わりとちいさめの海竜

霧沢夜深

わりとちいさめの海竜

 小学校三年生から中学二年生までの間の5年間、私は近所の私営プールが運営するスイミング教室に通っていた。もう15年も前の話だが。

 そのプールには、海竜がいた。

 海竜というと聞き馴染みが無いかもしれないが、いわゆる海にいる恐竜である。日本ではフタバスズキリュウなんかが最もポピュラーだろうか。

 その海竜の品種は誰も知らなかった。おそらく雑種だったのだろう。

 海竜は、ある日突然いた。私が教室に通い始めた時はまだいなかったと記憶している。

 スイミング教室の自由時間の時に、私が水中に潜っていると、海竜と目が合った。私はその時まで海竜というものを見たことがなかったのでひどくたまげた。

 たまげた拍子に水中で叫びそうになり、水を思いっきり飲んでしまったことをなぜだか今も覚えている。

 変なのが、変なのがいる! と、泣きながらインストラクター兼このプールの経営者でもある石田さんに訴えると、彼は

「それね。先週拾ったんだ。かわいいでしょ」と事もなげに言った。

 石田さんが言うには、台風が来た日の翌日、増水した川で泳いでいたのを発見したらしい。

「多分、海から流れて来ちゃったんだろうね」

 そう言っていた。

 その日から私たちは彼(オスだった)と一緒に泳ぐようになった。

 はじめは驚いたが、よく見ると彼はつぶらな瞳をしていてなかなか可愛かった。

 一緒に泳ぐと言っても、彼はいつもプールのどこかを優雅に泳いでいるだけだった。首だけ出して泳いでる時もあったが、潜って泳いでいる時もあった。

 最初はみんな珍しがって、泳いでいるのを見つけるとすぐ追いかけて触りに言ったが、子供というのは飽きやすいのでひと月もすれば日常の一部になった。

 彼は小脇に抱えられるぐらい小さかったので、捕まって引っ張ってもらおうとしても沈んでしまう。自動ビート板の代わりににはならなかった。

 私が小学五年生ぐらいの時だと記憶しているが、テレビが取材しに来たことがあった。動物番組で、当時大人気だった一発屋芸人がレポーターとしてプールを訪れたので、私たちは騒然となった。

「あっこの子ですね? あーなるほどかわいいなあ。あれ? でもなんか思ってたよりも小さいですね。まだ赤ちゃんなのかな?」

 一発屋芸人はそう言った。

 たしかに彼は一般的なペットの海竜と比べてふた回りぐらい小さかった。その番組の企画でどこかの大学の教授が彼を調べたところ、普通の海竜と比べて成長が遅すぎる。とのことだった。なんらかの病気か突然変異の可能性がある。と。

 だが、そんな情報には誰も注目しなかった。

 彼の姿がテレビで放送されたあとの週末、私はスイミング教室ではなく普通に泳ぐためにプールに行った。

 すると、驚いたことにいつも閑散としていたプールに大勢の利用者が訪れていた。主に若い女性で、目当てはもちろん彼だった。

 人だかりの中心に彼はいた。明らかに泳ぎにくそうであったが、彼は普段と変わらぬ何食わぬ顔で水をかいていた。

 海竜と泳げるプール。ということで、私たちのプールはにわかに活気づいた。平日も多くの人が訪れたが、反対に私みたいな昔から利用していた客は離れた。当時はツイッターやインスタグラムなんてなかったが、もしあったらさらに多くの人が集まったかもしれない。

 ずっとこんなに人が多いままだったら嫌だな。と私は思ったが、ブームというものは移ろいやすいもので、私が小学校を卒業する時にはすっかり元に戻っていた。


 彼は私がエサを投げると器用に首を動かしてキャッチする。エサというのは家で余った食パンだ。それを千切っては投げて与えていた。

 右へ投げれば右に、左へ投げれば左に、素早く首を動かし水面に落ちる前に食らいつく。それを見るのが楽しくて、別にそういう係でもないのに私はよく食パンを持って行った。

 中学一年ぐらいの頃には彼はかなり成長していた。子供がしがみついただけでも沈んでいた彼は、子供一人を背中に乗せてもびくともしないほど大きくなっていた。

 小学校低学年の子たちは彼の背中を毎日のように取り合っていた。私も内心乗りたかったし友達もそうだったろうが、もう中学生だったので興味ないふりをした。

 いつか誰もいない時を狙って背中に乗ってやろうと計画していたが、中学二年生の終わりに私はスイミング教室をやめてしまった。高校受験のためだ。

 高校では水泳部に入った。休日練もあったので結局あのプールに行くことは全くなくなってしまった。水泳部では地区大会でそれなりの結果を残せたが、プロになるつもりはさらさらなく、進学の道を選んだ。

