#10




 「お爺さまと同じって?」

 目の前の彼女や、別れた夫の家の祖父は、激しい性格のひとで、実質的な経営職を引退しても、その威光だけで社の背骨を担っていると言われた人だった。

 「知らなかったの?」

 「あの方が、なにかあったの?」

 「お爺さまにはお妾さんがいてね。その人との間に子どもまでいるのよ。私にとっては腹違いの叔母さん、ということになるのだけど」


 知らなかった。


 義祖父がおこし、義父が大きくした会社だった。それを根幹にして、あの家は回っているようなものだった。きっとその歴史の中では、表立って語られない事実もあったのだろう。しかしそこを抜け出た私にとっては、無関係な話だ。

 「おじい様と同じように、奥さんのほかに女性を作って、子どもを生ませたのだな、と思ったのよ。うちの兄はね」

 「うん」

 「でも、涼子さんにはもう、関係ないか。こんな話」

 「そうね。そうなんだなって、思う程度よ。そんな風に言ったら失礼かもしれないけど」

 そんなことない、とかつての義妹は笑って、目の前のお酒に口をつけた。

 「そのお妾さんの子ども、私にとっては腹違いの叔母さんはね、」と彼女は切り出す。「我が家との関係を一切絶って、いまでも静かに暮らしているわ」

 「そう」

 「涼子さんを見ているとね、あの叔母のことが思い起こされて仕方ないの」

 「そう?」

 「うん」

 聞けばそのお妾さんの子、彼女の腹違いの叔母は、乞えばいくらでも引き出せた経済的援助を一切絶って、あの家との結びつきを切ったのだという。

 確かに考えようによっては、慰謝料だの何だのと言いがかりをつければ、あの家からお金を引き出すことはずいぶんできたのだろう、と思う。彼女が何を思ってそんな風にしたのかはわからない。既に外に出てしまったわたしからは推察するほかないけれど、もしかしてあの激しい祖父も、彼女に対しては細やかで丁寧な気遣いをしたのかもしれない。ちょうどわたしの元夫が、わたしにそうすることで、事を荒立てさせなかったように。それも含めて家系、というなら、なるほど彼らの血族は本当に誠実で、気遣いの細かい人々なのだろう


 「でもね、」と私は言った。「あなたにこんな風に言うのは失礼かもしれないけどね、」

 切り出したすこし重みのあるわたしの言葉に、目を伏せていたかつての義妹はこちらを向き直った。

 「あなたの“家”から出てしまった私からすれば、もう自分の人生を歩みたいのよ。あの家に縛られずに。あなたのお兄さんはとても優しかったから、私に子どもを産んで欲しいなどと一言も言わなかったし、芝のあの家に入って欲しいとも言わなかった。きっとそういうあの“家”が要求するいろんなことから私を守ってくれてたのね」


 私は確かに、久しぶりにこうして、自分の結婚事情を振り返る機会を持った。

 離婚して一年が経っていた。離婚の当事者と近しい間柄の人と、こんな風に語る場を持つのは初めてのことだった。だから、だろうか?

 わたしは喋りながら、いろいろな想いが一気に湧き出てくるのを感じた。

 「けど、そういう優しさは時として、無言の圧力になるのね。彼の庇護に見合うだけの何かを、彼に与えなくちゃって、私も思っていたのかも」

 「うん」

 「きっとあなたのお兄さんもわたしも、あの“家”という大きな渦巻きに呑まれて、ぐるぐる回っていたのね」

 いや違う。そういうことじゃない。

 話しながらわたしは、瞬間的に、この義妹に対して気を遣っていた。彼女に罪はない。彼女に向かって、彼女の“家”を責め立てるのは筋違いだ。

 でも。


 ―――わたしが思って口に出せなかったのは、こういうことだ。

 彼は、口には出さなかったし、はっきりとそう、意識することさえもなかったろうが、のだ。それも男の子を。あの“家”から遠く離れたここまで来て初めて、私はそれに思い至った。四代目として、彼のあとを継ぎ、“家”を守っていく子どもが、本当は欲しかったのだ。

