高輪ヘヴンズゲートウェイ 下

 その日の朝、私はA4の封筒を手に固まっていた。


 親展の赤い判が押されたそれを震える手で開ければ、中に入っていたのは『再会の手引き』と題された分厚い白黒のパンフレット。そしてクリアファイルで丁寧に梱包され、折りたたまれた紙が1枚。


 私には、何故かそれが手紙であることがすぐ分かった。


 開けば案の定、目に懐かしい筆跡が飛び込んでくる。


『ひさしぶり、元気? 私は意外にも結構元気^ー^』


 その独特な言い回しと手書きの顔文字。

 丸っこい文字で綴られる文章の癖は、二度と見ることは出来ないと思っていた、かつての恋人のものに違いなかった。


 私がまだ高校生だった頃、心の底から愛していた彼女。

 そして、高校生のまま永遠に歳を取らなくなった彼女。


 高輪にこの世のものではない建物が出来てからというもの、世界中で広まっていた様々な荒唐無稽な話。


 その中でも、があるとして語られていたのが、“死んだ人間から手紙が届く”というとびきり胡散臭い噂だ。まさかそれが本当の話だと信じた人はどれだけいただろうか。

 

 死んだはずの彼女から、私に会いたい旨が端的に綴られた文章を、何度も何度も目で追って、そして再びパンフレットを見返した。表紙には、上下に反転したハートを象ったモチーフと”生命庁”の文字。いわゆる高輪事変以降に出来た、有名な国の新しいセクションの名だ。


 パンフレットの中には、ルーペを使わなければ読めないような小さな文字で守秘義務やそれに反した場合の恐ろしげな罰則がつらつらと書かれており、最後に署名欄付きの誓約書が挟まれている。


 ここに署名さえすれば私は永遠に失われたと思っていた彼女と再び会えるらしい。

悪質ないたずらだと思うのが普通の感覚だろう。しかし高輪事変以降のこの世界では、笑い話にはならない。


 国家のお墨付きまで付いたどうしようもない事実を前にして、喜びと脱力が胸の中でない混ぜになって渋滞を起こした結果、私の心の最奥から湧き出た感情は意外にも怒りだった。


「……あんた、なんて残酷な人だ」


 あんた。

 それは神、仏、あるいは目に見えない何か。

 地上人の苦しみを遥か高みから見下ろす悪趣味な何者か。


 まさしく奇跡の再会を、愛する彼女を失った私はどれだけ切望していただろうか。もしあの日に彼女から手紙が届いていたら、一体どれほど救われただろうか。


 生命庁の指定してきた日付はちょうど一ヶ月後。

 こちら側から日付をずらすことは出来ず、どのような理由があってもこれ以降チャンスが巡ってくることもないとのこと。

 それでいて、平日のど真ん中が指定されているのが何ともお役所仕事らしい。


 私の仕事場は、本来なら風邪を引くことすら憚られる繁忙期に突入しようとしていたが、休みを取るにあたっては上司には届いたパンフレットを見せるだけで十分だった。冠婚葬祭とヘヴンズゲートウェイ絡みなら、誰も文句を言うことは出来ない。ここ数年、そんな雰囲気が日本中に、当然この会社にも例外なく漂っていたからだ。

 それから仕事もプライベートも、あらゆることが手に着かない、何とも落ち着かない一ヶ月が過ぎた。


 ――そして今、クリーム色の車両はゆったりとしたスピードのまま線路を走り、ほどなくして巨大な駅舎へと飲み込まれる。


 生命庁のパンフレットには出来るだけぼかして書いてあったが、駅舎の中は既に人間の管理下にない領域。死の境目の向こう側、あの世だ。


 この世からあの世へ、坊さんの念仏も聞かずに生きたまま、ほんの2分足らずでたどり着ける時代になったことに改めて驚愕する。

 あまりにもあっけない旅路に実感はなかったが、私がそれを事実と飲み込むのに時間は全くかからなかった。あらゆる奇跡を信じるに足る一番の証拠が、ガラス越しに見えたからだ。


