最果ての夏
未由季
最果ての夏
兄の住むアパートまでは、私鉄とJRを乗り継いで二時間。
最寄り駅に到着すると、わたしは兄の番号に発信した。
「お兄ちゃん? 今着いたんだけど」
「あ、本当に来たんだ……」
二年ぶりに聞く兄の声は、ひどく余所余所しい。一方的にアパートまでの道順を説明され、通話は途切れた。
兄が、なぜわたしの訪問を許可したのかわからなかった。
ひとり暮らしをはじめてから、兄はなかなか家に顔を出さない。母が部屋を訪ねることも、強固に拒んでいる。
母はいつも兄を心配し、何かにつけて電話をかけていた。
ちゃんと食べているのか、大学には通っているのか、将来はどうするのか。
最初は受け流すばかりだった兄も、母からの執拗な問いかけにとうとう折れた。
「じゃあ、愛菜だけなら、こっち来てもいいよ」
電話口で、確かに兄はそう言ったのだという。
こうしてわたしは母から、兄の様子を見にいくよう命じられたのだった。
◆
兄が家を出る間際のことを、よく覚えている。
その夜、わたしはなかなか寝付けずにいた。布団の中で、漫然と寝返りを繰り返すうち、午前零時を回った。
ふと喉の渇きを覚え、布団を出た。
素足に、フローリングの冷たさが刺さった。三月も終わりだというのに、ひどく寒い夜だった。
台所では、兄が明かりも点けずにお湯を沸かしていた。
コンロの青く澄んだ炎の色が、暗闇にひっそりと浮かんでいて、それを見つめる兄の横顔が、一瞬見知らぬ人のようにうつった。
「お兄ちゃんも眠れないの?」
声をかけながら、わたしは照明のスイッチに手を伸ばした。
「いや、まだ荷物の整理が残ってたから……」
明りを受け、兄は眩しそうに目を細めた。
コンロの火を消すと、コーヒーを淹れ、シンクにもたれる格好で立ったまま口をつけた。
「わたしもあったかいの飲もうかな」
言い訳のようにそう口にすると、わたしは冷蔵庫から牛乳を取りだし、カップに注いだ。
レンジで温めている間に、何気ないふうを装って兄に尋ねた。
「ひとり暮らし、楽しみ?」
兄は答えなかった。
「なんかいいよねー、美大に通いながら、気ままなひとり暮らし。おしゃれで自由な感じがして憧れるー」
わざと軽薄な調子で重ねると、兄は小さく鼻で笑った。
「わたしも東京の大学、受験しようかな。それで受かったら、お兄ちゃんの部屋に居候させてよ、ね?」
冗談とも本気ともつかない、ギリギリのトーンを狙って尋ねてみた。
「嫌だよ。絶対ついてくるなよな」
兄は冷ややかに言うと、マグカップを片手に、自室へと引き上げてしまった。
兄がいないのなら、台所に長居する理由はない。
わたしは温めた牛乳を捨てると、簡単にカップを洗った。水だけ飲んで、布団に戻った。途端に、全身を虚脱感が襲った。頭の中で何度も兄の言葉を反芻した。「絶対ついてくるなよな」
その後もわたしはうまく寝付かれず、明け方近くになってようやく眠気の尻尾をつかまえた。
目を覚ましたのは、兄が出発しただいぶ後だった。
◆
兄の部屋の前に到着すると、インターフォンを押すより先に扉が開かれた。
「おう」
兄が眠たげな顔を出した。
黒いTシャツ姿で、ハーフパンツから伸びる長細い足を、片方だけ三和土に下ろしている。
「うん。ていうかよくわたしが来たってわかったね」
「足音したから」
兄は身を引いて、中へ入るよう促した。母から預かった荷物を抱え、わたしは狭い玄関を通る。
部屋の中は恐ろしいほどよく冷えていた。過労を抗議するかのように、エアコンの音が重く響いている。
「で、愛菜はいつ帰るの?」
兄は眉根を寄せ、わたしの持ってきた荷物を見下ろした。
「え? 二、三日後くらいかな? あんま早く帰ってもお母さんに怒られるし」
わたしは言った。
「ほら、一応わたし、お兄ちゃんの様子見て来るよう頼まれてるわけだし」
