五時間三〇三分二〇秒の命

鬼灯 守人/ホオズキカミト

フィール・フロスト

 ──初めに見えたのは真っ黒の煙でした。


 ワタシの命は五時間三〇三分二〇秒。誰が言ったか定かではありませんが、ワタシは生まれて間もない頃にはそれを知っていました。

 そこからふわり、ふわりと落ちていきます。ワタシに許された行いは、たったそれだけでした。短い命、一切の自由のない身体。

 真っ先に過ったのは疑心でした。こんなワタシに与えられた命の意味とは、一体なんなのでしょうか。


 でもワタシに不安はありません。この旅の中で、それを見つける確信があったのです。


 ──ぽふりと、黒の煙を抜けました。


 黒の世界は途端に消え、景色は灰の世界になりました。ワタシはぐるりと辺りを見回します。

 灰の世界には、ワタシと同じ姿をしたモノがたくさん舞っていました。


 ワタシは、ワタシが一人じゃなかったことを知りました。


 ──灰の世界は、やがて仄かな明りに照らされました。


 光を追って下を見ます。それが、ワタシが下界を知った瞬間でした。

 頭の中にたくさん、本当にたくさんの色が飛び込んできました。

 まず一番に目に入ったのは、下界一面に広がる、ワタシと同じ白。次に、白を頭にやまほど積もらせた茶色。


 そして一際強く輝く、優しい優しい赤がありました。


 ──赤とお揃いの服を着た同胞が、ワタシたちの間を縫って飛んでいきました。


 おじさまが乗っている八頭のトナカイたちのお鼻も、おじさまとお揃いの赤でした。

 どうしてかは分かりませんが、赤を見るとワタシの真ん中の辺りがぱちぱちと踊るのです。


 そのぱちぱちが、とても心地よいのです。


 ──リンリンと鈴を鳴らして、サンタクロースは灰の空に消えました。


 ワタシはあまりモノを良く知りませんでしたが、ワタシ以外のことは良く知っていました。

 先のおじさまの名前は"ニコラオス"。トナカイたちはそれぞれ、"ダッシャー"、"ダンサー"、"プランサー"、"ヴィクセン"、"コメット"、"キューピッド"、"ドナー"、"ブリッツェン"という名前を持っています。


