52-2:エピローグ

 威圧感のある両開きの扉を前にして、ハルは静かに目をつぶる。

 息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。再び目を開けると不安げな表情は一変し、りんとしたたたずまいで前を向く。

 ハルの顔つきを見たミカエルは、ますますあいつに似てきたな、と嬉しく思った。


「行くよ」


 一言だけ言ったミカエルは、折り曲げた右ひじを宙に浮かす。ハルは小さくうなずいてから、彼の肘に左手をそっと添えた。

 彼らが一歩踏み出した途端、巨大な白亜の扉がギギギと甲高い音を立てながら開いていく。


 差し込む光とともに目に飛び込んできたのは、向かい合って左右に整然と並ぶ大勢の天使たちの姿。

 足元には一直線に伸びる毛足の長い赤の絨毯じゅうたんが敷かれ、その先にある階段の最上部には薄布で隠された玉座の影が見えた。

 まるで外界と分かつような白い薄布の幕に遮られ、神が玉座に座っているかは見えない。ただ、常に神の傍らにいるケルビムの巨体の影が薄布越しに見えるため、そこに神がいると察せられた。


 大勢の視線を一身に受け止めながら、ハルはミカエルのエスコートで一歩ずつ足を前へと進める。終着点、である玉座の前まで来ると、右側に立つ大柄の天使をチラリと見た。

 薄紫色のうねる長髪を後ろに束ね、白の軍服姿のガブリエルは口角をわずかに上げる。

 ハルは少しだけ表情を緩めると、片膝をついたミカエルの横でひざまずいた。それを合図に、向かい合っていた天使たちが一斉に正面へと向き直る。



 玉座を隠した薄布の前には、顔の上部を白の陶器の仮面で隠した金髪のメタトロンが立っていた。

 大勢の天使がいるにもかかわらず物音一つしない謁見の間に、メタトロンの声だけが響き渡る。


「皆も知っての通り、縁あってヒトから天使に転生した者が、今、ここにいる。本日、神はこの者に天使の名を与え、われらはこの者を兄弟として迎え入れる」


 白の刺繍ししゅうが入った銀色の祭服をまとったメタトロンは、謁見の間にいる天使たちを見渡してからハルを見下ろした。


「そこの者、来なさい」


 ハルは静かに立ちあがると、玉座に続く階段をゆっくりと上る。

 壇上のメタトロンの前で再び両膝をついて身を屈めた。両腕を胸の前で交差させ、頭を垂れる。ガブリエルが教えた通りの手順。

 右腕を上げたメタトロンは、何もない空間を握るような素振そぶりを見せた。すると、その手の中に、両翼に挟まれた鮮やかな青緑色のクリスタルが輝く金のつえが現れる。

 メタトロンは両翼の杖頭じょうとうを、頭を下げるハルの右頬にゆっくりと近づけ、左頬にも同じ動作を繰り返した。最後は杖頭で、彼女の頭部に軽く触れる。


「さあ、こちらへ」


 メタトロンの言葉を合図に、ハルは立ち上がった。その表情を見たメタトロンが、彼女にしか聞こえないほどの小さな声で言う。


「恐れることはない。神は、あなたに会えることを心待ちにしておられる」


 硬い表情だったハルの目がわずかに見開いた。

 メタトロンは、仮面越しでもハッキリと分かるような笑顔になる。そしてハルの背に手を添えると、「さあ」と玉座のある薄布の内側へと導いた。



*  *  *



 先ほどまで静寂に包まれていた謁見の間とは打って変わり、外からの歓声がこちらにまで響いていた。

 人型のケルビムと玉座を挟むように立つメタトロンは、騒ぎのほうに顔を向けたままため息をつく。


「それにしても……約束を果たすためとはいえ、少々やり過ぎではございませんか?」


 玉座に座る神は何も答えない。メタトロンは気にすることなく続けた。


「われらのことを何とおっしゃろうと構いません。ですが、ご自身のことを加虐者などと……」


 ひときわ大きな歓声が上がる。おそらく、四大天使が壇上に立ったのだろう。

 白の陶器の仮面を外したメタトロンは、頭を左右に振り、顔にかかる金色の長髪を払った。ミカエルとルシフェル、両者と同じ顔で笑う。


「しかし……結局、最後まで見破られませんでしたね。実直なミカエルはまだしも、ルシフェルすら気がつかなかった。確かに、思いも寄らないでしょう。ただのヒトの子が、本当は神の御使いだったなんて」