兄は不服そうに息を漏らした。
「洗面所、借りるね」
いたたまれなくなって、わたしは兄から目を逸らす。
洗面所、浴室、トイレと覗いて、そこに兄以外の人が生活している痕跡がないことを確かめると、ようやくわたしは安堵の息をついた。
◆
兄とわたしが通っていた中学校で、美術室は北校舎の端にあった。
日当たりが悪く、室内にはいつも物憂い空気が漂っていた。美術部は活気がなく、大半が幽霊部員という状態の中で、部長の兄だけは、ひとり熱心に美術室へと通っていた。
その日は夕方から、重たい色をした雲が広がりはじめた。
傘を用意していなかったわたしは、兄が持っていることを当てにして、美術室に向かった。兄はまだ部活動の最中だろうと考えた。
美術室の扉の前に立ったとき、轟音とともに一気に雨が降り出した。遠くの空が一瞬明るくなり、すぐに暗く沈んだ。
そっと扉を押し開き、中を窺った。後ろ姿を見ただけで、それが兄だとわかった。
兄の傍らには、新任の美術教師が立っていた。
室内には兄と教師の、二人しかいないようだった。
彼女は教師というより学生に近い容貌で、頼りなげに瞳を揺らしていた。美術の世界に属する人間らしい華やかさや自尊心の高さは、彼女から見受けられず、服装も明らかに野暮ったい。
イーゼルの前に座る兄と視線を合わせるため、彼女が腰を屈めた。
兄の手がゆっくりと動き、彼女の長い髪を撫でた。二人が何か囁き合っているらしいことが、空気から伝わってきた。
窓の外で稲光が走り、二人の姿を照らした。
ふいに洩れ出てきた官能の気配に動揺し、わたしはその場を離れた。
その後、雨に濡れて帰ったことでひどい風邪を引き、数日に渡って学校を休んだ。
◆
母から預けられた荷物の中身は、大量の素麺だった。自動的に夕食の献立は決まった。
「ねえ、麺つゆ買い置いてないの?」
兄の部屋の冷蔵庫の中には、マヨネーズとマーガリン、スポーツ飲料しか入っていない。
「ないよ」
「じゃあ素麺食べられないじゃん」
「麺つゆ作れないの?」
「つ、作れるよ」
こっそりスマートフォンで調べ、麺つゆを作ってはみたが、兄は一口食べて不満そうに醤油を手に取った。麺つゆは確かに、ぼんやりとした味だった。素麺は茹ですぎていた。
「お母さん、素麺持たせすぎだよね。まだまだいっぱいあるよ」
兄は素麺をすすりながら、うんざりとした顔をした。
「ねえ、大学って楽しい?」
「……ん」
「わたしもやっぱり大学行けば良かったかなー」
「何か勉強したいことでもあるわけ?」
「え、特にはないけど、勉強はしないよりしておいたほうがいいじゃん?」
兄が意味ありげな視線を向けてくる。わたしは身を硬くし、そのことを気取られないようわざと大きな音を立てて素麺を啜った。
別に、本当に進学したいわけじゃない。
父の工場で事務員として働くことに、何も不満はなかった。仕事は驚くほど気楽で、周りの人間は皆わたしに優しい。
それなのに、時々物足りなさを感じてしまうのは、自分の置かれている環境がぬるま湯だと知っているからだ。
兄との会話は弾まず、早々にベッドへ倒れ込んだ。
兄はこちらに背を向け、黙々とプラモデルを組み立てている。
「まだプラモデルなんかやってたんだ……」
呟いた声は、おそらく兄に届いたと思われるが、黙殺された。
寝返りを打つと、布団には兄の匂いに交じって、日向の匂いが残されていた。
布団を干しておいてくれるほどには、そしてベッドを貸してくれるほどには、兄はわたしを歓迎してくれている。少なくとも嫌がられてはいないだろう。
そう考えながら、目を閉じた。窓の外から、小さくモーター音が聞こえた。
◆
子どもの頃、一度だけ兄と家出したことがある。
夕暮れかけた道を、手を繋ぎ歩いた。
遠くへ行こうと決めた。誰も自分たちのことを知らない場所に行って、二人きりで暮らすつもりだった。
