黄昏の空を越えて

彩芭つづり

黄昏の空を越えて

 空に落ちるの、と彼女は言った。

 黄昏の空に落ちてしまえば、きっとなにもかもらくになれるから、と。




 夏休み。夕立のあと。ひぐらしの声。

 肌にまとわりつくような湿気としたたる汗にうんざりしながら図書室を出たぼくは、幽霊みたいな足取りで薄暗い学校の階段をゆっくりとのぼった。

 錆びた重たい鉄製の扉を、両腕にめいっぱいの力を込めて押し開けると、濃い橙と藍色の空がゆうらりと雲を流しながらぼくを出迎えてくれる。ふらりと立ち寄った雨上がりの屋上には、どこかなまあたたかい風が吹いていて、ぼくの頬を不躾に撫でていった。

 夕暮れ時のコンクリートの心地よい冷たさがシューズの裏から全身に伝わって、汗ばんだ体をゆっくりと冷やしていく。鼻から深く息を吸い込むと、土と緑の匂いがした。


 屋上の真ん中に立つ。そこからぼくはぼんやりと遠くを見つめた。この街の、もっと先の、遥か遠くにある、どこでもない場所を。それから、こんなことを考える。どうやったらここから抜け出せるのだろう、と。飽きもせずに毎日同じことばかりを繰り返す、終わりのないこの場所から。


 ぼくは静かにまぶたを閉じる。

 そのときだった。

 こつり。靴のかかとを鳴らす音が、ぼくの耳に届いた。


 はっとし、目を開く。そこには目をみはるような光景があった。

 白のブラウスには燃えるような夕焼けの赤を映し、夜の空を思わせる紺色のスカートをはためかせ、くちびるに薄い笑みを貼りつけた一人の少女が、錆びたフェンスの向こう側のコンクリートの淵に立ってこちらをじっと見つめていた。


 ぼくは信じられない思いで彼女を見ていた。

 目に見えないものは信じない、目の前で起きていることだけが現実だと考えるぼくにとって、今見ているこの景色はどう説明すればいいのだろう。

 だって、そよ風に揺れる長い黒髪や、透き通るような白い肌、それから今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気は――まるで“幽霊”そのものだったのだから。


「ねえ、そんなに驚かなくてもいいんじゃない? 今のあなた、とってもおかしな顔をしているわよ」


 まるで昔からの知り合いに気さくに話しかけるみたいにして、少女はなんのためらいもなく、ついでに遠慮もなく、当たり前のようにぼくに声を掛けてきた。

 本来は大声を出して腰を抜かすところなのだけど、あまりに普通に話しかけられたおかげでなんだか拍子抜けしてしまい、ぼくは叫ぶタイミングを失った。


 ぽかんと開いた口をおとなしく閉じて、代わりにこくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。

 まだよくわからないのだけど……彼女は、人間か? それとも幽霊か?

 警戒しながら少しずつ少女に近づいていく。

 よく聞く話によれば、幽霊ってのは足がないらしい。普通に会話ができる時点で大丈夫だとは思うけれど、念のために少女に両足があるかどうかを確認することにした。錆びついたフェンスの向こう側を覗き込む。


 ……あった。

 その体躯にお似合いの、真白く細い足が長いスカートから二本しっかりと生えていた。


 ぼくは、ほっと息を吐く。


「よかった。ちゃんと足がついてる」

「足がどうかしたの?」


 ぼくのひとりごとに、少女は自分の足を見降ろして首をかしげた。ますます人間らしい仕草だ。安心したぼくは胸に手を置いたまま言う。


「あなたに足があるかどうかを確認したんです。もしかしたら、ないかもしれないと思ったから」

「足が? ふうん、変わった人ね。あるに決まっているでしょう、人間なんだから。……もしかしてあなた、わたしのことを人魚マーメイドだとでも思ったんじゃない? うふふ、嫌ね、恥ずかしいわ」


 照れたように体をくねらす少女。「幽霊だと思った」なんて口が裂けても言えない雰囲気だ。まあ、幽霊も人魚も怪異という括りでは同じようなものだから、そんなに違いはないのかもしれないけど。