「ねぇ、久しぶり」


 開いた扉の向こう、高輪ヘヴンズゲートウェイ駅のプラットホームに立っていた彼女はあの日のまま。肩までかかった髪が、オーバーサイズのパーカーにかかっていた。


 デニムパンツに両手を突っ込んで笑う、その姿のあまりの自然さに私は驚きあまって拍子抜けした声を出した。


「幽霊って、こんなに生き生きとしてるんだな……」


「えー、最初に言う言葉がそれ?」


「あ、ごめん」


 再会早々謝る私の前、唇を尖らせる彼女。


「なんというか、その……おかえりなさい」


「ただいまっ!」


 彼女が駆け寄ってきたので、反射的に両手を広げてそれを抱きとめた。髪の匂い、柔らかな肩。確かな実体を持つ彼女を包み込み、何故かずきりと胸が痛んだ。


「――高屋敷! 久しぶりだな」


 そんな大声が前方から聞こえた。


「おお、随分歳をとったもんだ」


「ノボル、会いたかったぞ!」


 見れば続々と車両内に男達が入ってくるところだった。三人とも背が低く、それでいて小麦色に焼けた肌を持ち、筋肉質な体つきをしている。


 カーキ色の軍服にゲートルを巻いた彼らは、8月になれば必ず戦争の再現ドラマで見る、旧日本軍人そのものだ。


 二十代の前半〜三十代くらいの男達が、杖をついて立ち尽くしている高屋敷さんを囲み、親しげな口調で再会を祝っている。恐らくは戦友なのだろう。年齢的に不釣り合いな友の前で、高屋敷さんは口を結んだまま涙ぐんでいた。


「ママ……?」


 最後に車両に乗り込んできたのは、小学校低学年くらいの男の子。その視線の先には、秋山さんの姿があった。


「ゆうと、久しぶり」


 秋山さんは静かにそう言うと、しゃがみ込んで男の子を抱え込んだ。

 なるほど、彼女は自分の子供を亡くしていたのだろう。子供を失う母親の気持ちを想像し、言いようもない切ない気持ちになる。


「ねぇ、何見てるの」


 声をかけられ、私は胸元の彼女に再び目を合わせた。


「ああ、本当に皆死んでるのか、なんて思っちゃって」


「ふうん、でもそれ、私達も思ってるかな。つい最近まで、自分が死んだなんて信じてなかったし」


 だって足もあるし、心臓だってちゃんと動いてるんだよ? と彼女は胸に手を当てた。私はそんな彼女の姿を見て少し考え、問いかけた。


「あの日、君はどうなったんだ」


 自分で言っておきながら、あまり賢い質問ではないことは分かっていた。

 彼女はあの日、確かに死んでいた。私の目の前で、眠るように死んでいた。

 あらゆる生き物にとって死は一巻の終わりで、後も先もない。

 ゆえにこれは、普通なら決して死の当事者には聞けるはずも、また答えの帰ってくるはずもない質問だった。


「あの日、ね」


 彼女は自分の中で何かを消化するように頷き、少しうつむく。

 ”あの日” 高校生三年生だった私達は東京へと向かう高速バスに乗っていた。


 中学一年生から付き合って六年目。きっかけは私が一度もディズニーランドに行ったことがないという話題を何の気なしにしたことによる。


 彼女はそれを「人生の損失」と言い切るや否や、誕生日の日に合わせてチケットを取ってくれたのだった。


 四列シートの格安バス。

 人の呼気でむわっとした車内にも関わらず、寝付きの良い私はすぐに眠ってしまい、そして夢の中で突然体中を一度に殴られたような衝撃に目を覚ました。

 腰の辺りが締め付けられるような感覚は、衝突の衝撃でシートベルトが食い込んだせいだ。


 私は何時間もの間、パチパチと横転した高速バスが燃える音を聞きながら、静かに眠っている彼女の顔を見ていた。何度呼びかけても、その眠りは覚めることがなく、金切り声で叫ぶ私自身の声が他人事のように遠くに聞こえた。

 