どんどん家から離れている気になっていたが、所詮は子供の足だった。夜には、探しに来た両親に呆気なくつかまり、強く叱られた。
「なんで家出なんてしようと思ったの?」
そう尋ねられたけれど、兄もわたしも頑なに口を閉ざした。
あの日、わたしたちは知ったのだ。
「兄と妹では、結婚できないんだよ」
近所に住んでいた従姉からそう教えられた。
兄もわたしも幼かった。
幼かったからこそ、思いつめたのだ。
◆
翌朝、目覚めると、兄はすでに出かける準備を整えていた。
「お兄ちゃん、朝ごはんは?」
「いらない。朝は食欲ないから、コーヒーだけでいいんだ」
「どこ行くの?」
「大学」
「え? 今って夏休みなんじゃないの?」
「まあ、色々やることあるんだよ」
兄は合鍵を投げて寄こした。
「出かけるなら、それ使って」
そうしてさっさと出て行ってしまった。
無性に腹が立った。
兄から今日の予定を尋ねられることを期待していた自分に気づく。
苛々しながら顔を洗い、歯を磨き、昨日の食器を洗った。そうしているうちに、この怒りは果たして素っ気ない態度をとる兄に対してなのか、あるいは兄に期待してしまう自分の浅ましさに対してなのか、わからなくなった。
正午過ぎに、部屋を出た。
兄に借りた合鍵を使うと、秘密を共有しているかのような、ほの甘い気持ちになった。
◆
待ち合わせ場所にやって来た美沙子は、以前より髪が短くなっていた。服装も珍しくカジュアル寄りだ。
「彼氏できたの?」
思わず尋ねた。付き合う相手によって見た目が変わるのが、美沙子の特徴だ。
「ううん、違う。別れたの」
「え……」
「短かったよー。すぐ別れちゃった。だから今回はダメージ少ないの」
美沙子はからりとした笑顔を見せた。言葉通り、本当に傷心の気配は窺えない。
それでも心配になる。高校のとき、美沙子は彼氏との別れ話がこじれると、授業中でも平気で泣きながら教室を飛び出していくような子だった。
「大丈夫?」
「え? 全然平気だよ。それに別れたの結構前だし」
「前に言ってた、爬虫類好きの彼?」
「違うよー。ていうかよく覚えてるね、そんな昔の相手」
「昔?」
「昔だよ」
必ず把握しておくべきことでもない。
それでも、友人の恋愛事情に疎くなっていくことに、焦りを覚えた。肩を並べて歩いていたはずが、いつの間に相手は別の道を、さらに先を、進んでいるのだ。
わたしはその背中すら、いつか見失うのだろう。
「暑いからどこか入ろうよ」
美沙子はそう言うと、返事を待つことなく、先に立って歩き出した。
「学校のほうはどうなの?」
カフェのテーブルに着いてから、わたしは母親のような問いを美沙子に投げかけた。
「何それ、お母さんかよ」
美沙子が吹き出す。
「んー、まあ、別に普通だよ」
美沙子は美容系の専門学校に通っている。一年の間は自宅から通っていたが、何かと忙しくなり、今年からは都内にアパートを借りて住みはじめた。
「そんなに一緒にいて、よく喧嘩しないね」と周囲が呆れるほど、以前はくっついて過ごしていたのに、美沙子が進学してからは時々メッセージをやりとりする程度で、ほとんど顔を合わせなくなっている。今日待ち合わせたのも、わたしが兄の元で数日過ごすことを伝えたのがきっかけで、それがなければおそらく美沙子が帰省する来年まで、わたしたちは会わなかっただろう。
「愛菜は仕事どうなの?」
美沙子が言った。
「つまんないよ」
「でも偉いじゃん」
「そうかな?」
「うん。だって事務でしょ? 退屈じゃない? わたしなんて数字見てるだけで頭痛くなっちゃうし、ずっと座ってるのとかも無理だもん。愛菜はよく我慢できるよね。偉いよ」
美沙子の口ぶりから、こちらを見下すような何かを感じ取った。
胸の内に落とされた墨が、じわじわとその範囲を広げていく。