 頬を撫でつける黒髪を指ですくいながら少女はころころと笑う。明るい人だ。……この場所には、てんで不釣り合いなほどに。

 ぼくは笑う彼女を訝しげに横目で見て、心の中で言っていいものか迷っていたことを口にする。


「……あの、そんなところでなにをしているんですか」

「さあ。こんなところでなにをしているんだと思う?」


 質問に質問で返すなんて意地の悪い人だ。……こっちがなにも答えられないのを知っていて。

 ぼくは黙り込んだ。少女の質問には答えなかった。口をつぐむしかなかったのだ。

 夏休み、夕暮れ時の屋上で、わざわざ錆びたフェンスを乗り越えてその向こうに立つなんて……どうせやることはひとつに決まっている。今のぼくに言えることといえば、「タイミングが悪くてすみませんでした」くらいだ。


 なにも言わないぼくの内心を察したのか、少女は口もとに手を当て小さく笑った。それから「あなた、ちょっと勘違いしているみたいね」と呟き、そっと空を仰ぐ。


「わたしね、空を見ていたの」


 ぼくは思わず目をまたたいた。思っていた答えとまったく違う。

 空、だって?

 少女はぼくに背を向けて、すっと青白い腕を伸ばし上空を指差す。


「ほら、見て。西の空はあんなに燃えるような赤をしているのに、東の空は今にも吸い込まれそうなほどに深い藍色。とても不思議で、とても綺麗でしょう」


 同じように空を見上げる。彼女の言うとおり、一面に広がるそれはどこまでも赤く、どこまでも藍色だ。

 不思議だろうと言われれば、確かに不思議かもしれないと思った。空はまるで生き物のように表情を変える。生きているわけではないのに、泣くみたいに雨を降らせたり、笑うみたいに晴れたりする。

 ……でも、綺麗だとは思わなかった。今までぼくは、空をそんなふうに見たことはなかったから。


「空が、好きなんですか」


 ぼくの声に、少女はたっぷりと間を置いてからうなずいた。


「好きよ。大好き。……あなたは、嫌い?」

「さあ、わからない。考えたこともない」

「残念ね。それなら、あなたは空をどう思っているの?」

「……どうとも」


 思っていない、と言いかけて、小さくかぶりを振った。

 違う。たぶん、ぼくは空を好んでいない。きっと心の奥底で、無意識に憎んでいる。だって、ぼくにとって空は、


「好きにはなれないもの、かもしれない。空はいつだってそこにいるのに、ぼくを見て見ぬふりをする。ただじっと見下ろすだけで、助けてはくれない。……そりゃあ、助けてくれるとも、思っていないけれど」

「そんなことはないわ」


 はっきりと少女が言う。


「そんなことはない。空は助けてくれる。わたしは、助けられたもの」


 それは、あなただからだ。空は、こんなぼくのことまで助けてくれるとは思わない。ぼくのことなんて、きっと誰でもどうでもいい。


 ぼくはひとつ息を吐いたあと、視線を少女に戻す。


「もうすぐ日が落ちます」

「そうね、落ちるわね」

「そんなところにいたら危ないですよ。日が落ちる前にあなたが落ちそうだ」

「ふふ。おもしろい人ね。うん、わかってる。でもわたし、ここがとても好きなの。二色の空にいちばん近い、この場所が」


 少女は、まだ空に手を伸ばしている。そんなことをしたって届くはずなんかないのに。

 黙ってその様子を見ていると、ふいに彼女はぼくを肩越しに振り返った。薄いくちびるにゆるやかな笑みを浮かべ、彼女は言う。


「あなたはどうしてここへ来たの?」


 ぼくの心を見透かすような瞳に、少しだけどきりとした。

 ぼくは目を合わせ続けることができずに、ふいと顔を背けて、


「……べつに」


 と小声でそっけなく答えた。少女はまた控えめに笑う。


「うそが下手ね」


 はっきりうそだと言われてしまった。否定はしない。そう思われたのなら、仕方がない。

 まるで天使が背中の羽根を伸ばすように、彼女は白い首を仰け反らせながら両手を大きく左右に広げた。


「わたし、知っているの。黄昏時に学校の屋上へ来るのはね、この世界に不自由している人ばかりなのよ」


 目を細めた。知ったような口を聞く。ぼくは鼻を鳴らすだけでなにも答えなかった。


「あなたも、そうでしょう?」


 ぼくはうなずかない。かぶりも振らない。

 ただじっと、あと数センチでも足をずらせば、椿の花が終わりを告げるときのようにそのまま地面へとその細い体を打ちつけるであろう少女のことを見つめた。


 互いになにも話さない時間があった。たった数十秒のあいだだったけれど、それはとても永く感じた。

 ぼくは彼女を見据えたまま、ゆっくりと口を開く。


「それなら、あなたもそうなんですか」

「わたし?」

「あなたも、世界に不自由しているんですか」


 そんなつもりはなかったけれど、少し挑発的な言い方になってしまった。それでもぼくは言い直したりはしなかった。この世界に住む人たちにどう思われようが、もうかまわなかった。

