降灰の景色

@tetsu56

初めから終わりまで

赦しうる罪とはかくも益々忌むばかりか。

かの罪を纏う男は、かつてひたむきさを美徳とし、ほつれた綿をただ紡ぐばかりに気を注いでいた。

木が水を含む様に、頑健とみていた骨柱はぎしりぎしりと狂いを潜め、手遅れを見たのは銀白が再び舞つた宵であつた。


かの男は、人を人で無くした。

殺めた。

所以は、激情ではないものだ。

木肌の狂いが幹を狂わせ、遂には根が地を穿つ様に、たつた一通の、たつた一人の、たつた一人に宛てた他意なき手紙が、そうせざるを得ぬ筋書きとなつたのだ。


「お慕い致します」

短くそうあつた。

受け取つた次の日、東京に火が降った。


学徒であつた男は、届いた赤紙を手に半年前逃げも隠れもせず、粛々と徴兵に応じたのであるが、如何せん目を患つていた理由で、免れた。


同窓の輩が、其の母に惜しまれ、其の父に喜ばれながら、ただ向こうに消えていくのを、男は疑問なく受け入れていた。


男の名は景也(かげなり)という。

景と呼ばれながら青年となつた。


景は母にこう伝えた。

「僕は行けない。仲間は死ぬかもしれない。この争いは誰かが誰かのために始めたのだろう。そのために誰かの命が必要だつたのだろう。僕ではなかつた。」

この日、気丈にも泪をみせなかつた母は、きつと同輩が流すべき泪の補填を請け負つたのかも知れない。その母は後日空襲ではぐれ、死んだ。

父は、既に先の戦地より便りが届かなくなつて久しい。


まだ自宅で母が夕餉をこさえていた寒い日。工場に派遣されていた艶髪の女生徒から、景は手紙を貰つた。いつも目を合わせようとしない仕草は、忌みではなく照れであつたらしかつた。

返事もおざなりであつたまま、翌朝の工場で顔を合わせたきり、灰と硝子が飛び交う中で彼女ともはぐれた。「いろは」という名の娘であつた。


ひとしきり荷を軽くして帰路につく戦闘機。乗組んでいたであろう彼らも、誰かや自分の命に怯えていたのだろうか、確かめる術を景は探すこともなく、母の死にああと嗚咽を漏らすしかなかつた。


然るに、もはや一人である。

景は探し始めた、空腹を満たす術を。

灰の降らない屋根を、探した。

探した、きつと生きているいろはを。


灰が埃に取り代わつた頃、二年が過ぎていた。

景は技師となり、工場の機械修理を担つていた。視力の劣りなど何ということはなく、ただ分解して錆をとり、拾つた油を濾して浸して組み立てれば事足りた。何も省こうとしない姿勢が、彼の性分を物語り、食い扶持は賄えた。


長かつた諍いは遂に潜まり、この頃には夕餉の時分と共に異国の連中が自動車を無粋に停め、女を探す行為が恒例となり始めていた。憤慨する工場仲間が吐き捨てる程には彼らの視線は甘くなく、同性の忌みた視線と挑発を軽くあしらい、空腹の娼婦を捉えることに長けていた。

景も同じ目を学んだ。景は駐屯兵より幾分も必死であつた。

自宅から少しずつ足を伸ばし、いろはの所在を掴む頃には、景の目は異国人のそれを先んじていた。


いろははやはりそうしなければ生きれなかつたのだろう。異国兵を物色する視線を備えていた。景が声を掛けるまで、その眼は実に執念に満ちていた。


不意の景の存在に動揺した様だ。

いろはの目は瞬きをすつかり失つていた。

だが景が体感するよりその時間は半分に満たぬ程に短く、景の次の言葉を待たずして

いろはは景を拒絶した。

たいへん明確な拒絶であつた。


かの兵と闇に消えたいろはを見送るしかなかつた景の、その晩の悪夢は、かつて現(うつつ)で食らうたそれと、大層の違いはなかつた。


翌日の仕事を終え、景には迷いがあつたが尚また足を運んだ。行くしかなかつた。

いろはは、待つていた。景が来ることを微塵も疑わぬ強い目で待つていた。


後の二日ほど、景は持病を口実に自宅で過ごした。蓄えがあるわけではなかつたが、いろはとの距離を取戻すことに時間を費やした。いろはも全て応じたのはどういつた気持ちであつたろうか。