「そんな堅苦しい感じじゃないよ。所詮は家族経営のゆるーい職場だし」
思わず弁解めいたことを口にしてしまった。
妙な空気が流れる。
「うん……」
美沙子は気を削がれたように目を伏せ、
「まあ、お互い大変だねって話だよね」
乱暴に話を終わらせた。
それからわたしは、ひたすら聞き役に徹した。
短い交際だったという元彼の話、春にクラス全員で行ったという花見の話、先月仲のいいグループでバーベキューをしたという話――美沙子の語る話はどれもわたしにとって現実感が薄く、若者向けの映画やドラマのあらすじを聞いているような気分になった。
ぼんやりと、美沙子のよく動く口元を眺めていたら、突然兄のことに話が及んだので、ぎくりとした。
「今ってお兄さんのとこ泊まってるんだっけ? ていうかさあ、わたし、愛菜のお兄さんに会ったことあったっけ?」
「……ないと思う」
高校時代、美沙子はわたしの家に入り浸っていた。しかし美沙子が家にいるとき、兄は出かけているか、自室に籠ってるかしていたので、二人が顔を合わせたことは一度もない。
わたしが顔を引きつらせたからだろう、美沙子は何かを推し量るような視線を向けた。
「何?」
「いや、愛菜ってお兄さんのこと嫌いなのかなーって思って」
「嫌いじゃないよ」
「ふうん、まあわからないでもないけど。ほらわたしお姉ちゃんいるじゃん? 普段は仲いいけど、たまにうざいなーって思うときとかあるし」
「ああ、そうだよね」
わたしは曖昧に笑って見せた。
毎回、美沙子と兄が家の中で出くわすことのないよう、わたしがこっそり気を回していたとは、彼女は想像すらしていないはずだ。
なんとなくいち段落ついて、これで兄の話題から逸れるだろう。
そう考えた矢先、
「ねえ、お兄さんの写真とかないの?」
美沙子は言った。
「え、でも……」
「あるんでしょ? 見せてよ」
美沙子に、兄を見てほしくない。そう強く思った。
しかし鋭い目つきで睨まれ、わたしは観念した。
「見てもつまらないよ、きっと」
そう前置きしながら、昨夜こっそり撮影した兄の写真を表示させ、スマートフォンの画面を美沙子に向ける。
美沙子が兄の写真を見終えるのを、わたしは審判が下されるような心持ちで待った。
やがて、美沙子は乾いた声で言った。
「へえ、なんか優しそうな感じだね」
彼女の興味は、兄に向かわなかった。
大丈夫だ。
一目見ただけの者には絶対にわかるまい。わかってたまるものか。
この世でわたしだけが、その雪原の美しさを知っている。誰にも踏み荒らされることのないよう、ずっと注意を払ってきたのだ。
「ね、見ても仕方なかったでしょ」
思わず声を弾ませたわたしから、美沙子は退屈そうに視線を逸らした。
◆
駅前のスーパーで食材を買い、アパートに戻ると、兄はまだ帰宅していなかった。
蒸し風呂のような空気を入れ替えるため、部屋の窓を開ける。ゆるい風がカーテンを揺らした。慣れ親しんだ匂いがする。
場所は違えど、夕方は等しく夕方の匂いがするものなのだ。そのことに、わたしは感動を覚えた。
どこからか低いモーター音が響いてきた。確か、昨晩も似たような音が聞こえていた。
手と顔を洗うと、気分がしゃっきりした。終始上辺だけを撫でているような、美沙子との白々しい会話を、ひとまず頭の隅に追いやる。
他人に心を掻き乱されたり、ましてや傷つけられたりするなんて、馬鹿げている。
兄の好物である、炊き込みご飯を作ろうと思った。市販の素を使うから、失敗はない。それに味噌汁と、冷ややっこをつければ、充分夕食らしくなるだろう。
わたしは鼻歌を歌いながら、台所に立った。
◆
扉が閉まる硬い音で、目が覚めた。時刻を確認すると、午前十時を少し過ぎたところだった。
昨夜は閉め切った部屋で扇風機だけ回して寝たので、全身がべたついている。
「おはよう」