 病院、通夜、葬式。

 

 警察からの事情聴取やマスコミの対応を挟みながら、それでも機械的に流れていく死の儀式たちを前に、私の精神は受け入れ可能限度を軽く突破し、半ばからほとんど阿呆のようになって、ただぼんやりと流れるに任せていたように思う。


 しかし今でも脳裏に焼き付いて離れないこれらの記憶は、それでも全て客観的な彼女の死後の話だ。私は彼女に起きた死を外側から観察していただけに過ぎない。


「えっとね、あまり言わない方がいいことになってるんだけど……」


 少しぼかしてなら話せるかな。そう前置きして彼女は口を開く。


「あの日、バスで寝てたはずなのに起きたら知らない場所に居たの。観葉植物がずらって並んでる、古いカフェみたいなところで、私の他にも十数人、訳が分からないって顔した人達がいてさ」


「それって、もしかして」


「そ、バスに一緒に乗ってた人達」


 私達を襲った事故は、のちに平成最悪の自動車事故と呼ばれるようになった。

 高速道路の高架から、フェンスを突き破って勢いをつけて落下した高速バスは、乗員乗客47名の内25名の鉄の棺桶となった。

 彼女はその半数に含まれている。


「状況が飲み込めなくて皆戸惑ってたら、死後のお世話をしてくれる人たちが迎えにきてくれたの。白いスーツを着た、私達は天使さんって呼んでるんだけどね」


「後は……ひたすら説得を受けてさ。あなた達は死んだ、もう絶対に生き返ることは出来ないから、その事実を受け入れなさいーって。あれこれ上手に説明してくるの。それでも信じられないって人は、施設に行くことになるのね」


 言って彼女は舌を出して顔をしかめる。苦いコーヒーを飲んだみたいに。


「施設?」


「うん、無念を残して死んじゃった魂をなだめて、癒して、自分の死を受け入れる為の学校? みたいなものかな。そこで死んだことに納得出来たら、やっと会いたかった人に会えるご褒美がもらえるの。普通は一方的に、目に見えない形で現世に降りるらしいんだけど、今はゲートがあるおかげでこうして……」


 ガタリと電車が動き出し、私たちの会話が途切れた。

 ゆっくり遠ざかっていく無人のプラットフォームを、目だけで見送る。ヘヴンズゲートウェイの構内は、蛍光灯に照らされたタイルが延々と続く、あまりにも殺風景なものだった。あの世と聞いて想像していた壮大さはなく、そのことについて、彼女に見たまま伝えると、


「ふうん、そんな風に見えてるんだ」


 とだけ返ってきた。私は遠ざかっていく駅を目を凝らして見たが、ついに白いタイル以外のものは見えなかった。


 駅舎を抜けると、左右に目隠しのような防風フェンスが続く。事前にパンフレットで読んだとおりなら、この電車は今からあの世の山手線を一周する。

 時間にして1時間ちょっと。これが奇跡の再会の制限時間なのだという。


 二人で、四人がけのボックス席に向かい合うように座った。

 やっと一息つき、私は途切れた会話を思い出す。


「それで自分が死んだこと、納得出来たのか」


「できたよ、時間はかかっちゃったみたいだけどね」


 そう言って彼女は、私の頭から足先までを満足そうに眺めた。


「私、もう一度生きてる君に会いたかったからさ。……あ、見て」


 いつの間にかフェンスが途切れ、彼女が指を差す窓の向こうにあの世の景色が広がっていた。

 

 夕暮れとも違うオレンジ色の空の下。

 等間隔に整列した真っ白で背の低い豆腐のような建造物が地平線の向こうまで広がっている。空気そのものが黄金色に輝いて見え、車窓越しに見ているのに髪を吹き抜ける爽やかな風すら感じた。

