第2話
正確に言えば、人が落っこちてきたのは空からではなく白い建物の上階からだった。落っこちてきた人物は、古代文明から伝わる青い石などは持っていなかったらしく、物理法則に従い一瞬で地面に到達したので、みなとの目には空中になびく長い髪、長いスカートが強烈に焼き付き、その前後はわからなくなっていた。みなとは落下地点に向けて必死に走った。
恐れていた光景は、幸いなことにそこには広がっていなかった。体育の授業で使う、分厚いマットが重ねて地面に積み重ねられていたのだ。そしてそこに、人が仰向けに横たわっていた。
最初にその人物を見たとき、みなとはなぜだかぞっとした。あまりその容姿が整いすぎていたことが原因かもしれない。腰までありそうな長い髪は今はてんでばらばらにマットの上に流れていたが、その状態でもつやつやと光を放っていた。白いシャツに紺色のロングスカート、そしてすらりと長い手足はマットの上に投げ出されている。小作りな顔はきめの細かい皮膚に覆われ、すんなりと通った鼻筋と赤い唇は、この角度から見てもかんぺきな形だった。やや濃い目の眉毛の下にはしっかりとした二重の目が長いまつげに囲まれている。しかしその目は、何をも見ていないようだった。
「あの……だいじょうぶですか?」
ショック状態にでもあるのかと、みなとは声をかけた。すると、その人物の顔はみるみると変化した。目には光が戻り、口には何か面白そうな、『にや』と『どや』を足して二で割ったような表情が浮かんだのだ。その表情は、この整った顔にはふさわしいとは言いがたかったが、当の本人はそれをぜんぜん知らないか知っても無視しているようだった。
「ぜんぜん、僕はまったく問題ないよ」
そう言って、腹筋だけを使ってその人物は起き上がり、マットの上に座った。ばさりと髪が顔にかかったが、二、三度顔をふると髪はおとなしくまとまって後ろに流れた。顔を上げると、やはり相当な美貌ということが見て取れた。
「でも……落ちてきましたよね?」
自分で言いながら、ずいぶんまぬけな言い方だなとみなとは思った。『落ちてきましたよね?』なんて。
「いや、落ちるつもりはなかったんだよ」
「え?」
「ほら」
と長い指が差すほうを見てみると、近くの木に何かが突き刺さっているのが見えた。大きな竹ひご飛行機、の一部のようなものだった。やぶけた障子紙と、折れた細い竹。
「あれで飛ぼうとしたんだけど、失敗しちゃって」
「あれで? ずいぶん……何というか……無謀なのでは……」
「そうかもしれない。でもテストは必要だったからね。鳥人間部の作ってる試作機なんだ、あれは。それのテストパイロットを買って出たから」
独特のしゃべり方だな、とみなとは思った。声は落ち着いていて深みがあり、アナウンサーのように正しい発音なのだが、平均的な女子学生の語調とは大幅にかけ離れている。どことなく芝居がかってるといえなくもない。帰国子女とかそういう人かもしれない、とみなとは考えた。
「あなたは……その部員なんですか?」
「いや。鳥人間部は旗ノ
何をわかりきったことを、といった調子でその人物は言った。この調子から推すと、その旗ノ台先輩と鳥人間部とやらは学校中でずいぶん有名らしい。まあそうだろうな、とみなとは心の中で納得した。鳥人間部が有名にならない学校のほうが珍しいだろう。
「でも、部員でもないのになんでテストパイロットをやったんですか?」
「試作機は試作機だから、次の機体を作る人間がいなくなったら困るだろ」
「他にも気にかけたほうがいいことがあるような気がしますけど。人体のこととか」
「だいじょうぶ、よく牛乳摂るようにしてるし。ところで、君は誰? 見覚えがないけど」
「えーと……」
転校が決まってから、何度か自己紹介のシミュレーションはしてきたが、この状況でとは想定外だった。それでもみなとは自分の名前を名乗り、時期外れの転入生だと説明した。
「ああ、話があった、あの。両親の仕事の都合で来るって子ね」
「そうです」
「何だっけ? 親御さんが両方とも長期海外出張になちゃったんだっけ?」
「そうです。それも行き先がアメリカとか中国とかセルビアとか、まあもうちょいインフラが整っている国だったら私もついていったんですが、学校どころか電気や水道もあやしいみたいで」
「親御さんはどうしてそんな国に出張になったの?」
「それがですね、話すと長くなるんですが」
「構わないよ」
そう言われ、みなとはすうと息を吸った。
「両親のコミュ力は……はっきり言って異常なんです。正負で言えば正の方向なんですが。バーベキューだの鍋だの何かのパーティーだのには毎週呼ばれてるし、SNSの友達数は二人とも上限に達してるし、父は銀行で後ろに並んだ人の結婚式に呼ばれるし、母は飛行機で隣になった人の遺産を危うく受け継ぐところだったし……」
ここに来る原因に話が及ぶと、みなとの口はなめらかになった。この状況について誰かに聞いてほしい、訴えたいという気持ちがずっとあったのだ。
「それで?」
「で、両親は同じ会社に勤めてて、結婚も職場結婚だったんですが……あんな、出会いの機会が星の数ほどある二人が職場結婚ってのもなんだかおかしいんですけど……それで、今も同じ会社に勤めてるんです。それで、その会社でプラントを海外に建設するっていう仕事があるらしいんですが、その建設予定地がどこかの暑いところの島で、しかもその島の近くに住んでる人にはその国の支配が及ばない状態らしいんです」
「支配が及ばない?」
「あの……そこは相当な奥地らしくて、その人たちにコミュニケーションを取ろうとすると矢とかそういうものが飛んでくるらしいんです。プラントの建設予定地はその人たちの住処とは少し離れてるらしいんですが、何かの間違いで接触が発生しないとも限らないし、そもそも接触が発生しないほうがいいっていうことをプラントに関わる全員にうまく伝えないといけないし、その関わる全員ってのが日本側も現地側も相当な人数になるしで、両親のコミュ力に白羽の矢が立って……あ、今のって縁起悪いですかね」
「問題ないと思うよ。なるほどね、そういう事情だったわけ。しかし君もたいへんだね、こんな時期に転校なんて」
「うまくいくといいんですけど。あ、でも、この学校に転入してきたのにもわけがあって。両親の会社の偉い人の親戚の子が、この学校にいるらしいんです。それで、いろいろ教えてもらえるように話がついてるってことなので。学年は一個上らしいんですけど、そういう人がいればまあ……」
「なるほどね。その子の名前は聞いてるの?」
「はい、えーと……たしか、
そこまで言って、みなとはようやく目の前の人物の名前を聞いていないことに気がついた。
「あ、すいません、えーと、あなたの名前は……」
眼の前の人物は、『にや』の割合を増した。そしてマットから離れ、みなとの前に立った。やはり相当背が高い。ただでさえ小柄なみなとは、視線を合わせるために見上げるようになった。
「僕の名前は洗足茉莉奈。はじめまして」
差し出された手を、みなとは反射的に握った。みなとのほてった手に比べ、ひやりと冷たい感触だった。
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