第10話

長谷部陽一は昔アルバイトで働いていたカフェにいた。

窓際の席に座り、ぼんやりと外の景色を眺めている。

都心の喧騒から離れた場所にあるこのカフェから見える細い道路には、通行人がポツポツと入り込み、その向こうではこれまた少数の車が道路を行き交っている。

今日は曇り空で、しかし雲は厚くはないのだろう、街中は暗く沈むことはなく、雨の予感を感じさせない様相で佇んでいた。

長谷部は、病院に本を届けに行った時に告げられた杉本の言葉を反芻する。

「私じゃ彼の望むものはあげられないから」彼女はそう言っていたのだそうだ。

長谷部はそれを聞いて頭が沸騰しそうになった。思わず、目の前にいる杉本に掴みかかってしまいそうなくらいには。

何とか憤りを納め、どんな気持ちでこんな言葉を自分に伝えきたのかと杉本の顔を見れば、予想に反し杉本は鎮痛そうな顔をしていた。

そうだ、彼は桃子を救うためにここにいる。長谷部に彼女の言葉を伝えることが、彼女にとって好いだろうと判断して、告げただけだ。杉本が伝えたくて伝えているわけではない。


急騰した怒りが冷めていく。

杉本は変わらず痛ましげに顔を歪めているが、謝罪の言葉を述べることはしない。ただ、長谷部の前に立ち様子を伺っていた。

長谷部は何も言わずに杉本の前を去った。そして気がついたら、昔働いていたカフェの前に立っていた。


「私じゃダメ」とは、よく言われた言葉だった。直接的にではないにせよ、彼女に「君には他に素敵な人がいるよ」と言われたことは、何度もあった。長谷部はその度否定をし、愛を伝え、時に憤った。真剣に彼女の不安に向き合ってきたつもりである。

だけど、まだ足りないのだという。俺はこれを彼女の担当医師から聞いて、どうすればいいんだ。


「長谷部くん」

長谷部がぼんやりと窓の外を見ていると、頭上から低い声が落とされる。

「店長、お久しぶりです」

「お久しぶりです。元気にしていましたか」

「ええ、店長こそお元気そうで」

店長がカチャリと音を鳴らして、テーブルに紅茶を置く。彼女とこのカフェで話す際、彼女に合わせていつも長谷部が飲んでいたものだった。

「少し相席をしても?」

店長が伺うように長谷部の顔を見るので、長谷部は驚きながらも着席を勧めた。

「いいんですか? お忙しいんじゃ」

「大丈夫ですよ。客足も落ち着いていますし、事務仕事も急ぎではありませんから」

長谷部は戸惑っていた。店長が、元アルバイトとはいえ客に相席を申し入れるところを見たことがなかったからだ。親しい間柄であろう彼女に対しても、見たことがない。

何の用だろうか。思案している長谷部に、店長が切り出す。


「彼女はどうしていますか」


長谷部は、ああと思った。

店長は彼女が今、安楽死準備施設に入っていることを知っている。長谷部は未だに彼女と店長の関係性を知らないが、桃子との数年に及ぶ付き合いの中でわかったことがある。店長は、彼女の保護者的な立場にいる。

「私じゃダメだと言われました」

ポツリと言葉が落ちる。

「私じゃ俺の望むものはあげられないから、と、そう言っていたそうです」

長谷部は店長の顔が見れなかった。店長が彼女を思っていることも、長谷部との関係を祝福していることも知っていたからだ。

黙り込んでいた店長が、やおらに口を開く。


「長谷部くんは、何が足りないのですか」

静かな声だった。

長谷部は少し言葉に詰まり、こちらも静かに返す。

「何も、足りないものなんてないのです。ただ、彼女が生きてさえいてくれれば」

「生きてもらうだけでいいんですか」

「生きて、幸せになってほしいです」

それが俺の隣じゃなくても。

「そうですか」

店長が息を吐く。あまり大きな音ではなかったが、店長が吐いた息に長谷部は肩を跳ねさせた。

「店長は違うんですか」

「いいえ、違いませんよ。私も彼女には幸せになってほしいです」

店長は手元の紅茶に口をつける。

店長が紅茶を飲む時間が、やけにゆっくりと過ぎているような気がする。

紅茶を口に含み、飲み下した店長が軽く息を吐き、カップをソーサーに戻した。


「それでは質問を変えます」

店長の眼差しが長谷部を貫く。

「長谷部くんは彼女が何を足りないと思っているか、わかりますか」

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