第11話

「それでは質問を変えます。長谷部くんは彼女が何を足りないと思っているか、わかりますか」


長谷部は押し黙った。

店長の問いの答えは、わかってはいるが快く認められるものではなかったからだ。店長は静かに長谷部を見つめ、彼が口を開くのを待っている。

幾許か時間が過ぎた。手元の紅茶は既に冷え切ってしまった。店長は長谷部を急かすことなく、ただただ長谷部を見つめていた。

「逆なんです」長谷部が漸く口を開いた。

「逆なんです。俺が、彼女の欲しいものをあげることが出来ないんです」

長谷部の手元の紅茶の水面が波を打った。

「彼女の欲しいもの、ですか」

店長は長谷部の言葉をそのまま繰り返し、自分の手元をちらと見下げた。紅茶が少なくなり、透き通った焦げ茶色の液体の先にカップの底が揺れている。

「それは、どうしても無理なのですか」

俯いていた店長の視線が、長谷部をはしと捕らえる。真摯な瞳だった。縋るような、それでいて受容しているような凪いだ瞳に、長谷部は胸から込み上げてくる感情を唾液と一緒に飲み下した。

溺水している人が空気を求めるように、長谷部は息を吸った。

「無理なんです」

吐き出された掠れ声に、店長はわずか目を見開く。

「俺じゃ無理だったから、彼女はあそこにいるんです」

何も言わない店長に、長谷部は続けて「俺じゃ彼女の生きる理由にはなれないんです」と告げる。

店長は再び手元に視線を落として、カップをすいと持ち上げると、残っていた紅茶を飲み干した。普段はゆったりと優雅な所作でいる店長の乱雑な行動に、長谷部は驚く。

驚いている長谷部に目を戻して、店長は静かに話し始めた。

「彼女とはもう長い付き合いになります。でも、彼女が他人をあれほど近くに置いたのは君が初めてです」

大切なことを取りこぼさないように、歪めないように訥々と、店長は言葉を紡いだ。

「彼女のことは彼女にしかわかりません。だけど私には、彼女は幸せそうに見えました。君といるときの彼女の笑顔を、私は見たことがなかったんですよ」

「だったらなんで彼女は……!」

「それは私にはわかりません。ですが彼女はきっと、長谷部君のことを大切に思っています。だから身を引きたいのではないでしょうか」

カップを持つ指がカタカタと揺れた。大切に思っているのならば何故身を引こうとするのか。長谷部は隣にいてほしいと望んでいるのに、どうして自分はダメだというのだろうか。理解ができなかった。

湧き上がった激情を、目の前で静かに長谷部を眼差している店長にぶつけてしまいたいと思ったが、反対に気力はしょぼしょぼと萎んでいった。カッと目線を鋭くして、やがて肩を落としていった長谷部を見て、店長は小さく息を漏らす。

「君は、彼女には生きて幸せになることしか望んでないと言いましたね」

「はい」

「それならば何故、恋人のような関係を望んだのですか」

店長の言葉に、長谷部はハッと息を飲んだ。

何を聞かれているのか。それがどういう意味なのか。瞬時に理解することはできなかったが、その言葉にはうっすらと非難が滲んでいて、長谷部は図星を突かれたような気がしたからだ。

「私と長谷部君に違うところがあるとするのならば、それは彼女に求めている関係性ではないでしょうか。私も、彼女の幸せを望んでいます。しかし、彼女に私の隣にいてほしいとは望んでいない。彼女には自由に、彼女が心地よい距離感で接してほしいのです」

「それが、彼女があの施設に入った理由とつながっているのですか」

「さあ、それはどうでしょう。彼女は……別の問題も抱えていますから」

恐々と聞いた長谷部に、店長は遠い目で窓の外を眺める。

「彼女が『植物になりたい』と言っていたことがありました。当時の私は冗談だと思い流したのですが、今思えば、あれは……」

店長はそう言ったきり、言葉を止めた。

長谷部はその言葉の続きがどうしても聞きたかったが、店長が続ける気はないのだと悟って、ぬるくなった紅茶を一息に飲み干した。「ありがとうございます」と小さく呟いて立ち上がると、店長も椅子から腰を上げる。

会計をして、また来ますと扉を出れば、外は変わらず曇り模様だった。でもやはり、雨が降る気配はない。

長谷部は扉の前でしばし立ち止まって、何とはなしに空を見上げた。

『植物になりたい』という言葉が、彼女の声でずっと脳内に響いていた。

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安らかに眠るまで 桜染 @sakura_zome

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