第9話



桃子は目の前に座る医師に思考を戻した。

目の前に座る杉本という医師は、どこかお人好しなところがあるようで(そのような人間じゃないとこの施設に勤めないのだろうが)、不安げな顔を浮かべていた。大方、不躾なことを聞いてしまい桃子を怒らせていないかと心配なのだろう。

「私では、彼の望むものはあげられないんです」

桃子が端的に告げると、杉本は訝しげな顔をした。

「どういうことです」

「言葉通りの意味です。私は、彼が望んでいるものを持っていないんです」

桃子は伏し目がちに告げた。

「彼は、何を望んでいると思うのですか?」

杉本が言葉を選ぶようにしてゆっくりと問うた。慎重な杉本の様子に、桃子は顔を綻ばせる。

「それは、秘密です」

杉本が虚を衝かれた表情をした。桃子が素直に何でも答えるなどとは思ってはいなかっただろうが、会話の流れ上、何かを答えてくれると踏んでいたのだろう。

「彼は、私以外の人を好きになるべきなんです」

桃子は再び鎮痛な面持ちに戻った杉本から視線を外し、晴れた空に浮かぶ白い雲を見遣った。

杉本はどう言葉をかけて良いかわからなかった。然しそれでも一言「それは、彼が決めることなのではないですか」と溢し、その言葉に、桃子はまた一段と笑みを深めた。

「自分じゃ決められないことって、たくさんあるのだと思います」

桃子は背筋をシャンとさせて窓の外を眺めている。窓の外では晴れた空の下、庭先に生える一本の木には小鳥が群がり、陽気な空に軽やかな鳴き声を奏でている。施設前の道路には一台だけ車が通り、その先はずっと深い森が横たわる。自然は動き、循環し、そこに留まることをしない。単純なシステムは常に最善を選び取り、その選択に"意思"の阻害はない。

「杉本医師は自然が好きですか」桃子の唐突な問いかけに、杉本は拍子抜けさせられた。

「ええ、昔はよく植物を育てたものです」

辿々しく返ってきた杉本の返事を聞き、桃子は満足げに頷いた。

「自然は自由です。そこには良いも悪いもない。医師、私はね、本当は植物になりたかったんです。人は植物とは付き合わないでしょう」

彼女は嬉しそうに顔を綻ばせているが、杉本は彼女の言葉の意味がわからない。当惑した様子の杉本に彼女は可笑しそうに息を漏らした。

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