 少女はそんなぼくを見ると、どこか懐かしげに目を細めて微笑む。


「していたわ。昔はね」


 今度は体ごと振り返り、少女はフェンスに肘をつく。


「でも今はしていないの。しあわせなことばかりよ」


 しあわせなんていうのは、幻みたいなものだと思う。それでも、はっきりとそう口にできる彼女をうらやましく感じた。

 風に揺れる髪を耳にかける少女の後ろでゆっくりと流れている橙色の雲を、ぼくはぼんやりと見つめた。


「つらいことがあったんでしょう」


 細い棘が皮膚に刺さるみたいに、彼女の言葉はぼくの胸の奥のいちばん柔らかいところにちくりと小さな痛みをもたらした。


「自分じゃ気づいていないでしょうけれど、苦しげな顔をしているわ」

「……そう、でしょうか」

「我慢しているのね。かわいそうに」


 苦しげ。我慢。かわいそう。

 耳をふさぎたくなるくらいに、すべてが今のぼくに似合う言葉だ。

 この少女には、きっとなにもかもを見透かされている。けれど認めたくなんてない。ぼくは下を向き、目を瞑り、くちびるを引き結んでじっと黙っていた。


 昔は世界に不自由していたと、少女は言った。

 だけど、今はしあわせなことばかりだとも。

 うらやましかった。そんなふうになりたかった。


「……どうしたら、あなたみたいになれるんでしょうか」


 ぼくはぼそりと呟いた。

 ひとりごとではない。問いかけたつもりだった。

 ……それでも彼女からの返事はなかった。


 ゆっくりとまぶたを開き、顔を上げる。そこには、夕暮れの赤が失われた濃藍の空がどこまでも遠くまで続いているだけの景色があって、少女の姿はどこにもなかった。

 慌ててフェンスに駆け寄り、下を覗き込む。しかし彼女はいなかった。

 落ちたわけではないらしい。ぼくが目を瞑っているあいだに帰ってしまったのだろうか。いきなり。なにも言わずに。


 ……まあ、いいか。

 どうせ誰も、ぼくになんて興味はないのだから。 



 ◇   ◆   ◇



 次の日。雨の降る中、ぼくはまた学校へと足を運んだ。なんとなく気になって、図書室へ向かう前に一度、屋上を訪れてみた。しかし、あの少女はいなかった。

 仕方ない。べつにいい。会えるとも思っていなかったのだ。会えたところで……話すことは、なにもない。


 夏休みでも図書室が開放されている理由は、本好きな生徒を増やすためらしい。少しでも本に興味を持ってくれたらと校長が提案したそうだ。とはいえ、節電の観点から冷房はつけないでいようとのこと。こんな灼熱の夏休みにわざわざ冷房の効かない学校に出向いてまで本を読もうとする変わり者の生徒はいない。そう、ぼく以外は。

 ぼくはいいんだ。どうせ居場所なんてどこにもない。家にも居づらい。どこかへ行きたくたってお金もない。だから誰もいない夏休み中の学校は、ぼくにとって実におあつらえ向きの場所だった。


 熱気と湿気でじりじりと蒸されるような図書室で本を読んでいたら、あっというまに日が暮れた。時計を見ると、昨日初めてあの少女と出逢ったときと同じ時間だった。ぼくは帰りにもう一度だけ、学校の屋上へと向かうことにした。


 ただでさえ重い鉄の扉が錆びついて余計に開きづらくなっている扉を押し開ける。

 その瞬間、雨上がりの空に浮かぶ赤と藍のコントラストが視界に飛び込んできた。空なんて今まで気にしていなかったけれど、こうして改めて見てみると彼女が気に入る気持ちもなんとなくだけどわかる気がした。


