけられる。同時に、ライナはアリシアのようにレナードの記憶を覗いていないらしいと分かった。そのことに安堵している自分に気付く。まさか自分は、知られたくなかったのだろうか。僕の手が、彼と共に流してきた血で染まっていることを。そんなことを気にしてしまうのは、きっとライナの雰囲気に漂う高潔さのせいだ。

「……ありがとう」

言葉にできない思いを幾層か重ねて。ベッドの上で小さく頭を下げる。返ってきたライナの声は心なしか、やや棘がとれている気がした。

「当然の務めです。それよりも、シャヒンといいましたね。アリシアのことですから、貴方に碌な説明をしていないでしょう。知りたいことが多いのではないでしょうか」

まるで心を読まれたかのように、ライナの言葉は僕の求めていたところを突く。彼女の申し出に甘えることにして、僕は口を開いた。

「アリシアが所属している【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】に、あなたの言う【目的の国】Reich der Zwecke。この国にいるキャピタルの勢力について、詳しく聞きたい」

「了解しました。ええ、確かに。この国への介入の権利を落札したキャピタルの公認思想勢力は、貴方の挙げたその二つきりで間違いありません。これは共同統治理事会カンファレンスで議決された専権事項です。この迎賓館にいる他のキャピタルの人間は、全てこの国で取引をする企業の関係者でしょう」

「落札?」

「ああ……良くも悪しくも、キャピタルを象徴する習慣ですね」

問えば、ライナは困ったように小さく眉を寄せる。

「キャピタルはすなわち資本主義の都。あらゆる物事、権利が売買の対象になります。キャピタルの名のもとに、この国に対する影響を独占するため。共同統治理事会カンファレンスに議席を有する勢力がこの国の政府と交渉し、大使を派遣する権利をこの二勢力が買い取りました。」

「この国から金で買った、あなた達の専権事項という事か」

「身も蓋もない言い方をすればそうでしょう。ですが、逆に言えば。共同統治理事会カンファレンスに承認されていない勢力や、キャピタルに反する勢力も存在する可能性は否定できません。そう、例えば昼に発生したテロのように」

破壊された祝賀会の建物、硝煙の匂い、飛び散る血、血、血。脳裏に蘇る生々しい記憶に眉を顰めながら、次の質問を口にする。

「その、共同統治理事会カンファレンスとは何なんだ。各勢力は何を目論んでいる?」

「まず初めに、キャピタルは単一の思想勢力が主導しているのでは決してありません。キャピタルを構成する各個人、企業、共同体が票を投じた思想勢力や個人によって構成される、最高意思決定機関――共同統治理事会カンファレンスによってキャピタルの政策や法律は決められています」

「国会みたいなものか」

「ええ。【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】は総議席に占める割合が最も多い第一勢力。快楽主義を功利主義へと昇華させ、社会における幸福の最大化を図る。そう謳う勢力です。一方、私の属する【目的の国】Reich der Zweckeは、第二勢力【公正としての正義Justice as Fairness】に次ぐ共同統治理事会カンファレンスの第三勢力。掲げる目的は、各人に内面化された規範に基づく行動を通した個々人の人格自体が目的となる状態の樹立。……少々、難しい話をしてしまいましたね」

よく分からない。小声でそっと呟けば、仕方ないことですと優しい声。キャピタルの思想勢力の中でも特に【目的の国】Reich der Zweckeは第一・第二勢力と比べて基となった思想が複雑であるうえに、様々な分野の組織と提携しているためその規模以上に入り組んでいる。そうライナは説明する。

「嘆かわしいことに、共同統治理事会カンファレンスの各勢力は常に共調しているとは言い難い。私とアリシアのように、互いを認めずに反目しあう勢力も多いのです。それでも、皆がそれぞれのやり方で、それぞれの正しい道を模索している。それだけを心に留めておいていただければ幸いです。」