 ワタシはひらりと舞って、彼らを見送ります。その時身体の真ん中辺りがチクリとしたのは、きっと気のせいでしょう。


 ──森の中からトントゥがパタパタと顔を出して、賑やかな演奏会が始まりました。


 きっとワタシに挨拶をしてくれたのでしょう。ワタシには手も足もないので、小さな身体をいっぱいにゆすってお返事しました。

 それを見たトントゥは、一層賑やかに楽器を鳴らしてくれました。


 ワタシはもう一度、小さな身体をひらひらと揺らしました。


 ──賑やかな笑い声が、ワタシの耳をぽわりとくすぐりました。


 ゆっくり、ゆっくりと。下界が鮮明に現れていきます。そこに映る人間の営みを、ワタシの瞳は自然と追いかけて行きます。

 ワタシは人間については知っていましたが、彼らの文化はワタシの想像し得ぬものでした。


 だからでしょうか。身体の真ん中辺りが飛び上がるように跳ねました。


 ──真っ白の中で、誰かの唄を聞きました。


 ニコラオスの笑い声とも、トナカイたちの掛け声とも、トントゥの演奏とも違いました。

 一定の規則を保って聞こえる音を、人間は唄と呼びます。ワタシはそれを、知っていました。


 残された時間も長くありません。ワタシは最後にとその声の主を探しました。


 ──始めて覚えた感情は"嫌だ"でした。


 人間の少年が、ポツリと真っ白の中で唄を歌っていました。

 そこにはあの、ぱちぱちの赤色がありました。でも、この赤色はぱちぱちしません。もわもわっとします。

 ワタシは、それがとても嫌でした。赤色はぱちぱちな色であって欲しかったのです。


 最後にぱちぱちの赤色が見たくて、ワタシは人間の少年に近付いてみました。


 ──ワタシは次に、"嬉しい"を覚えました。


 ワタシは少年の鼻先に降りて、一生懸命ダンスを踊りました。


 はらり、ひらり、ふらり、きらり。


 小さな身体をいっぱい使って、いっぱいいっぱい踊りました。そしたら少年の赤色は、ぱちぱちの赤色になりました。

 ワタシは、それがとても嬉しかったのです。


 きっとそれがワタシの命に与えられた意味、役割だったのでしょう。その時間は一等嬉しくて、ワタシは自分の残りの時間など忘れていました。


 つまるところ、それがワタシの最後の時間だったのです。


 最後に見た赤色はとびきりのぱちぱちで、ワタシは最後に覚えた感情──"幸せ"を感じて、その天命を全うしたのです。


 じわり、じわりと溶けていきます。少年の赤色は、空から顔を出した太陽によってきれいな、とてもきれいな橙色になりました。


 きっと、ワタシは笑っていたのだと思います。だってそうでしょう? 目の前の少年も、また笑っているのですから。


 じわり、じわりと溶け出したワタシは、そうしてフッと身体を失いました。空に引き戻されるような感覚と、急激な眠気を覚えました。

 そうしてワタシがワタシを認識できなくなるその最後、少年の声が聞こえたのです。


「ありがとう雪の精霊さん! またね! バイバイ!」


 言葉の意味はワタシには分かりませんでしたが、これ程にきれいな赤色が見れたのですから、きっと、ワタシは──


 ♢


 少年はその奇跡に魅せられました。


 真冬の、骨まで凍り付きそうな酷く寒いある日のことです。

 赤い服を着た魔獣使いが空を駆け、遠くの森で賑やかな楽器の音を聞いたある日の午後。いつものように木の実を集めていた少年は、雪に足を取られて急な坂道をゴロゴロと転がっていきました。

 幸い坂はそこまで急でなく、雪が積もっていたのもあって少年の命は無事でしたが、小石や木の根にぶつかって、その矮小な四肢は酷く擦り剝けてしまっていました。


 痛みと、孤独感に晒されて、少年はおいおいと泣きました。

 泣いて泣いて、声が枯れるほど泣いたその時です。少年の目の前に真っ白な"なにか"が降りてきました。


 少年は直ぐに、それが雪の精霊だと気が付きました。


 少年の鼻先で、はらり、ひらり、ふわり、きらり。精霊は力いっぱいに踊っていました。

 それがあんまりに嬉しかったので、少年は自分が怪我をしていたことも、涙を流していたことも忘れて、お腹を抱えて笑っていました。


 雲の切れ間から傾き始めた太陽が覗いて、時刻が夕刻に差し迫ることを知らせたその時でした。


 精霊が、笑ったのです。


 少年の目の前に現れた精霊はまだ力の弱い精霊で、人型を取ることも出来ない、光の粒プラーナのような不定形な存在です。

 ですから、恐らくそれは少年の見た幻覚だったのでしょう。ですが、例え幻覚だとしても、少年は"彼女"が笑う瞬間を目撃したのです。


 太陽が雪景色を橙色に染め上げたその刹那。精霊はその仄かな煌めきの中で、一際輝く笑顔を放っていました。

 その淡い光に溶けた残滓をぼうっと眺めます。

 少年は、感情の全てを鷲掴みにされた心持になりました。


 乖離した心と身体をどうにか繋ぎとめたのは、ひとえに少年の心が無垢だった故でしょう。


「ありがとう雪の精霊さん! またね! バイバイ!」


 単純な単語の羅列でしたが、今の少年にはそれが精一杯でした。

 少年はブンブンと両手を振って、ありがとうを叫びました。少年が"またね"と言ったのは、少年の住む村に、"雪に紛れて時折小さな精霊が降りてくる"。そんな言い伝えがあったからでした。