 どんな偏屈な人間でも、見た途端に神秘を信じるロマンチストになるような。それはあまりにも特別な風景だった。


「これは現実なのか」


 私は思わず感嘆の吐息を洩らす。


「こんなものを見せられたら、ますます実感がなくなりそうだ」


「……絶対に現実だよ。そうじゃなきゃ私が困るもん」


 景色に見とれている私の頬を、彼女の細指が掴んだ。ぐい、と強引に顔を正面に向けられ、気付けばすぐ目の前に端正に整った顔が。まん丸な目に、何かを決意したような口元。二度と直接見ることはないと諦めていた彼女を前にして、じわりと涙が込み上げてくる。


 そして、ほとんどぶつけられるように唇を合わせられ、改めて気付く。

 やはり私の愛しかった人は、とうに損なわれてしまっているということに。

 とても柔らかく、そして寂しいと感じた。

 

「ごめん」


 これ以上騙すような気持ちでいたくない。そう思って突き放すような一言を発してまった。我に返り、すぐに訂正しようとしたが、彼女はそれを仕草で止め、ただ静かに頷いていた。


「こっちこそごめんね。ちょっと、試したんだ」


 彼女は少し寂しそうに笑んだ。不思議と悲しみはなく、代わりに遠い思い出を振り返る時に感じる、少し切なくて懐かしい気持ちが胸の真ん中に浮かんだ。それがなんであるのか私は考えていた。


 しばらく気まずさのない沈黙が流れた。その間、窓の外を流れるのと同じ、やけにさっぱりとした爽やかな空気が私たちの間に吹いている気がした。


 何か変化が起きた訳ではなかった。

 ただ胸の真ん中に留まる気持ちがゆっくり流されるように下に落ちていき、私の中ですんなりと納得が起きた。


 彼女は見た目こそあの頃と全く変わっていない。しかし、私が知らなかっただけで、死後の世界はこうして実在していた。

 彼女には”あの日”の後も人生があったのだ。


 この時、私の中に留まり続けていた永遠に変化しない彼女が去った。あの日以来、私を24時間地面に縛り続けていた重力から解放されたような気分だった。


 同時に、私達は目を合わせ「んふふ」と含み笑いを浮かべた。

 お互いに等しく歳をとった。それが分かったからこそ、タイムラグがなくなり、すれ違っていた心が通い合った瞬間だった。


 それ以降、私達の会話は文字通り花が開いたようにはずんだ。

 彼女は自分が亡くなった後の現世の話を聞きたがったので、私は彼女の期待に応えるため、頭の中で過去と今を何度も行き来した。


 かつての思い出話に夢中になって、喉も枯れ始めた頃、どこからか若い男達の声と高屋敷さんのしわがれ声が聞こえてきた。


「「貴様と俺〜とは〜 同期の桜〜 同じ兵学校の〜 庭に咲く〜 咲いた花なら〜 散るの〜は覚悟 み〜ごと散りましょ 国のため〜」」


 左斜め後ろから聞こえるその歌声の中に、妙に音痴な人間が一人いて、その絶妙な不協和音に思わず笑ってしまう。


「ふふ、あれは桜井さんっていってね、今日は懐かしい戦友ともだちに会うんだって、はりきって練習してたんだけど、全〜然だめ!」


「おっと聞こえとるぞ! これでもマシになったんだからなぁ!」


 そう言って座席の向こうで、人懐こい顔にうっすらと髭を生やした青年が笑っている。こちらの会話に気づいたらしい。


 彼女とあの軍人達とは、同じ施設で勉強をした仲間なのだという。

 私が、彼らと具体的にどんなことを学んだのかと聞くと、彼女はあの頃のようにいじわるそうに微笑んだ。


「まだ秘密。君が死んじゃった時に教えてあげる」


 悪い冗談のような言葉だが、事実彼女は死の当事者なのだ。ならば話せるところまでと、ぼかして教えてもらおうとしたところ、今度は訪問者に会話が阻まれてしまった。

 