柔らかく微笑むライナの顔に、一瞬亡き家族やレナードの笑みの面影が重なって見えた気がした。胸を締め付ける幻影を振り払うように、次の質問を口にする。

「貴女達の個人的な目的も、それぞれの所属思想勢力と一致しているのか?」

「概ねは。特使の役割は、それぞれの思想勢力の代表として様々な地域へ派遣され、所属思想勢力の理念に従った活動を指揮すること。例えば、私の目的は教育システムを中心としてこの国の社会的インフラの復興と整備。特に、私やアリシアのようなS級特使は特使の中でも最上級の権限を持ち、その意向は所属思想勢力の総意と見做されます。

一週間前に、共同統治理事会(カンファレンス)によってこの国の内戦からの復興指導のために【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】と【目的の国】Reich der Zweckeから特使が派遣されることが決定しました。そして選ばれたのが、アリシアと私です。……アリシアに関しては、果たして本当に。純粋な特使としての任務なのかを疑わざるを得ませんが」

言葉尻に不穏な響きがあった。見れば、穏やかだったライナの表情にも若干の陰りが見える。

「アリシアは、何を隠しているんだ?」

「知って気持ちの良い内容ではありませんよ」

「構わない。ここは僕の国だ」

どれだけ蹂躙されようと、僕はこの国と生きてきた。テロリストは勿論、内戦の原因となったキャピタルにも好き放題させるつもりはない。

そう強い意志を籠めて睨みつければ、諦めたようにライナが溜息をつく。そして放たれた言葉は、衝撃的なものだった。

「アリシアは、このテロを予期していた可能性がある。そう告げれば、どうします?」

「何だって?」

「アリシアがテロを引き起こしたと言うつもりはありません。むしろ彼女は止める側でしょう。ですが、そうでければ説明はつかないのです。多くの特使を擁する【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】がわざわざ彼女を、異端にして対思想勢力捜査官たるアリシアを抜擢した理由が」

対思想勢力捜査官。公にはされていないが、S級特使と並んでアリシアの持つ肩書の一つ。警察権を持ち、共同統治理事会カンファレンスによって『キャピタルの敵』と認定された個人や勢力を捜査し、取り締まる猟犬。ライナはそう淡々と告げる。

「アリシアの所属勢力は、その名の通り構成員の幸福の最大化を目指す勢力です。逆に言えば、最大多数と対立する少数派とどうしても共存が不可能と判明したとき。彼らは、容赦なく少数を切り捨てる。それが全体のためになると強く信じて。

彼女の関与を示す証拠はありませんが……【無政府共産主義Anarchist communism】や【西洋の没落Der Untergang des Abendlandes】、その他にも近年崩壊した大小さまざまな非承認の思想では、いずれも崩壊の直前にアリシアの影がちらついています。今回もまた彼女が、何らかの意図を持って動いている可能性が高いといえるでしょう」

何処か、納得できる部分もあった。崩れかけの建物に単身乗り込んだ行動力もその動機も、武器を持つ僕をあっさりといなした戦闘力も。ただ、何故か僕を気に入ったような素振りだけは、今も腑に落ちない。

とにかく、これでひとつ言えることができた。

「なら、僕はアリシアの味方だ。彼女があのテロリスト共を、この国に群がるクソったれな蛆虫を一掃する役を担っているのなら。僕はアリシアに味方する」

「……私としては、貴方のこれ以上のアリシアへの同行には不賛成です」

僕とは対照的に、ライナの反応は渋いものだった。

「テロリストは既に武力へ訴えている。私達【目的の国】Reich der Zweckeが望むような、話し合いによる穏便な解決は絶望的です。これからのキャピタルの動きは戦闘行為を伴うものになるでしょう。民間人を巻き込むことを禁止する規定において、また、私個人の意見として。この迎賓館で待機することを強く推奨します」

でも、と言いかけた僕の反論は突如響いたノックの音に掻き消された。反射的に小部屋の扉の方を向き、次いで僕の方へ視線を戻したライナに頷く。どうぞ、とライナが促した。

「失礼します!」

入ってきたのは、キャピタルの軍服に身を包んだ男だった。階級章や星の数をざっと見る限り、迎賓館の外部を警備していた兵士よりも数段位階が高そうだ。男はベッドの上の僕を一瞥した後、ライナへ向けて一礼する。