 メタトロンの言葉に呼応して、柔らかな風が玉座を隠す薄布を揺らして通り抜けた。まるで笑うかのように。



 謁見の間から続く広々としたルーフバルコニーでは、四大天使が新たな天使を中央に据えて立っていた。

 その後方に控える座天使たちの前列中央には、片腕を失ったラジエルが紺の軍服姿で立っている。彼は自分への戒めとして、義手の装着を拒んでいた。


 座天使たちが小声で話す内容が次々と聞こえてきて、ラジエルは心の中で苦笑いをする。


「新たな天使が誕生するなんて……一体いつ振りだろうか?」


「それにミカエル様もすっかり落ち着かれて、今では人間界へ降りることもなく、ガブリエル様たちとともに公務に励んでいらっしゃるし……」


「そうそう、ミカエル様といえば、私はあの天使を初めて見たが驚いたよ。あの顔は……」


 そんな喧騒けんそうの中、聞き覚えのある声がラジエルの耳に飛び込んできた。


「あーあ、見ていらんないなぁ。あーんな嬉しそうな顔しちゃってさぁ。ねぇ、ラジィ」


 驚いたラジエルは、慌てて周囲を見回す。近くにいた座天使が、不思議そうな顔で尋ねた。


「いかがされましたか? ラジエル様」


「……いや……何でもない……」


 ラジエルは再び正面を見ると、残った片手で胸元の服を握りしめた。



 大歓声の中、ルーフバルコニーの下に集まる天使の群衆に向かって、熾天使ウリエルの声が響き渡る。


「皆に、新たな兄弟を紹介する。この者は先ほど、神から天使の名を授けられた」


 そこまで言うと、赤い短髪のウリエルはハルを見てニコリと笑った。


「この者の名は、ハニエル。その意味は『神の栄光』と『神を見る者』である。ハニエルは、天界ヘブンだけでなく、この世界すべてに愛を与える天使となろう」


 それを合図に、打ち上げ花火があがるようなパンッという乾いた音が複数カ所で鳴る。空中で何かが弾けると、バルコニーはもちろん神殿内外にいる天使たちの頭上に、色とりどりのバラの花びらが雪のように舞い落ちてきた。


「うわぁ……」


 ハニエルは、くりくりとした大きな緑色の瞳で空を見上げる。


「この式典に参加できなかった者を含めた、天界ヘブンすべての天使からの祝福だ」


 ミカエルはそう言うと、ハニエルの体を自分のほうへそっと寄せた。彼女は、今までにないほどの満面の笑みでミカエルを見上げ、それから下にいる天使たちを見渡した。


「本当に嬉しい……。私……やっと戻ってきたのね」


 みしめるように言うハニエルは、胸の中心に両手を当てた。

 ミカエルは少し身を屈めて、彼女の耳元で言う。


「おかえり、ハニエル」


 後ろからミカエルとハニエルの様子を見ていたラジエルは、苦笑いをしながら頭を左右に軽く振った。


「本当に見ていられませんね。あれではまるで……」


 再び、乾いた音とともにバラの花火が打ちあがる。

 ラジエルの最後の言葉は、より一層大きくなった天使たちの歓声にのまれ、誰の耳も届かなかった――








―――――――

長期に渡る連載となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2022年10月30日の近況ノートに『あとがき』を投稿します。合わせてお読みいただけましたら幸いです。

 芳乃 類

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天使と悪魔の諸事情 芳乃 類 @yoshino_rui

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