「お姉ちゃん、ここ座っても良い?」


 その小さな訪問者は彼女の隣を指さすと、小首を傾げて尋ねた。


「うん、いいよ」


「やった!」


 彼が嬉しそうに彼女の隣に座ると同時、秋山さんが近づいてきた。


「ゆうとったら……ごめんなさい、この子昔から落ち着きがなくって。ほら、お姉ちゃん達も困ってるから、あっちの席戻ろう?」


「やーだー!」


 どうやら、ゆうと君はこの場所からテコでも動きそうにない構えだった。こうなった時の子供の手強さは筋金入りだ。私は彼が本格的にぐずり泣きをしそうな気配を察して、助け舟を出すことにした。


「ゆうと君が落ち着くまで、しばらく同席したらどうでしょう。もしよかったらですけど」


「ええと、すみません……」


 秋山さんは、私と彼女を交互にちらりと見てから頭を下げた。


 結局私の隣に秋山さん、彼女の隣にゆうと君が座り、ボックス席は定員いっぱいになる。


「あの……」


「はい?」


 秋山さんが、おずおずと彼女に話しかけた。


「ウチのゆうとが、こっちでお世話になってたそうで。どうもありがとうございました」


 頭を下げて言う。どうやら見た目の派手さから受けた第一印象とは随分違った人物のようだ。


「いえいえ、私の方がお世話してもらってたくらいですよ。なにせゆうと君、飲み込みが早いから」


 はあ、と言って頭にクエスチョンマークを浮かべている秋山さんに、私は彼女から聞いた、あの世の施設とやらの話をした。


「――つまり、みんな勉強仲間ってことみたいです」


「はあ……保育園みたいな感じですか?」


 秋山さんは間の抜けた表情のまま言う。天然ボケなのだろうが、思わず私は、彼女や日本兵達がゆうと君と一緒にスモックを着ている姿を想像してしまった。


「まあ、そんなとこ」


 彼女が、ゆうと君を膝の上で遊ばせながらニコニコとした顔で答えた。


「ゆうとー、良かったね。可愛いお姉ちゃんと一緒に勉強できて」


「うん! 本当はもっと沢山友達がいたんだよ。でもみんな、先に消えちゃったんだ」


「消えた?」


 秋山さんがすかさず問いかけると同時、彼女の顔色が少し曇るのが分かった。


「そうだよ。天使のお兄ちゃんは皆、先にジョーブツしたって言ってた」


「ゆうと君、それ言っちゃダメでしょ」


 横から彼女が被せるように言う。


「……ごめん」


 ゆうと君は唇を噛んで頭を下げた。すると突然、秋山さんの顔色が変わる。


「今、この子成仏って言いました?」


 変わったのは顔色だけではない。問い詰めるような声色になった秋山さんの、そのあまりの豹変ぶりに思わずぎょっとさせられた。


「他の人たちが成仏したのに、この子はどうしてここにいるの?」


 ぎょろりとした目で私を見て、そして次に彼女を睨みつけた。


「……やっぱり、この電車、地獄に向かうんでしょ!? ねえ!?」


 突然の大声。

 感情のボルテージが急上昇し、その場で立ち上がった秋山さんは、周りを見下ろす形になった。今にも彼女に掴みかかりそうな必死の形相に驚き、私も慌てて立ち上がる。


「落ち着いてください、皆驚いてますよ」


 とにかく気持ちをなだめようと両手を宙で上下させていると、何事かとこちらを伺っている日本兵達と目が合った。


「地獄だなんて物騒な……」


 私がそう呟くように言うと、秋山さんは明確に私をターゲットに変えた。


「ネットの噂、聞いたことない? ヘヴンズゲートウェイ駅で会う死者は、神様に見捨てられた人達なんだって。地獄に落ちちゃう人だから、最後に好きな人と会わせてくれるんだって!」