「報告します。先程の爆破テロ事件において、現場で拘束したテロリスト集団の構成員の聴取から、彼らの行動理論イデオロギーや母体集団の潜伏場所などが判明しました。これより制圧のための作戦会議を行います、ケーラーS級特使にもご出席願います」

なら、僕も行く。勇んで身を乗り出した僕の言葉は舌先から飛び出すことなく、ライナの鋭い視線に射止められた。

「忠告します、未来ある少年。『平和の中で生きたいのならば、これ以上関わるな』」

ぴりりと震えるような威厳ある声音。それ鼓膜を震わせたと同時、僕の動きが止まった。いや、停止させられた。

訳も分からぬまま、子供の頃に聞いたお伽噺に登場する呪文のように、ライナの言葉が僕の心と身体を縛る。果たして僕がしようとしていることは、正しいのか。レナードが願った僕の未来を棒に振ってまで、彼の、彼の仲間達の仇を討とうとするのは間違っているのか。身体はぴくりとも動かないのに、足下をぐらぐらと揺るがす迷いだけが湧いてくる。自縄自縛で硬直する心を必死に制して、自分が何をしたいのか思い出そうと足掻いた。思い出せ、僕の本当の目的を。


『泣きたくなければ 強くなれ』


――彼の言葉が脳裏に響いたその瞬間。拘束が外されたかのように体が自由になり、僕の口が動く。


「僕の未来は僕が決める。キャピタルに全てを任せた結果の平和なんていらない。

僕はただ、知りたいだけだ。何故、誰のせいで、ようやく手に入れかけた平和も奪われて今こんなことになってしまったのか!」


 驚愕からか、ライナの片眉がぴくりと跳ね上がる。その目つきがさらに険しいものに転じかけたとき。緊張に割り込むように兵士の声が響く。

「そちらの少年は、シャヒン様で間違いありませんか。スチュワートS級特使より伝言を預かっています」

彼のデバイスだろうか、兵士が懐から取り出した軍用端末から音声が流れ出す。


『たった今、政府と【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】の交渉の結果、捜査権の落札が成立した。これより、この度のテロリズム事件への対処は、【最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number】とそのS級特使であるアリシア・スチュワートが請け負う。また、それに伴いこれから開かれる作戦会議にシャヒンが参加を望むなら出席させること。彼にも知る権利はある。くれぐれも口出ししてくれるなよ、ライナ?』


飄々とした声音も口調も、間違いなくアリシアのものだ。横目でちらりとライナを見遣れば、表情こそ穏やかさを保ってはいたものの、こめかみには青い血管がくっきりと浮かんでいた。

「アリシア、全く貴女という人は……」

強い感情を堪えるかのようにライナの声が微かに震えている。僕の認識が正しければ、アリシアのしたことはまさにライナに僕を押し付けておいての独断専行だ。抜け駆けしての権利の独り占めだ。ライナの端正な横顔、そのこめかみに血管を浮き出させている怒りが爆発していないのが不思議なくらいだ。だが少なくとも、これで彼女の注意は逸れた。隙を突くようにベッドの上から床に降り立つ。

「アリシアからの許可は降りた、行こう」

再び動きを止められてはたまらないと身構えた僕の予想に反して、ライナは諦めたような瞳を向けただけだった。

「……そうですか。行くのですね」

無言で、しかし力強く首肯すればライナはゆるゆると首を横に振る。

「分かりました。そこまで決意が固いというのなら、これ以上止めはしません。ただ、私も会議に同行します。S級特使としてアリシアと同等の権限を有する私なら、彼女も参加を拒めないでしょう。よろしいですね?」

頷いて。兵士の後へ続くように、僕は白い小部屋から足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

思想戦線異状なし 百舌鳥 @Usurai0000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