帰って来た兄に声をかけた。兄は昨日の朝に見たときと同じ服を着ていて、しかし靴下だけは昨日と違うものを履いていた。
「お兄ちゃん、昨日はどこに泊まったの?」
兄はわたしの問いを、たっぷりの間無視して、ペットボトルの水を飲んだ。わたしは兄の喉ぼとけが動く様を、食い入るように見つめた。
「彼女のとこ」
口元を手の甲で拭い、兄は答えた。
「え? お兄ちゃん、彼女いるの?」
「何だよそれ、驚くことかよ」
「驚くよ。だってこの部屋の感じだと、全然そんなふうに見えなかったし」
「おまえなあ……、どういう視点で人の部屋見てるんだよ」
「ねえ、彼女どんな人?」
「……別に、普通の人だけど」
そう言った兄の口調はいつもどおりぶっきらぼうだったけれど、かすかに頬が緩んだのをわたしは見逃さなかった。
ねえ、彼女って年上? 髪は長い? 肌は白い? 華奢な体型で、いつも微妙な丈の柄スカートを穿いてる? おどおどした態度で、一見すると人畜無害そうなのに、時々狡そうな表情をしたりもする? 今も中学校で美術を教えているのかな?
喉に力を入れる。そうやって、兄を問い詰めたい衝動を押し殺す。
わたしは精一杯の笑顔を兄に向けた。
「お兄ちゃん、朝ごはん食べた?」
「食べてない。てか朝はコーヒーだけでいいし」
「昨日の夜ね、わたし炊き込みごはん作ったんだ。じゃあお昼に食べようか」
「え? 馬鹿これ、保温のまま置いてたのか?」
兄が炊飯器を見て、引きつった声を上げた。
「そうだよ」
「一晩中? エアコンも点いてない部屋で?」
「うん」
「時期的に危ないだろ」
「危ないって?」
「食中毒とか……」
「え、でも、一晩置いただけで腐ったりするかな?」
「いや、今、夏だし」
兄は炊飯器から窯を取り出すと、わたしにことわりもせず、中身をゴミ箱に移した。わたしはそれを、呆然と眺めた。
「せっかく作ったのに……」
ぽつりとこぼしたら、兄は気まずそうに息を漏らした。
「何でそんなあっさり捨てられるの? ちょっとお兄ちゃんてさ、冷たいんじゃない?」
言い出したらもう、その後は止められなかった。言葉がどんどん溢れた。
「そもそもお兄ちゃんが昨日の時点で連絡くれれば良かったんじゃないの? わたしがごはん作って待ってることくらい予想できたでしょ? なんで彼女のとこ泊まるなら泊まるで、そう教えてくれなかったの? わたしがごはん作るために費やした時間とか使った食材とか、全部無駄じゃん。少しくらい申しわけないとかいう気持ちを態度に出せないわけ? 普通はさ、食べられないとわかってても一応どうしようか悩んだり、わたしに謝ったりとか、そういう段階を踏んでから処分するものなんじゃないの? お兄ちゃんて、ほんっとにわたしのことどうでもいいと思ってるんだね!」
自分で言っておいて、惨めな気持ちになってきた。涙を堪えようとして、頬が引きつる。
兄はわたしの言葉を無言で受け止めると、くるりと背を向け、浴室に入ってしまった。
本気で怒るつもりなんかなかった。ただ少し、兄の困った顔が見たかっただけだ。冷静なその表情を、崩してみたかった。
溢れ出た言葉には、意図せず本音が混じっている気がした。
わたしは、兄の感情を揺さぶれる唯一の存在でありたい。
◆
シャワーを浴びて戻って来た兄に、明日帰ることを告げた。それから、さっき言い過ぎたことを謝った。
兄は神妙な顔で頷き、
「じゃあ今夜は、どこか外に飯食い行くか」
と言った。
日が沈むのが待ち遠しいような、そうでないような、定まらない気持ちで午後を過ごした。外が薄暗くなると、兄は財布を掴んで立ち上がった。
わたしは黙って兄の後に続き、部屋を出た。
まだ暑さの残る道を、並んで歩いた。少し行くと、昨日も聞いたモーター音が耳に届く。
とても近い、と思った。
首を動かすと、すぐ横のアパートのベランダに、小さな男の子の姿を見た。