 息を荒くした秋山さんは、私のシャツの襟口を掴んだ。席で唖然としていた彼女が、何か言おうと口を開く。


「それは違……」


「嬢ちゃん、それは間違ってるぞ」


 横から入ってきたのは、日本兵の内の一人。胸に一つ星の階級章をつけた男だった。綺麗に整った角刈りで、二の腕は格闘家のようにたくましい。


「室尾さん」


 彼女が男の名前を呼んだ。その目が「自分に任せておけ」と伝えている。


「俺達が地獄に行くなんて謂れはねえ。ただ自分が死んだと納得するのに時間がかかり過ぎて、仏様にケツを叩かれた連中ってだけなんだよ」


「でもあなた達は戦争で人を殺したんでしょ? 私バカだけどその格好の意味くらい分かってるんだから」


 胸元に指を指された室尾は、すかさず反論した。


「そりゃ戦争なんだから当たり前だ。善も悪もない。水が高いところから低いところへ流れるみたいに、俺たちは時代の流れの中に生きただけさ。それにほら、もし俺達が人を殺して地獄に落ちるんだとしても、あんたの坊ちゃんがそれに付いていくはずはねえだろ? 違うか?」


 後半は、半ば諭すような優しげな口調だった。

 

 自身の論理のおかしさに気づいたのか、単に説得されて少し落ち着いただけなのか、秋山さんは腰をゆっくり座席に落とすと、今度は化粧が崩れるのも御構い無しに涙を流し始めた。


「うう、確かにこの子は何も悪くありません。でも、あの男の血が半分入ってるんですよ。だから、地獄に連れて行かれるんだと思って……」


 いつの間にか、高屋敷さんも含め皆が私達のボックス席の周りに集まっていた。


「夫がクズだってことは、結婚してすぐに気づいたんです。あたし、バカだった。外面は良いけど、家じゃどうしようもないクズ……クズ! あのクズ! 毎日毎日暴力をふるわれて……何もかも嫌になって一晩家を出たら、あいつ、まさか子供の命を奪うなんて……!」


 ゆうと君と机を共にしていた仲間達は既に知っているのだろう。ただ静かにその壮絶な話に耳を傾けていた。

 私にも、かける言葉は見つからなかった。そんな中、苦しむ秋山さんに声をかけたのは他ならぬゆうと君自身だった。


「ねえママ、ぼく、もうどこも痛くないよ」


「ゆうと?」


「こっちの人達は優しくって、毎日楽しいよ」


「ごめん、ごめんなさい」


「ううん。いいの、それにさ……」


 ひたすらに謝り続ける秋山さんの前で、ゆうと君は立ち上がり、母の耳元で何かを囁いた。私達には聞こえなかったが、それを聞いた秋山さんの顔がぱっと明るくなった。

 ここまで様子を見ていた彼女が、ゆうと君の小さな肩に手を置いて言う。


「私達は、意味もなくここにいる訳じゃなくって。今後のを決めるためにこの電車に乗ってるんです。それぞれの意思によって、私達は幽界……つまりこちらの世界で暮らし続けることも、霊として現世に降りることも出来る。勿論、生まれ変わることだって」


「でも、少なくとも地獄なんて場所。誰かに罰を与えられる場所はこちらには存在していませんよ」


「地獄はない……そうなんですね、ええ」


 熱の込められた彼女の言葉を聞く秋山さんは、相槌を打ちはしていたが、納得したというより、もう話を聞いていないように見えた。

 むしろそんな彼女の話す内容に食いついたのは私の方だ。


「それじゃあ君を、バスの乗客を巻き込んで死んだあの運転手はどこへ行ったんだ」


 あのバス事故が、平成最悪の名を冠しているのは犠牲者の人数によるところだけではなく、自身も即死した運転手の悪質さが多大に影響していた。

 彼を語る論調は、最初こそ過酷な労働環境下による犠牲者の一人としてまで扱われていた。しかし、その遺体からあろうことか多量のアルコールが検出されてからは話は別だ。彼は一転して重大な過失を犯した容疑者として扱われた。連日マスコミはバス会社と運転手の家族を叩き、ワイドショーは可哀想な被害者達をこれでもかと祭り上げた。


「バスの運転手……高幡さんもね、私達と一緒にいたよ。あの日からずっと、今でも施設で自分のやったことを悔やんでる。私はもう気にしてないよって、言ってあげたんだけどね。まだどうしても自分が許せないみたい」