 ひとしきり両手を振り回して、少年はようやく己の身に起きた奇跡を実感しました。


 先ほど負った傷が、全て綺麗さっぱり治っていたのです。


 少年は、それが精霊の癒しの力なのだと気付き、もう一度大きな声で、お礼の言葉を夕焼け空に向けて叫びました。


 その日から少年は、精霊についての記述を調べることにしました。


 それは、"もう一度あの美しい光景が見たい"という少年の願いでした。


 精霊とは、人間たちの信仰や恐れが魔力を媒介にして形を持った幻創の種です。


 故に必ずあるはずだと、少年は村中の文献を漁り始めました。そして数ヶ月の時を掛けて、少年はようやくといった思いで一体の雪の精霊を見つけました。

 それは辺境に棲む"ジャック・フロスト"という冬に現れる精霊だったのですが、その精霊は男型の精霊でした。

 他にも居ないのかと再び資料を読み漁りますが、やはり見つかりませんでした。

 精霊というのは四属性に分かれることが多く、雪の精霊というもの自体が殆ど存在していなかったのです。


 少年は更なる知識を求め、村から街へと発ちました。


 少年はとても優秀な子でした。あの雪の精霊を研究し始めてからというもの、少年には多大な精霊の知識を獲得していたのです。

 街では少年は引っ張りだこでした。なぜならば街には少年程精霊の知識を持った者は居らず、そして少年はその膨大な知識を技術に変える才能も持ち合わせていたからです。

 大陸のあちこちを駆け回って、少年は精霊に関する様々な依頼をこなしました。その行いがいつか、あの日に見た美しい精霊へと繋がると信じて。


 少年の行いが評価されるにつれ、少年の周りには彼に賛同する仲間が多く集まるようになりました。

 それに伴うようにして雪の精霊を探す声も増え、いつしか街中で、離れの村の美しい精霊は語られるようになって行きます。


 その間少年は毎年、サンタクロースが空を駆け、トントゥの演奏会が開かれる日に、欠かさず故郷へと帰りました。

 ですがどれだけ待っても、あの美しい精霊は一向に少年の前に姿を現しませんでした。


 それからというもの、少年は自身の研究に一層没頭するようになりました。

 しかしどれ程時間を掛けようと、どれだけ声を上げようと、終ぞ彼の精霊は少年の前に姿を現すことはありませんでした。

 未知に震えていた少年の青眼は、心労と絶望から日に日に暗く翳って行きました。

 それでも、少年は決して諦めようとはしませんでした。


 そうして一〇年の月日が流れ、幼き少年は聡明な青年へと成長を遂げました。


 青年の夢見る雪の精霊の噂は人から人へと渡り、彼の活躍とともに精霊の噂は確かな力を持って広まって行きます。

 時を掛けて、着実に、雪の精霊の噂は人々の間で語られて行きました。

 その旅路の途中で、噂は人々の様々な解釈を以てその形を少しずつ変質させて行きます。

 あるところでは"雪を纏う美しい女性の精霊"と。またあるところでは"恐ろしい魔力を秘めた凶悪な悪性精霊"と。


 そして遂には、"冬を統べる氷獄の女王"とも謳われるようになっていました。


 ──やがて青年が"西の賢者"と呼ばれるようになった頃、終いには雪の精霊の噂は大陸全土に渡っていました。


 ♢


 ──初めに見えたのは、真っ黒の雪雲でした。


 大雲の中で、ワタシは自分の身体をまじまじと見つめます。

 腕があります。足があります。身体もあります。どれも、人間のモノとそっくりでした。

 それじゃあ……と、恐る恐る両手で上の方を探りました。

 顔がありました。髪もありました。ペタペタ、ペタペタと。ワタシは身体のあちこちを触りました。


 小さかったワタシは、いつの間にかこんなに大きくなってたのです。


 ──雪雲を抜けて、ワタシはいつかのように降りて行きます。


 あの時のように、ワタシを取り巻く雪景色と共に、ふわりふわりと落ちてきます。

 ワタシは理解していました。たった五時間三〇三分二〇秒の命だった小さなワタシがこんなに大きくなれたのは、きっとあの少年のおかげでした。


 少年が最後に、"またね"と言ってくれたから。少年がワタシに"次"をくれたから。一度消えたこの命は──再び鼓動を始めたのです。


 ──リンリンと鈴を鳴らして、サンタクロースはワタシの目の前でソリを止めました。


「いやぁ驚いた。お前さん、あの時のチビさんじゃろ?」


 ニコラオスは真っ白なお髭を触りながら、ワタシに話しかけます。


 ワタシはそれに、一つ頷いて応えます。


「なんじゃ、主はまだ喋れんのか?」


