星流夜

吉岡梅

星流夜

「あの流星群がもしも星屑たちの愛の表現だったら」


 僕はクラッカーにクリームチーズを塗りつけながら話しかけた。伊澄いずみは特に反応もせずに夜空へオペラグラスを向けているので、さらにスモークサーモンを乗せて話を続けた。


「あの流星群が星屑たちの愛の表現だったら。つまり、あれが星たちが放出した精子のようなものだったら。今夜、彼らが競うようにして向かう先の星に受精して、新たな星が産まれるのだろうね。そう、この宇宙は誰かの胎内で、僕たちは知らずにそこに住んでいる微生物のようなちっぽけな存在なんだ」


 そこまで話してクラッカーをひと齧りする。そしてチーズの余韻が残る口の中にグラスの中の炭酸水を流し込んだ。伊澄はオペラグラスをテーブルへと置くと、塵屑を見るような目を此方に寄越した。


「随分とロマンティックな話ね。最低すぎて清々しいわ」

「お褒めに預かり光栄です。僕の事は放っておいて存分に天体ショーを楽しんでくれ。おあつらえ向きにに今夜は新月だ。星も隅々まで良く見える。ひょっとしたら、君の名前を冠する新星が見つかるかもしれないぜ」


 伊澄はしばらく黙ってこちらを見つめていたが、グラスの中のワインを一口飲むと、再びオペラグラスを夜空へと向けた。彼女は自分の仕事に戻ったようだ。では、僕は僕の仕事へと戻ろう。クラッカーにたっぷりのチーズとサーモンを乗せ、炭酸水で胃の中に流し込むという仕事に。


「なにを怒っているの。子供みたいに」

「怒っている? いや、そんな事は無いよ。ただ単に思いを馳せているだけさ。そう、大した事じゃあない。喧嘩に負けた犬みたいにになって帰ってきたところに、天体観測に行きたいから片道30分の道のりの運転手になれと言われただけさ。シャワーを浴びる暇も貰えずにね。ついでに言うと、報酬は極上のチーズにサーモンだけれども、飲めるのは炭酸水だけなんだ。きっとこの先ひと月は想像するんだろうね。ああ、あのチーズにワインを合わせたら、どんな味がしたんだろう、と。気に障ったのならすまなかった。ゆっくり鑑賞を続けてくれ」


 伊澄は返事の代わりに空になったグラスを差し出してきた。僕はそこに恭しくワインを注ぐ。伊澄はオペラグラスを覗き込んだまま、その赤い液体を飲みほした。


 暖冬とはいえ、12月の夜風は肌寒い。高草山たかくさやまの山道の途中に即席で作ったディナーテーブルにキャンプ用のパイプ椅子などという場所なら猶更だ。道を挟んだ向こうにはみかん畑が広がっている。そんな田舎の道端で、伊澄はカクテルドレスにショールという出で立ちで優雅にワインを嗜んでいた。僕はと言えば、仕事用のジャケットにスーツの上にダウンジャケットを羽織っている有様だ。


「ほら、克則かつのりも見て。こんなに流星が見えるのは何年振りかしら」


 オペラグラスを手渡されたので仕方なく目に当てる。レンズ越しの夜空には、幾重にも線を引く流れ星が映しだされた。思わず素直な言葉が口を突いて出る。


「……凄いなこれは」

「でしょ。あの時みたいね。もっとも、あなたは全然空を見ていなかったかもしれないけど」


 僕は無言でオペラグラスを伊澄へ帰すと、仕事の続きに取り掛かった。


「ふふ。懐かしいよね。大学の、あれは2年のころだったっけ、星野ほしのくん。『あの夜空の星屑の数ほど人がいる中で――』」

「わかった。僕が悪かった」

「あら、何を謝ってるのかしら。『君と出会えた奇跡を無駄にしたくないんだ』」

「やめてくれ」

「『増田ますださん。好きです』だったかしら」

「あの時はどうかしてたんだよ。よくよく考えれば奇跡でもなんでも無い。苗字の五十音順が近くて同じクラスになっただけだ」

「そう。じゃあ五十音順を考えた人に感謝しなくちゃね」


 伊澄はグラスに残った液体を飲み干すと、今度は自分でワインを注いだ。ボトルの中身を全て注ぐと、僕のグラスにも炭酸水を軽く注いだ。


「ねえ、乾杯しましょ」

「乾杯? いいね。じゃあ何に乾杯するんだい。五十音順を考えた人を調べた方がいいかい?」

「それもいいわね。でも、今夜は素敵な夜空と旦那様に感謝を込めて」


 伊澄はほんのり赤く頬を染め、にっこりと笑ってグラスを僕に向けてくる。


「……そう来たか。よし、じゃあ僕は素敵なお月さまに」

「新月でほとんど見えないのに?」

「なあに、見えているさ。眩しいくらいに」

「そうかしら。まあいいわ。乾杯」

「乾杯」


 僕は炭酸水を喉へと流し込んだ。美しく輝く月の前では、夜空の星々は霞んでしまう。だから、今夜も、そしてあの時も、僕に星々を見る余裕なんてものはありはしないのだ。乾杯。いつもありがとう。僕は目の前の無慈悲な夜の女王に心の中で感謝した。

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星流夜 吉岡梅 @uomasa

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