 じっと二色の空を眺めていると、


「いらっしゃい」


 と鈴を転がすような声が聞こえた。

 視線を向けると、そこにいたのはあの少女だった。

 相変わらずフェンスの向こう側にいて、コンクリートの淵に足をかけている。ぼくならそんな場所にいたら腰が抜けて立っていられない。


 少女は真っ白い肌の中にある薄赤いくちびるに笑みを浮かべて、こちらを涼しげな表情で見据えている。ぼくはほんの少し呆れた。


「昨日はどうしていきなり帰ったんですか」

「どうしてって?」

「別れの挨拶もなしに、突然いなくなるなんて」


 ひどいと思う。そっけないふうに見えていたとしても、ぼくはそれなりに会話を楽しんでいたつもりだった。それなのに、いきなり帰ってしまうことはないと思う。

 むっとしながらそう言うと、少女はゆるりと首をかたむけた。


「別れの挨拶? そんなの必要あるかしら」


 ある、というか、普通はするものだと思う。挨拶とまでは言わなくても、せめて「もうそろそろ帰るね」の一言くらいはほしかった。夜の屋上に一人残されたぼくの虚しさといったらない。

 しかし少女は、悪びれるそぶりも見せずに言う。


「わたしね、『さようなら』って言葉、嫌いなの」

「嫌いって」

「そんなもの聞いたら悲しくなるだけよ。お互いにね。だからわたしは言わないの。家族にも、友だちにも、あなたにも」


 細い指でぼくを指す。胸がどきりとした。


 聞いたら悲しくなるだけ。彼女の言葉を噛みしめてみると、そうかもしれないと思った。確かに、別れの挨拶は悲しいものだ。そんなものを言うから、なおさら別れが悲しくなる。それならぼくも今日から「さようなら」を言わないようにしよう。とくに、この少女との別れ際のときは。そうすれば、お互いに悲しむこともない。


 そう決めたところで、ぼくは少女に言う。


「昨日の話の続きをしてもいいですか」


 まばたきを二回ほどしてから、彼女は意地悪な笑みを浮かべて、錆びたフェンスの上に肘を掛けて寄りかかった。少し触れただけで軋むフェンスも、羽根のように軽い少女の体重ではびくともしない。