 ワタシはそれに、首を横に振って応えます。


「ああなるほど! 取ってあるのか!」


 ワタシは、もう一度頷いて応えました。その通り、ワタシは取ってあるのです。

 初めての言葉は決めてあります。

 初めての名前も決めています。

 そして、それを誰に伝えるかも……ワタシは最初から決めていました。


「確かに我々には何においても、"初めて"はそれ以上の意味を持つものじゃ」


 ニコラオスは両手を組んで、うんうんと二回頷きました。


「しかし、たったの一〇年でこんなに大きくなるとはのぅ……どれ、では祝いに一つプレゼントをやろう。今宵はクリスマス、命の誕生を祝う特別な日じゃ。要するに──」


 ──今日がお前さんの誕生日じゃ。


 ニコラオスは片手でソリの荷台に詰んだ大袋をまさぐり、引き抜くと同時にキラキラと輝く光の粒をワタシに撒きました。

 するとどうでしょう。ワタシの身体の周りを、なにやら布のようなものが包んでゆくではありませんか。


「これからあの人間に会いに行くのじゃろう? ならば裸はちとマズイ。主は女子なのだから、やはりおめかしは大切じゃ」


 ふぉっふぉっふぉっ。と髭をひと撫でして、ニコラオスはもう一つ袋から丸くて長い板を取り出しました。


「……ッ!?」


 それは鏡と呼ばれるモノで、ふりふりのドレスを着たワタシが映っていました。

 真っ白で、キラキラで、ふわふわなドレスでした。

 ワタシはとても嬉しくて、その場でクルリと踊ります。


「ふぉっふぉっ。気に入ったならなによりじゃ。ではそろそろ、わしは仕事に戻るぞい。またのぅ……"雪の妖精"さん」


 メリークリスマス! と最後に挨拶をして、ニコラオスは向こうの空へと消えていきました。ワタシは力いっぱいに手を振って、それを見送りました。


 もう、胸の奥はチクリとしませんでした。


 ──森の中からトントゥがパタパタと顔を出して、とびきりの大演奏会が始まりました。


 木々たちの露を反射する煌めき、人間たちの文明の灯、そして彼らの命の輝き。

 それらに照らされて映る美しい下界が、鳴り響くトントゥの演奏に彩られて行きます。

 ワタシはぽわりと楽しくなって、リズムに合わせてひらりと踊りました。

 トントゥはニコラオスやワタシと違ってお喋りが出来ないので、お返事にパタパタと手を振りました。ありがとうって手を振りました。


 一番大きなトントゥが、一際高くラッパを吹きました。


 ──たくさんの、本当にたくさんの声を聞きました。


 ワタシは堪らなくなって、ぴょんと一つ飛び上がりました。だってふもとの山には、数百人もの人間が居たのですから。


「現れた! 本当に現れたぞ!」


「ああ、なんと美しいのだ!」


「やはり実在したんだ……"賢者様"の言っていたことは本当だったんだ!」


 誰もが口々になにかを叫んでいます。その意味はよく分かりませんでしたが、これだけの数が居るのです。

 きっと、この中にあの少年が居るはずだと、ワタシは瞼を細めました。

 破裂しそうな胸の音を両手で押さえつけて、一心に大衆の中を探ります。


 そしてとうとう、ワタシは眼下の群衆の先頭に、あの美しい赤色を見つけたのです。


 ──その双眸は、あの時見た赤い色を浮かべていました。


 真っ赤な瞳に真っ白な髪の毛。その青年はまるで野兎のような造形をしていました。

 記憶にある姿とは大分大きいですが、それでも、ワタシを見るあの赤い色は変わらずそこにありました。


「この暖かい魔力……白氷の髪、白氷の瞳……間違いない。やっと、やっと会えた……君があの──」


 青年がなにかを言いかけたその時でした。群衆がざわざわと沸き立ったのです。

 それはとても聞き取れるものではなく、数百の人間が叫ぶように、祈るように、怒るように、各々の心境を捲し立てています。

 これでは青年の声が、全く聞こえません。


 だからでしょうか。ワタシは、ふと願ったのです。願ってしまったのです。


 ──ああ、彼以外の音が止まってしまえばいいのに……と。


 カチカチカチカチ───カチッ。


 音が止みました。声が止みました。

 青年以外の人間は、それから一切、再び動き出すことはありませんでした。


 ──遠くから聞こえるラッパの音が、大きく高く鳴りました。


「……ぜ」


 動くモノは青年だけでした。


「なぜ殺した──ッ!!」


 青年の赤が、あの時のように……いえ、あの時以上に暗い赤色に染まっていきましたた。


 違う──!