 彼は結婚時代、私に言ったことがある。社長職に未練はないのだ、と。それよりも社員の生活を守ってゆくために、経営のプロとしてその席が必要であり、そういう社長になりたいのだ、と。きっとそれは本心だろう。世襲で継がれるマネジメントではなく、能力で継がれることが合理性だと彼は言っていた。合理性。それは彼の社長職に対するテーマそのものだといってもいい。

 そういいながらもしかし、彼の中で脈々と息づくあの“家”の血は、世継ぎを欲していたのだと思った。

 私はそれを察することができなかった。私と彼は、その古い封建的な家の中での新しい風になるのだと思っていた。

 「大丈夫?」、と義妹はこちらの顔をのぞきこんでいる。

 何事か、とわたしは我に帰った。

 義妹は言葉をなくし、わたしの顔を見つめている。

 わたしは。

 わたしは...。


 わたしは気づいた。

 わたしの頬を、涙が一粒、こぼれていた。

 わたしは、驚いて、あわてた。

 手近のナプキンで涙をぬぐうと、小さく笑った。「ごめんね。びっくりさせちゃって」

 「ううん。こっちこそ、ごめん。せっかく忘れてたのに、嫌なこと思い出させちゃったね」

 「そんなことないのよ」

 そんなことない。


 ただ、驚いただけ。自分の迂闊さに。彼のことを何も判ってあげられなかった浅はかさに。

 しかしもうどうしようもない。もはや何も、わたしにはできない。元の義妹の前でこんな風に涙を流すことだって、アンフェアだ。

 そうか、欠けていたものとは、それだったのか、と思い至った。

 致し方がなかった。それも含めて、縁がなかったということか。


 「―――前を向いて、生きていくしかないのね」


 それは強がりだったかもしれない。けれどそう、わたしにはそれしかできることはないではないか。振り返ったところで何かが生まれるわけではない。わたしはわたしの人生を生きるのだ。その、見知らぬ叔母さんもきっと、同じように考えただろう。彼女を引き止めなかったあのお爺さまだって、実は気づいていたのかもしれない。

あの“家”とは離別したのだ。

 わたしは新しい、自分だけの部屋を手に入れたのだから。


 そう。

 自分だけの部屋を。


 かつての義妹と別れ、歩く夜道はわたしを軽やかにした。

 冬の風は冷たかった。けれど、わたしのどこかで、ギアがシフトされていた。

 わたしはずっとフラれたのだと思っていた。それを認めたくなかった。惨めな自分を感じたくなかった。でも、それは、そう思い込もうとしていただけなのだった。慰謝料もいらない。泣き言も言わない。そうやって守ったものは、自分のプライドだった。

 でも違う。

 それは間違いだった。

 きっと彼も、傷ついたのだ。彼も苦しんだのだ。あの“家”という強い重力に引かれながら。

 そしてわたし達は、しかるべき形で終わりを迎えたのだ。とても自然に。とても穏やかに。


 満ち足りていたと思っていたお部屋は、隘路の中の池だった。居心地は良いが、どこへも行けない池だった。

 今のお部屋は飲み水の飲めない部屋だ。よくよくわたしの住まう部屋は、水に縁がある。

 でもその水の飲めない部屋であっても、わたしの部屋なのだ。もう誰の思惑にも惑わされずに、自分自身を生きよう。新しい、自分に見合った部屋のあるじとして。わたしはこの水の飲めない部屋で、傷ついた身体と心を癒そう。すこしリラックスして、休憩するのだ。やがて、この仮住まいを出てゆくその時まで。その時、わたしはきっと、新しい水を手に入れるだろう。透き通ってすこしだけ甘い、わたしらしい水を。


 人生はつづく。いくつかの部屋のドアを開けたり閉めたりしながら。

 その度に泣き笑いする、可愛らしい世迷い子のわたしたちがいるだけなのだ。







〈了〉

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五つの部屋の物語 フカイ @fukai

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