第5話

「あのー」


 みなとは204の扉を背にし、廊下に座り込んでいた。横に荷物をまとめ、膝をかかえこんで。座っていると楽だったし、背中に当たる扉の感触が安心感を与えてくれた。今日この数時間で、世界はずいぶんへんな場所になってしまったが、まだ扉は平らなままだという安心感だ。


 廊下にはまだ何人かがいたが、洗足がいなくなったせいだろう、先程よりは人数が減っている。そしてその数人には、いつきが事情を説明しているところだった。


「……というわけで、合鍵探しと説得と、二つを試してるみたい」

「合鍵ってあったっけ?」とみなとが名前を知らない生徒がいつきに聞く。

「どうだろう。寮管にあるのかな」


 その光景を見ながら、みなとは扉の中に向かって話しかけた。


「今のところ、この扉を開ける気はない……ってことでいいんだよね」


 みなとは丁寧語をやめた。中にいるのは同級生で、その上立てこもりだ。立てこもりという言葉が存在するのかは少し疑問だったが、引きこもりがあるのなら立てこもりもあっていいだろう。


「ないから、そろそろ諦めない?」


 先程のいつきとのやりとりによれば、露香のものらしい声が中から答える。みなとはのどが渇いていることに気づき、ビニール袋から冷凍みかんを出した。先程駅でおばあさんにもらったものだ。四個入りのやつをみなととおばあさんで一個ずつ食べ、余った二個をおばあさんがくれた。もうほとんど溶け切って、冷凍みかんというよりかつて冷凍されていたことがあるみかんになっていたが、果汁はまだ冷たくおいしかった。


「諦めてもいいんだけど……」みなとはみかんの房を口に運びながら話した。「今、洗足先輩が合鍵探してるし、それに……何ていうか……気になるし。あと今日寝るところがないし」

「洗足先輩……」扉の向こうで、露香がため息をついたような音が聞こえた。「寝るところはどうにかならないかな、一晩だけ。そしたらちゃんと、掃除もしてベッドもちゃんと開けておくから」

「なら今開けてよ、掃除手伝うし、ベッドも自分で整えるし」


 露香の答えはない。少しして、何かを引きずるような音がした。扉に耳をつけると、「そっち持って」という声、続いてごとんと扉に何か当たるような振動が響いた。本棚か何かの重いものを扉の前に置いたらしい。こいつら絶対開ける気ないな、とみなとは悟った。


「露香と、はな。もう一度だけ確認するんだけど、ここを開ける気はないんだよね」

「悪いんだけど、今のところは」と、こんどははなの声が答えた。

「わかった、じゃあもうだいじょうぶ」


 みかんの皮をしまうところに困り、みなとは座ったままボストンバッグのポケットを探った。出てきたコンビニのレジ袋にそれを入れ、立ち上がってジーンズのお尻をはたいた。


「え?」


 中から二人分の、戸惑ったような声が聞こえた。


「でも、後ででいいんだけど、何あったのかだけ教えてくれない? 気になるし」

「……今晩泊まるところ決まった?」


 はなの声がたずねる。先程までの勢いはなくなっていた。


「決まってないけど、でもここは寮なんだし、どこか部屋くらいあるでしょ? 着替えもたくさんあるし。建物の中ならそこまで寒くもないだろうし」


 みなとはそう言いながら、小学生のころのことを思い出していた。その時は父か母かどちらかの友人――数え切れないほどの友人のうちの一人――の家に遊びに行こうとして、家族三人乗った車が道に迷ってしまったことがあった。山の中で、日も暮れて暗い山道を走ることができず、途中にあった駐車場のようなスペースで一夜を明かすことになった。食べ物もスナック菓子しかなかったし、水もペットボトルが二本ほどだった。雪解けから間もない季節で、後ろのシートで三人ぎちぎちに眠ったが、寒くて寝入れず困った。その時よりはましなはずだ。それに、あのとき起き抜けに見た朝焼けの景色は素晴らしかった。空のグラデーションに、青い山々に、まだ残っている一つ二つの星。そういう景色がここでもまた見られないとも限らない。見られるとも限らないけれども、まあその可能性には気づかなかったことにした。


「そこまでの何かがあるんなら、仕方ないもん。誰かに頼んで寝るとこ一緒に探してもらうよ」

「……もし……」


 みなとがショルダーバッグを持ち上げようとしたとき、中からはなの声がした。


「他の人がいないんなら、ここ……開けてもいいよ」

「え?」

「外の、今集まってる他の人をいなくしてくれるなら。あと、なるべく速く入ってくれるなら」

「ちょっと、はな!」


 中でぼそぼそと言葉を交わしているのが聞こえる。はなの急な心変わりに、みなとは混乱した。


 しかし本当の混乱が訪れるのは、その一分後だった。というのは、部屋の中がにわかに騒がしくなり、悲鳴のような声や何かがぶつかるような物音が聞こえてきたからだ。


「どうしたの? えっ?」


 みなとは扉をどんどん叩いた。しかし返答はない。ややあって、ものを引きずるような音がして、それからがちゃりと中から扉が開いた。


「やっ」


 中から、ひょいと整いすぎなくらい整った顔が現れた。洗足だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る