 ワタシが見たかったのはそんな、黒く濁った赤色じゃなくて……


 違ウ──!


 ワタシが見たかったのはそんな、歪んで濡れた赤色じゃなくて……


 チガウ──!


 ワタシが見たかったのはもっと、もっと優しい赤色だったのに……


「僕の友を、家族を、恩師を、仲間を! なぜだ! なぜ殺したんだ……ッ!!」


 それは酷く暗くて、酷く深くて、酷く熱い色をしていました。


 ワタシには、なぜ青年の赤色が陰ったのかが分かりませんでした。

 これでゆっくりお話が出来ると、あの時出来なかった楽しいお喋りが出来るんだと、ワタシはただそう思っていたからです。


 これでやっと、ワタシは彼にが出来ると思っていたからです。


 胸の内から四肢へと広がるように、冷たいなにかが込み上げてきました。

 "嬉しい"みたいにぽわりとしません。"幸せ"みたいにぱちぱちしません。"嫌だ"とも違います。

 こんな感情は知りません。こんな感情は知りたくありません。


 こんな……凍えるような"悲しみ"は───知りたくありませんでした。


 ──ザクリ、ザクリと墜チて行きまス。


「お前は雪の精霊なんかじゃない! 僕の会いたかったあの美しい精霊なんかじゃない! お前は……凍えるほどに恐ろしい───"とうの悪魔"だ!」


 呆然と、擦少年の言葉を反芻しました。


『ワタシは……アク……マ……?』


 ──ソレガ、ワタシノ"初メテノ言葉"ニナリマシタ。


 ♢


 かくして、"凍の悪魔"が起こした災厄の大雪は世界各地へと拡大しました。


 その悪魔の恐ろしい力は、噂と猛威の広がりと同時に増長し、西の大陸の全てを雪景色に変えてしまいまうほどにまで膨れ上がっていました。

 それもただの雪ではありません。悪魔が各地へと振り撒くのは、強い呪いが込められた"死の雪"です。

 その凶悪な猛威に、大陸に住む生き物の全てが寒さに凍え、やがて大陸から命の芽吹きが消えました。


 掛かった時間は──たったの五時間三〇三分二〇秒でした。


 命の誕生を祝う筈の聖夜は、突如として人間に牙を剥いたのです。


 大陸の人々は為す術もなく、ただ許しと助けを請いました。

 そうして、まるで疫病のように恐怖は広がり、天災と化したその名高き悪名は海を越え、東の小島に拠点を構えていた"白銀の英雄"の元まで届きました。


 悪魔の名が彼の英雄の耳に入って暫く経った頃。その恐ろしい忌み名は、英雄の武勇伝へと塗り変わっていました。


 その英雄は後に凍の悪魔のことを、酷く物憂げな面持ちで、こう語っています。


『これまで様々な悪性精霊を倒してきたが、初めてのことだった。あんなに、あんなに悲しそうに笑う精霊に会ったのは──』


 ──しかし悪魔が居なくなっても、西の大陸から雪が降やむことはありませんでした。


 降りやまぬ雪には"肥大化した悪魔の身体が降っているのだ"、"悪魔がこの地にかけた呪いなのだ"など様々な憶測が飛び交っていました。


 時が経った現在では、英雄の言からこの異常気象は"悪魔の涙"と呼ばれています。


 ──"凍の悪魔"が打倒されたのと同時刻。


 西の大陸で、かつて賢者とまで呼ばれた青年の公開処刑が行われました。この青年は人々に虚偽の情報を与え、重装甲及び武器の所有を禁じて、悪魔の棲む彼の地に六〇〇六〇五人の人間を連れ込み、悪魔の贄としたのです。


 氷像と化した被害者の家族は、大いに嘆きました。


 青年が賢者としてこれまで築き上げてきた国の皆の深い信頼は、たちまち醜い憎悪に形を変えました。


 狡猾な罠に嵌め、私欲のままに大量虐殺を行ったその狂人は、騒ぎが収まり次第、直ちに断頭台に登ることとなりました。


 ──間もなくして。断頭台から真っ赤な血しぶきが勢い良く舞い、大罪人の首が宙に舞いました。


 ぐるりと景色が回るその直前、大罪人は末後の言葉に小さくこう呟いたと言われています。


「ああ……叶うことならもう一度会いたかった。あの美しい──雪の精霊フィール・フロストに」

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