男の子は小さな手にコントローラーを握り、視線を足元に落としていた。ラジコンカーを走らせているようだった。モーター音の正体はこれだったのか。
ベランダは狭く、ラジコンカーを充分に走らせるスペースがあるとは思えなかった。
「あの子、いつもああやって遊んでるんだよ」
わたしの視線に気づいて、兄が言った。
「そう」
わたしは静かに相槌を打った。
「ねえ、お兄ちゃんはあの子が羨ましい?」
尋ねると、兄は少しの間考えて、首を横に振った。
子供の頃、兄はラジコンカーを自作することに熱中していた。
怖いくらい集中した眼差しで部品を扱う兄を見て、「男の子はやっぱり車とか、乗り物が好きなのね」と母は笑っていたが、わたしはそれが見当違いであると見抜いていた。
兄はラジコンカーが好きなわけではない。組み立てたり、色を塗ったり、ものを作るのが好きなのだ。
事実、その後で兄の興味は、ラジコンカーから城のプラモデル制作へと移っていった。
わたしは兄のことならなんでも知っていたし、兄から見ても、わたしは一番の理解者だったに違いない。
そう、信じている。
幸福だった子供時代に思いを馳せ、わたしは淡い息を吐いた。
歩行者用の信号が点滅する。
突然兄はわたしの手をとり、走り出した。そのまま横断歩道を渡りきったところで、
「この信号、一度赤になるとなかなか変わらないんだよな」
と弁解するように言い、手を放した。
兄から伝わった熱を、わたしはしばらくの間、手のひらに感じ続けていた。
◆
中華料理店で夕食を済ませ、コンビニで買い物をしてから、アパートに戻った。
夜は、買って来た菓子を食べながら、兄と並んで映画を観た。兄が時折、映画のシーンについての意見を語るのを、わたしは笑顔で聞いた。兄も笑っていた。
泣きたいくらい、穏やかな夜だった。
わたしはベッドで、兄はソファでそれぞれ眠りに着いた。
肝心なことは何も話せていない。
兄とも、美沙子とも。
わたしは今まで、どうやって人と言葉を交わしてきたのだろう。どうやって関係を築いてきたのだろう。
忘れてしまっている。
すべてわたしの一方的な勘違いだったのか。
いや、例え束の間でも、確かにわたしと彼らの距離は近かった。
他の誰よりも、お互いが近かったはずなのだ。
◆
窓の外が白々としてきた頃、目を覚ました。耳を澄ませてみたけれど、さすがにモーター音は聞こえてこない。あの男の子はまだ夢の中だろう。
わたしは音を立てないよう慎重に起き上がると、そっと兄の傍に寄り、腰を下ろした。
規則正しい寝息を立てる兄の、無精ひげが生えた顔を、耳から顎にかけてのラインを、瞼のふくらみを、まつ毛の影を、尖った鼻先を、唇の薄さを、わたしは見つめる。そこにわたしと似ている要素があることを、改めて確認する。
兄とわたしは、父親が違う。
半分だけ同じ血が流れている兄妹。
その半分が、どうしようもなくわたしを追い詰める。
わたしの体に、兄と同じ血が流れていなければ――。
「お兄ちゃん」
小さく呼びかける。兄が目を覚ます気配はない。
「お兄ちゃん、あんまり遠くに行かないでよ。ここに居てよ。お兄ちゃんのすることなら、わたし何でも許せるんだよ。お兄ちゃんは誰のことも守らなくていいし、誰にも影響されなくていい、ずっとお兄ちゃんのままでいられるように、わたしが守るから。ねえ、だからわたしを置いて行かないでよ。わたし、本当はずっとお兄ちゃんのことが――」
後に続く言葉を、祈るような気持ちで呑みこむ。
カーテンの向こうは、明るさを増していた。今日も暑くなりそうだ。兄はそろそろ起きるだろうか。
コーヒーを淹れるため、わたしは立ち上がった。
最果ての夏 未由季 @moshikame87
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