「そんな……」


 馬鹿な、とは続けられなかった。

 彼女は目の前で実にあっさりと、自分を死へ追いやった張本人を、世間的に覆ることのない悪人を、私が長年呪っていた人物のことを、まるで友人の話をするかのように語った。

 彼が好きな食べ物の話、バスの運転手になるまでの経歴。そしてこちらの世界でいかに彼が反省していたかという話を。


 私はあまりの温度差を前に呆然としながらも、そこに善も悪もなく、ただ流れの中にあっただけだ。と、ついさっき聞いた言葉を思い出す。

 起きた結果は永遠の過去の中に閉じ込められ、二度と消すことはできない。では、そんなどうしようもない結果に対して、罪を咎めることは、もしくは許すことは何をもたらすのだろうか。


「……あのさ」


 思わず言葉を失っている私の前で、彼女は不機嫌そうな表情をする。窓の外を流れるあの世の景色を目で少し追い、


「こうして話が出来るのは今だけなんだから。ね、もっと楽しい話をしようよ」


 そう言って、私を含めた皆に明るく笑いかける彼女。限りある時間を有効に使おうという真っ当な提案に、当然異論は出なかった。

 

 しばらく静かだった車内のあちこちから、徐々に楽しげなやりとりが聞こえてくる。最後なのだから努めて楽しく。そんな意識が共有され、少し不自然なくらいに和やかな雰囲気が車内に漂い、そして時間はあっけなく過ぎた。


 気づけば車両の前方に見上げても尚天高くそびえ立つ駅舎、高輪ヘヴンズゲートウェイが見えてくる。

 そわそわとした焦りが私の足元から登ってくる中、そのひとつ手前の駅で、電車は初めて停止した。


 小さな田舎駅風のプラットホーム。その看板には『此岸』とかすれたペンキ文字が書かれていた。


 音もなく開いたドアに向かって、高屋敷さんに別れの挨拶をした日本兵達が、次々と降りていく。彼らは、霊のまま現世に留まるつもりなのだという。


「高屋敷、お前の人生は良いものだったか?」


 最後の一人、秋山さんを説得した室尾が振り返ってそう言った。一方の高屋敷さんは、手をぎゅっと握りしめたまま頭を垂れていた。


「勿論です」


「そうか、なら死んだ甲斐があった」


 そう言って室尾が、からりと笑う。同時に高屋敷さんはその場でくずおれ、自ら立てた杖に寄りかかるようにして、おいおいと涙を流した。


「すみません……どうして私だけ、おめおめと今日まで生き延びてしまった……」


「高屋敷、大東亜戦争はとうの昔に終わっている。それは、死んだ我らにとっても同じことなんだ。今日はお前にそれを伝えに来たかった」


 そして彼は、「靖国で」とだけ言って手を振り上げ、たんっと軽やかにプラットホームに降りた。


 そんな彼らを見送る高屋敷さんと私の隣を、とても自然な風に秋山さんが歩いて行った。彼女はそのまま小さな手を引いて、電車を降りる。


「えっ」


 驚きのあまり声が出た。

 嬉しそうな顔をして手を引かれるゆうと君と、憑き物の取れたような穏やかな顔をした秋山さん。開いた時と同じく静かにドアが閉まる。窓越しに軽くお辞儀をされ、そのまま目線が離れていく。