 大学に入学する前に一度だけプールに行ったことがある。

 彼はいつもと変わらずいた。首と背中を水面から出して優雅に泳いでいた。驚いたのはその大きさだ。彼は、もう大人一人ぐらいを乗せられるぐらいに大きくなっていた。プールがとても狭くなったように感じた。

 今こそ背中に乗ってみようかと思ったが、知り合いの近所のオバさんが来ていたのでやめておいた。仕方なく私は彼の横で並んで泳いだ。

 もう背泳ぎじゃないと彼の顔を見れなかった。彼はいつも通り我関われかんせず。といった表情だった。

 私はあっと思った。変わったのは体長だけじゃなかった。目だ。目も変わっていた。そ知らぬ顔は初めて会った時から変わってない。ただその眼差しは見たことがあった。私の祖父と同じだったからだ。

 父の実家に帰った時にいつも見る祖父の遺影。穏やかで、弱々しく、だけどまっすぐなあの目。

 老いている。彼は確実に老いていた。私とは比べものにならない速度で。

 大学に進学すると同時に県外に引っ越して、そのまま卒業、就職した。以来一度もあのプールには行っていない。


 帰省したのは3日前だ。友人との同窓会は昨日済ませてしまい、暇を持て余した私はあのプールのことを思い出した。

 行ってみよう。と自然に思った。ちょうど家に食パンが一枚残っていたので持って行くことにした。近くのショッピングモールで水着を買って、あの頃の道を思い出しながら向かった。

 川沿いの道を歩いていると、半円状の屋根を持つ大きな建物が見えてきた。

 入口のドアを開けると、思わずうわ、と声が出てしまった。入口のすぐ隣の掲示板に一枚の写真が貼ってある。石田さんと、私たちスイミング教室の子供達と、あの一発屋芸人が写っていた。この人めっきり見なくなったけど今なにやってるんだろう。

 写真はすっかり色あせていた。一体いつまで貼っておくつもりだろう。と、当時も思ったが、こんなに残るとは。

 水着に着替え、プールに入る。塩素のにおいが香る。あの頃と全く変わってなかった。高い天井には水面に反射した光がゆらゆらときらめいていた。そうだ、私はこの高い天井がとても好きだったな、と思い出した。

 彼は、いなかった。

 彼のいないプールは、記憶より広く見えた。そうか。よく考えたらその通りだ。あのまま大きくなればこのプールに入りきらなくなる。未だにここにいるわけがなかった。

 私は残念だったし、寂しくもあったが、仕方ないので一人で泳いだ。しばらく泳いでいると、プールサイドを掃除している人がいるのに気づいた。

 彼について聞こうと、近づいて行って驚いた。石田さんだったからだ。すっかり白髪が多くなっていた。

「あの、ここって海竜? いましたよね?」

「ああ、いたね」

「今はどこにいるんですか?」

「死んだ。一昨年だったかな」

 あ。

「そうなんですか」

「うん。海竜って本来もっと長生きらしいんだけどね。朝、ここ来たらプールサイドでグターってなっててさ」

「そうなんですか」

「大分大きかったんだけどね。あれでも同じ歳の海竜と比べたら全然小さかったらしいね。だからやっぱ。生まれつきの、なんかかなって」

「ご遺体は…」

 私は自然に『ご遺体』という言葉を使っていた。海竜に対しては適切な言葉遣いじゃない気もするが、だからと言って『死体』なんて言う気にはなれなかった。

「焼いて、灰はそこの川に撒いた。帰してあげようと思ってね。拾ったのもあそこだったし」

 そうでしたね。と、私は心の中で言った。

「君はうちの教室の生徒だったよね? 良かったら墓参りに行ってやってね」

 なんだ、気づいてたのか。

 私はしばらくプールに浮かんだまま天井を見上げて、それからシャワールームに行った。


 夏の日差しは傾き始めていた、川上から吹いてくる風が、私の髪を乾かしていく。

 広い川だった。私は柵にもたれて水面を眺めていた。彼がやって来て、そして帰っていった川。

 泡が立ち上っているのに気づいた。なんだろう。亀か、魚か、濁っているのでわからない。

 長い首が現れた。海竜だった。

 大きな野良海竜だ。彼とは比べものにならない大きさだった。これでも標準的な大きさだったはずだ。

 私ははたと思い出して鞄から食パンを取り出し、野良海竜に向かって投げた。海竜は反応はしたものの長くて大きい首は重いのか、追いつけなかった。食パンは川面に落ちて、それを追いかけるように海竜は顔を水につけた。

 広い背中だった。大人の3、4人なら余裕で乗せられるだろう。

「ねえ、乗せてよ」

 西日を手で遮りながら、私はそう呟く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わりとちいさめの海竜 霧沢夜深 @yohuka1999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