第8話

 山寺桃子が長谷部陽一と親しくなったのは、本当に偶然だったと、彼女は思っている。

 特に親しい友人に執拗に誘われ、渋々参加した飲み会で、最後に声をかけてきたのが、長谷部だった。

 気が乗らない飲み会に参加させられ元々気が立っていた桃子は、長谷部に不必要なほどの怒りをぶつけてしまい、翌朝目が覚めてから激しく後悔した。

 後悔はしたが、連絡先も、彼の名前すら知らない。

 友人に聞けば教えてもらえるだろうが、妙な勘繰りをされるのが嫌で、モヤモヤとした気持ちのまま事態は幕を閉じたかのように思われた。


 終わったと思っていたそれが、実は終わっていなかったのだと桃子が知ったのは、久しぶりに行きつけのカフェに足を運んだ時だった。

い つものように、いつもの席に案内され、本を読みながら紅茶を待った。

 ここの店長とは、もう長い付き合いだ。紅茶といったら店長の紅茶の味しか浮かばなくなるくらいには。

 店長が淹れてくれる紅茶が昔から好きで、どこのカフェに入っても店長の紅茶と比べてしまうおかげで、他のカフェでは紅茶を頼まなくなってしまった。

 


 紅茶が出てくるのを待ちながらゆったりと本を読んでいると、背後から足音が近づいてくるのを感じた。

 そろそろ、紅茶が出来た頃だろうか。本の文字列を追いながら考える。

 足音がテーブル横で止まったので本を読んでいた顔を上げると、そこには近頃胸をモヤモヤさせていた原因の彼が立っていた。桃子は驚きのあまり硬直する。


「紅茶です」

 落とされた彼の声にハッとして、桃子は彼の顔を仰ぎ見る。

 彼が紅茶を机に置くのをぼんやりとした思考で認識しながら、桃子はただただ驚いていた。

 沈黙が落ちる。

 気まずい空気が流れる中、それでも立ち去ろうとしない彼に桃子は覚悟を決めて口を開いた。

「ここの店員さんだったんですね」

 口を開いた山寺に、彼は安堵したように顔を緩ませて

「えぇ、偶然ですね」

 と返す。

 再び沈黙が落ちる。

 何を話せば良いのかわからない。飲み会終わりに八つ当たりをしてしまったことを謝りたいと思ってはいたが、今このタイミングで謝るのは不可思議に映らないだろうか。

 彼の方も何を考えているのかわからず、立ち去ることも話しかけることもしないまま、しばらく沈黙を保っていた。

「この前はすみませんでした」

 先に沈黙を破ったのは彼だった。

 唐突に落とされた詫びに桃子は心底驚いた。

「怒らせるつもりはなかったんです。だけど、怒らせちゃったみたいだから」

 尚も続ける彼に、山寺は金縛りが解けたように言葉を返す。

「こちらこそ、ごめんなさい。わかってます、心配してくれただけだって。だけど私、心配されるのが嫌いなんです。特に男性から心配されるのは」

 言葉を続けるうちに、言わなくてもいいことまでつい口から飛び出てしまい、思わず目線が下がる。ただあの時は気が立っていて、必要以上に怒ってしまったことを詫びればよかっただけなのに。

 再び気まずい空気が流れ始める中、彼がもう一度「すみません」と詫びてきた。


 そこから軽く言葉を交わし、名前を伝えあったのがその日の記憶。

 それからはカフェで見ることも多くなり、長谷部と言葉を交わすことも増えた。

 言葉を交わすようになると、長谷部とは相性が良いことが明らかになり、心地よいテンポでなされる会話を拒む理由もなくて、長谷部のシフトが終わる頃まで桃子がカフェに滞在する時はそのままご飯を食べに行ったり、そうでなくても他の客が少ない時に雑談をしたりなど、着実に彼との距離が縮まっているのを感じていた。


 そして、桃子は長谷部の好意にも気がついていた。


 割と早い段階で交換していたLINEでは毎日のように軽い内容のメッセージが来るし、長谷部は桃子の周辺のことを知りたがった。


 桃子は多少困ってはいたものの、長谷部は積極的にアプローチをかけては来ないので、高を括ってそのまま関係を続けた。

 拒絶をして失ってしまうには惜しい相性だったし、将又、その時点で桃子は、長谷部の好意に良い気持ちとはいかないまでも、悪い気持ちは抱いていなかったのかもしれない。


 少しずつ縮まっていく距離に、他人事のように感心していると、遂に長谷部から待ったがかかった。

「桃子さんはそんな気持ちがないことはわかってますが、もうこれ以上は耐えられないから言います。好きです、恋愛的な意味で」

 長谷部がそれを告げた時、桃子は純粋に驚いた。真逆、長谷部がそれを告げてくるとは思っていなかったし、耐えられなくなるとも思っていなかったからだ。

 桃子は驚きながら、しかしどこか納得した心持ちで「遂に来たか」と達観していた。


 桃子はその場で長谷部に断りを入れた。

「あなたとそういう関係にはなれないわ」

 淡々と告げた桃子は、長谷部の様子が気になって、彼の顔を窺い見る。彼は思いの外冷静な面持ちで、桃子の返事を聞いていた。

「わかってます」

 長谷部は諦めたように呟いた。

「だけど、これからもまたそばにいてもいいですか」

 長谷部が続けて告げた言葉は、桃子の思考を止めた。

「何もしないと誓います。これまでの関係と、何ら変わりない関係を続けます。だけど、好きでいることだけは許してくれませんか」

 尚も言い募る彼に、桃子は思案をしていた。

 この提案を受け入れることは、一歩間違えればとても残酷なことなのではないだろうか。希望もないのに期待を持たせるような真似をするのは、桃子も気がひける。

 だけど、これは彼から言い出したことで、桃子からの提案ではない。桃子は口を開く。

「………これまでと変わらないのなら」

 桃子はこの答えが正解なのかはわからなかった。

 だけどきっと、正解でも不正解でもないのだろうと、安堵で顔を緩める彼を見ながら、桃子はぼんやりと考えた。

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