「おもしろい話なら」


 そんな話は持っていない。するつもりも毛頭ない。

 それでも気にせずに話し出す。


「あなたは今、しあわせなんですよね」

「そうね」

「でも昔はつらい思いをしていた。この世界に不自由していた」

「ええ。そのとおりよ」

「それなら、教えてください」


 彼女の瞳をまっすぐに見つめて、


「どうしたら、あなたみたいになれますか」


 純粋で単純な質問だった。

 少女は長い黒髪を風になびかせながら首をかしげる。


「しあわせになりたいの?」

「しあわせじゃなくてもいい。世界に不自由な思いをしなくてもいいようになりたい」


 だから、教えてほしい。


「どうやったら、あなたはこの息がつまるような世界から抜け出せたんですか」


 体の横でこぶしを作る。手のひらに爪が食い込むほどに、ぐっと強く握り締めた。

 心にゆとりのないこんなぼくとは反対に、少女は余裕げな微笑みをくちびるに滲ませ、すっと目を細める。そしてどこか恍惚な表情を浮かべて、彼女は言った。


「空に落ちるの」


 たった一言。それが、この世界から逃れられる方法。


 ばかにしているとは思わない。しかし、ぼくにはそれが正しいアドバイスだとは思えなかった。

 目をすがめて少女を見る。


「空に落ちる……だって?」

「そう。空に落ちる。この黄昏の空に、まっさかさまに落ちていく。そうすれば不自由な世界とはさよならできる」


 それから囁くような声で、


「それでわたしは、自由になれたわ」


 ぼくは硬く握ったこぶしを解いた。真剣に聞いたのに、そんな抽象的な答えだとは思わなかった。

 ゆるゆると小さくかぶりを振る。


「……そんなの無理だ。空に落ちることなんてできるわけがない」

「わたしはできたわ」

「うそだ」

「うそじゃないわ」

「ふざけてるのか」

「あなたが教えてほしいって言うからそのまま答えただけよ」


 少女はまっすぐにぼくを見つめる。

 うそっぽい。それでも彼女は本気で言っているように見えた。

 ぼくは少し間を置いてから聞く。


「……じゃあ、どうやって」

「それはあなたが考えなくちゃ」


 即答だった。答えは教えても、過程までは教えてくれないらしい。

 ぼくは小さく溜め息をついた。それからもう一度聞く。


「あなたは、空に落ちることができたんですね。この黄昏の空に」


 聞けば、こくりとうなずく少女。

 これ以上はなにも問うつもりはなかった。しあわせになれた彼女が言うのなら、そうなのだろう、きっと。


「……それなら、ぼくも考えます。空に落ちる方法」


 呟くと、少女は「うん」とうなずき、にっこり笑った。そのてらいのない笑顔にぼくはなんだか照れくさくなり、髪をくしゃくしゃと掻きながら下を向く。

 人とこんなふうに会話をしたのは、久しぶりだった。友だちとも、両親とさえも、……ぼくは話をしないから。


 わざとらしい咳払いをひとつ。少女と目を合わせないまま、ぼくはだらしなく視線をさまよわせた。


「ええと、あの、もしよかったら、名前を教えてくれませんか。あなたともっと話がしたい」


 情けないことに声が震えてしまった。自分からこんなことを言ったのは生まれてはじめてだった。

 名前を知って、もっと話をして、それから……わがままかもしれないけれど、仲よくなりたかった。親密な仲になりたいとは言わない。それでも、話のできる友だちにはなりたいと思った。誰かとこんなふうに話せるようになったのは、もう何年間もなかったから。


 ……しかし、いくら待っても返事は返ってこなかった。訝しく思い顔を上げ、ぼくは小さく苦笑した。

 たった今まで話していた少女はまたその姿を消していて、夜に飲まれた空だけがぼくをじっと見降ろしていた。



 ◇   ◆   ◇



 翌日、ぼくは再び学校へと足を運んだ。しかし昼間には屋上へ行かなかった。行ったとしても、どうせ会えない。行くなら放課後。夕暮れ迫る時間帯。そのときでなければ、あの少女には会えないだろうと思ったのだ。


 屋上へと続く重たい鉄の扉を開けると、黄昏の空をバックに少女がコンクリートの淵に立っていた。まるでぼくがここへ来ることをわかっていたみたいに、最初からぼくをじっと見つめていた。


「いらっしゃい」

「……こんばんは」


 彼女が今日もちゃんとここにいてくれたことに、心の中で安堵する。

 ぼくは小さく笑いながら少女に近づいた。


「昨日も別れの挨拶はなしでしたね」

「そうね。言ったら悲しくなるもの」

「はい。ぼくもそう思います」


 錆びたフェンス越しに、ぼくたちは今日も話をする。


「昨日の話の続きをしてもいいですか」

「おもしろい話じゃないのなら、嫌よ」


 そんな少女の言葉にぼくは苦笑しながら、昨日聞きはぐったことをもう一度口にした。


「名前、教えてください」


 すると、突然少女の顔から笑みが消えた。聞かれたくないことだったのだろうか。少し焦ったけれど、それでもぼくは彼女の名前が知りたいと思った。

 少女はぼくを見て目を細めると、ふいとそっぽ向く。


「おもしろくないわ」

「すみません。でも、名前が知りたいんです。それから、学年とクラスも」

「おもしろくないったら」

「お願いします」


 食い下がると、少女は怒ったような、困ったような、複雑そうな顔をしてぼくを横目で見た。それから少し語気を強めて、


「わたしのことは、内緒よ」

「……それなら、年齢だけでも」

「あなたよりは上ね。それ以外は秘密」


 なんだか自分のことは言いたくないみたいだった。もしかしたら、ぼくみたいな奴に校内で話しかけられたら迷惑だとでも思っているのかもしれない。……そうなら、仕方がない。

 諦めて、小声で「わかりました」と呟く。

 すると少女は安心したようにほっと息をついてから、先ほどとは打って変わりぱっと表情を明るくする。


「で、どうかしら。空に落ちる方法は思いついた?」


 ぼくはゆっくりとかぶりを振った。


「いいえ、ちっとも」

「そう。ゆっくり考えるといいわ。それまでは付き合ってあげる」


 ぼくの答えが出るまでこうして話をしてくれるのであれば、このままでも悪くはないかもしれない。そんなふうに思った。



 ◇   ◆   ◇



 黄昏時、ぼくたちは毎日のように会って会話をした。

 夕陽が落ち始めて空の赤みが消えるほんの少しの時間だけだったけれど、それでもぼくはとても楽しかった。


 初めて出逢った頃は、行く当てがないから学校の図書室へと足を運んでいた。けれど今は、彼女に会えることが楽しみで学校へ行く。

 ぼくの住む世界は相変わらず息苦しくて、切なくて、どうしようもなく汚れていて、……だから一刻も早くこんな場所から抜け出したくて。それでも彼女と二人で過ごす時間だけは、ぼくの唯一の宝物だった。彼女と一緒にいられるから、ぼくは呼吸することをやめずにいられた。