「あの避ける目はなんだつたのか」

無粋と自覚しつつも、景は聞かざるを得なかつた。いろはの吐息が謝罪のように聞こえて仕様がなかつた。

「あれは、照れですよ」


景との再会を、いろははとうに諦めていた。叶わぬものは叶わぬと。

それほどに、心閉じねばならん過去が、いろはの背には些か重すぎた。

その荷が解かれる心底の願いが、遂に叶うという。だからこそ二の足を踏んだのだ。

己の二年を、耐え難い夜を、景に有耶無耶のまま済ませてはならぬと、さもなくば其の元には居れないという覚悟を、いろはは「照れ」と表したのである。


いろはは、重く肺を患つていた。


ーーーーーーーー

「この諍いは誰かが誰かのために始めた。そのために誰かの命が必要で、それは……」

割愛するが、後日、景の遺した言葉を概ね示している。


それこそ赦されぬ罪であると景は自覚していた。

だが、遂に問われることはなく、不本意にも異国の地で、彼の息子によつて、赦されてしまつた。

ーーーーーーーーー


景といろはの蜜月は半年続いた。

景色は変わつた。


いろはに起きた異変は、病と身ごもりの他にもう一つあつた。失踪である。

腹の子のため、蓄えのない景を見限つたのでも、まして異国兵に金の無心を講じたわけでもなかつた。

出先で倒れたところを異国軍将校が基地に連れ帰つたのである。

通り名をオズといい、本国では名のある士の一員という。彼もまた、かつて何度かいろはを隣に置いた一人であつた。


オズはいろはを本国に連れ帰ろうとしていた。身重の病人なれば本国で治療を受けさせ、自らの傍らに据えようとしたのである。腹の子の父は、この病人にとっても分からぬであろう。そう疑わなかった。


程なくいろはが目を覚ました。

咳は酷く、待人の元へ戻らんとする意思の疎通に大変苦心した。さの待人とやらが子の父である事も、身振りで漸く伝えた。

帰宅の申し出に、オズはかぶりを振った。


軍医が申すには、子を産む体力はもはやないという。いろはのことである。

この地での治療など望めたものではなく、本国での治療と出産がまず最善と。それすら万事を悉く解決するものではないと。


いろはは泣き喚いた。初めてのことである。

なにゆえ景さんと共に生きれぬか。

なにゆえ異国になぞ行かねばならぬか。

怒りはかつての客に向けてではなく、僅かに生き長らえることの残酷さ、しかしそうせねばならないと理解している己に向く。


オズは景を呼びつけた。

景の瞼はまず驚を見せ、次に怒を顕わにした。

喜を見せたのはいろはの存在を確かめた僅かな瞬きのみであり、落胆もやはり直ぐに怒に置き換えられた。


オズの目論見は横恋慕と決めつけ、それは必ずしも誤解ではなかつた。

互に漸く安寧を得た筈が、またしても灰を落としにかかるのか。お前の出る幕ではないと一喝する景に、オズの通訳はこう選択肢を提示した。


「一つ、このまま去ること、得られる成果は奥方の短い余命と、小さくも尊い命」

「一つ、そこの銃で我が主を撃つこと、得られる成果は貴方の気晴らしのみである」

銃を与えたのはオズの士たる所以であつた。

撃つわけなしと高を括つたのではなく、景に対してそれだけの覚悟を表さねば釣り合わぬと。

その選択肢の本意を景に伝え、かの理解を確認した通訳は、そのまま部屋の扉を外から閉じた。


永い沈黙。やはり永いと称するに値する程の時間と焦燥であつた。


景が、重く口火を切つた。

「いろは、今何を考える」

いろはの答えは力強く、だが涙声で、そして短く儚い言葉だった。


「てがみ」

………………

………………

景の最期の言葉は「僕だ」であつた。


景は机の銃を自らのこめかみにあて、引鉄を弾いた。


――――――――――

かの罪は苦渋の果てにこそ

誤も正もなく、ただ傍らに消えぬ影を記す

命は赦しより始まり罪の随にただそつと置かれ、果てに潰える


降灰は何を育んだのか知られる由もなく。

やがてこの地を命で埋めた

――――――――――


五年の歳月を経たが

もはや病の歩みは幾重の静止を振り切り

家政婦はいろはを「ミセス」と呼んだ。

全うしたとは言えないが、いろはの最期に添えられた言葉だつた。いろはは、オズに二つ感謝の言葉を遺し、逝った。

生涯を景と子にのみ捧げた。


五年前、オズはいろはを本国に連れ帰つた。医局へのエスコートの時でさえ、オズはいろはに指一本触れることはなかつた。

景こそ見事と、オズは育つ息子に再三こぼした。


その息子こと、いろはの忘れ形見であるケシキ=オズワルドは、母の愛を確かに受け育ち、二十歳を機に義父に断りを入れ、東京より灰となった景の遺骨を持ち帰り、母の墓にそっと納めたのだ。




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ー了ー




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