 そして電車は再び動き出した。

 私の隣で彼女は、冷静と落胆を混ぜたような顔をしていた。


「さっき、こっちの世界に地獄はないって。罰を与える場所はないって言ったけど、あれは少し嘘なの」


「どういうことだ」


「地獄は誰かが与えてくれるものじゃなくて、自分が望んで与えるものってこと」


「あの人は、秋山さんはどうなる」


「別にどうにもならないよ。自分の気が済むまで、こっちで暮らすんだと思う。そんな日が来るのかは分からないけど」


 聞こえないくらいの、小さなため息をつく彼女。

 私は時間が永遠に止まった場所で、成長しない我が子と生活をする秋山さんの姿を思い浮かべた。あの耳打ちは、母にとっては、あまりにも甘くて優しい提案だったのだろう。


 そして随分と静かになってしまった車両の中。私は気づいていながら口にしていなかったことを彼女に尋ねた。


「君はどうして降りなかったんだ」


「此岸駅は、まだ幽界の中だからね」


 彼女はそう言って、少し前傾姿勢になる。


「私ね、生まれ変わるつもりなの」


 再会してから一番の、そのちょっぴり歯並びの悪い笑顔。それがとても可愛くて、私はこれを一生忘れないでおこうと思った。


「今度こそ長生きして、いろんなもの食べて、好きな人と最後まで一緒にいたいからさ」


「……相手があなたじゃないのは、ちょっと残念だけどね」

 

 彼女は私の左手を見る。そこには彼女がいなくなった後の世界でも、私が人生を諦めなかった証拠がはめられていた。


「引き続き、私の分も長生きしてよね」


 言って、私の返事も聞かずに彼女は消えた。


 まるで最初から存在していなかったように、文字通り影も形もなく。

 空気はきらめきを無くし、世界は重力を取り戻し、車両の外かブレーキの軋む微かな音と、少し鼻声が過ぎる駅のアナウンスの声が聞こえてくる。生きている人間の営みの音だ。


「君がそう言うから、ずっと生きてこれたんだ」


 私はもう誰も聞いていない返事を、もう誰も座っていない座席に向かって話した。


 彼女が生きていた最後の痕跡。それは夜行バスで先に寝息を立て始めた私に、彼女が送ってくれた最後のメールの中にあった。


『お誕生日おめでとう。私、あと100回は君におめでとうって言いたい。お爺ちゃんになったあなたを隣で見てたいな』


 もしかしたら、深い意味はなかったのかもしれない。しかし、結果的に遺言になってしまった彼女の言葉があったから、私は最後の最後に人生を諦めずに済んだ。

 きっとこれは言い訳なのかもしれないけれど、あなたのために再び幸せを目指すことが出来たのだ。


 スピードを失っていく車両の中で、高屋敷さんと目が合った。

 お互いに、これが現実であることを確かめようとしているのが分かった。

 秋山さんの姿はどこにもなかった。


 駅では乗り込んだ時とは違い、沢山の乗客が行き来しているのが見えた。クリーム色の車両を見る、彼らの遠巻きな好奇心の目線を浴びながらプラットホームに降りると、高屋敷さんの元へお孫さんが駆けてきた。


「わたし、じいじが帰ってこないんじゃないかと思って……!」


 泣きじゃくる孫をなだめながら、彼は会釈で私に別れを告げる。


 次にピンク色のブラウスを着た流崎さんが近寄って来て、足りない乗客の存在をすぐに察した。


「やはり、いってしまいましたか」


 私が黙って首を縦に振ると、流崎さんは案外冷静な表情で「よくあることなんです」と言って、スマホの画面を触りどこかとやり取りをし始めた。一文か二文、短いメッセージを送った後でこちらに振り返り、


「……これでツアーは終了です。交通費は後日生命庁名義の口座より振り込まれますのでご確認ください」


 とだけ口にすると、人混みの中へ去って行った。


「お父さん」


 背後から声をかけられ振り向くと、私の娘と妻の姿があった。

 ほんの数日ぶりの再会に、私は数年振りの懐かしさに似た感情を覚えた。

 真っ青な顔をした妻が、ふらふらと倒れるように駆け寄ってきたので、それをぎゅっと抱きとめる。


「おかえりなさい」


 静かに涙を流しながら鼻声になった妻が言う。

 死んだかつての恋人から手紙が来たことを隠さず伝え、それでも送り出してくれた妻には感謝の気持ちしかなかった。


「もう、心配させないでよ」


 そう言って安堵と怒りをない混ぜにしている娘を、私は片手で半ば無理やり抱き寄せた。三人で、まるでスクラムを組むような形になる。


「ただいま」


 とりあえずは幸せに、長生きしようと思う。

 生まれ変わった彼女に追いつかれないように。

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高輪ヘヴンズゲートウェイ ロッキン神経痛 @rockinsink2

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