 こんな時間がいつまでも続けばいいと、心の中でひっそりと思っていた。ずっとずっと続いてくれさえすれば、それだけでぼくは他になにもいらなかった。


 ……それでも。そんなささやかな願いさえも、この冷たい世界は許してはくれなかった。


 少女が消えた。

 いなくなったのだ、こつ然と。


 昨日も、おとといも、その前も。ずっと少女と会えていない。夕暮れの時間帯でも、少女はぼくの前に現れない。どんなに待っていても、あの涼しげな笑みを見られない。白い肌も、流れる黒髪も、白魚のような指さえも、なにもかもを失った。ぼくの世界から、唯一の光が消えた。


 どうせ会えない、会えるわけなどない。……そう何度も自分に言い聞かせて、頭ではわかっているつもりでも、ぼくは今日も諦めきれずに心のどこかで期待して、鉄製の重い扉を押し開ける。

 夕立がやんですぐの屋上には、水たまりに映る二色の空がいくつもあった。ぼくの虚ろなふたつの瞳に映るのはその景色ばかりで、一人の少女の姿はとらえることができない。


 鉛のように重い足を上げ、前へゆっくり進める。ズボンの裾が地面の雨を吸い上げ、色濃く変わる。

 塗装が剥げてところどころ鉄がむき出しになっている錆びたフェンスに手をかけた。ぼくと彼女を隔てていたこの境界線を乗り越えて、いつも少女が立っていたコンクリートの淵にそっと足をかけてみる。

 雨が通り過ぎたあとの、埃くさい風が頬を撫でる。遠くの地面を覗き込むと、海のように大きな水たまりが校庭いっぱいに広がっていた。


 少女が好きだった空。ぼくも、好きになりかけていた空。そんな二色の空が、スクリーンのように遠くの地面にはっきりと映し出されている。まるで空が下にもあるみたいだった。


 あの子はいつも、こんな景色を見ていたのか。

 黄昏の空に挟まれながら、ぼくは彼女のことを想った。

『さようなら』は言わない。別れの挨拶はいつだって悲しいものだから。少女はそう言っていた。だから、いなくなったのだろう。ぼくに、なんの言葉もなしに。


 どうしようもなく空っぽになった胸はこんなにも切ないのに、不思議と涙は出てこない。きっとぼくは、最初からわかっていた。知っていたのだ、この物語がどんな結末を迎えるのかを。


 少女は言った。ここは「不自由な世界」だと。

 ぼくはまた、その不自由な世界に戻ってきてしまったのだ。

 彼女のいない、不自由なこの世界に。

 つらい。苦しい。悲しい思いをするのはもう嫌だ。抜け出してしまいたい。

 こんな世界なら、もういらない。


『――だから、空に落ちるの』


 ふと、少女の声が聞こえた気がした。


『言ったでしょう。この黄昏の空に、まっさかさまに落ちていく。そうすれば、この不自由な世界とはさよならできる。つらいなら、苦しいなら、飛んでしまえばいいの。だって、わたしはそうしたわ』


 ……そうか。そうだったんだな。

 空に落ちる意味が、ようやくわかった。ぼくはやっと納得できたのだ。

 だったら、ぼくも空に落ちたい。あなたと同じように、空に落ちてしまいたい。

 ……そうすればぼくは、


「また、あなたに会えますか」


 風にさえ掻き消されそうな、掠れた声で呟いたひとりごと。

 締めつけるような胸の中で、少女がいつものあの微笑みを見せながら「もちろん」と返事をしてくれたような気がした。


 それならば、今すぐに行きたい。会って、もう一度話がしたい。それを叶えてくれるのが空ならば、ぼくはきっと空を綺麗だと思えるようになる。空も、あなたも、好きになる。


 ――空に落ちて、会いに来て。

 ――そうすれば、しあわせになれるわ。

 ――だから、


『この黄昏の空を越えて、おいで』


 耳の奥で、はっきりと聞こえた彼女の声。

 ああ、これで、やっとしあわせになれる。

 そう確信したぼくは、一人うっすらと笑い小さくうなずいて、下に広がる赤と藍色の空を遠い目で見つめながら、コンクリートの淵を軽く蹴った。






(終)

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黄昏の空を越えて 彩芭つづり @irohanet67

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