エピローグ:あとさきの夢

 裏口から外に出ると、鋭く冷えた空気が火照った顔の皮膚に心地よかった。というのは一瞬のことで、向かい風はすぐに、肩を竦めさせるに足る冷たさを取り戻す。立ち止まって、耳たぶを隠すところまでニット帽を引き下げる。吐いた息は白く染まるが、その形をとらえて名前を付ける間もなく、向かい風がすぐに白さを散らす。もう一度ため息をつくが、はっきりした形を成さない白さは、またすぐに向かい風にまかれて散った。

「辛気くさい表情してんな、綴(つづる)」

 聞き馴染んだ声が、自分の名前を可笑しそうに呼ぶ。顔をあげると、一メートルも離れていないところで、真冬とは思えない格好の人が、仁王立ちになり、腕組みをして胸を張っている。目にも鮮やかな白色のパーカーのファスナーは全開で、裾で金具がかちゃかちゃと鳴っている。中に着ているのは黒いタンクトップらしい。タンクトップと同じ色のミニスカートから伸びる脚はすらりと長く、健康的な肌色をしている。重たそうなブーツの爪先は外を向いて堂々としている。そこまでを見てから視線を上へ向けると、目尻の下がった、柔和そうな、けれどもどこか攻撃的な色を隠しきれていないまなざしとぶつかって、咄嗟に瞬きをする。からからと可笑しそうな声が転がる。

「だって寒いじゃないですか」

「ああ、君は寒がりだものな。わたしを見習えば良いのに」

「出来るもんならとっくにやってますよ。先輩、シフトでもないのにどうして店に?」

「注文してた本があったんだよ、まだ届いてなかったけど。ただの無駄足にするのももったいないから、待ってた」

「そりゃあ、光栄です」

 俺が言い返すと、先輩は得意げな笑みで頷いて、くるりと踵を返す。白いパーカーと黒いミニスカートの裾がふわりと浮き上がる。浮き上がった裾が落ち着く前に、さっさと歩き出す。その後ろを、近づき過ぎもせず、離れ過ぎもしない距離を保ちながら、ついていく。行く先は分かっている。先輩がバイトの帰りに俺を誘って行く場所は一つに決まっている。

 横断歩道の信号が赤色に変わり、先輩が黄色の点字ブロックの手前に立ち止まる。俺も、先輩の斜め後ろに立ち止まる。一メートルも離れていないところを、色々な種類の車が猛スピードで走っている。もし、そこへ誰かが飛び込んだとしたら、その誰かはあっという間に肉塊へとなり果てるだろう。車の群にひとつ、いやに黒く角張っているのが交じる。霊柩車。名前を思いつくのと同時に、親指を素早く握り込む。ほとんど反射みたいな動きだった、小さい頃から仕込まれてきた迷信のなせる技だ。先輩は腕組みをしていて、指を握ってなどいない。霊柩車の走っていった方を向き直るが、もう黒い車の姿は見あたらなかった。葬儀場から焼き場へ行くのだろう。町の真ん中にあるのは、せいぜいが葬儀場までだ。

「行くぞ」

 先輩の声に前を向く。歩行者用の二色信号が青色を灯している。先輩も、他に信号待ちをしていたはずの人々も、もう歩き出している。取り残されないように、俺も足を前へ踏み出す。さっきまであんなに猛スピードで行き交っていた車が、白い線の手前で大人しくしている。何がというわけではなく、変な感じがした。

 横断歩道も過ぎて、黄色いブロックを踏むと、ブロックのでこぼこが靴底に柔らかく感じられる。先輩はやっぱり、俺を待たずに先々行っている。猫の尻尾のように、ひとつに束ねた黒髪が、しなやかに揺れている。それを道標に、見失わないように、俺も歩いていく。

 ——先輩、という人を一言で形容しきれる言葉を、俺は今もって知らない。出会って最早三年が経ち、互いに知らない好みはないと言い切っても間違いがないくらいの仲になってなお、先輩という人を例えるには不充分なことしか、俺は知らない。これから先、どれほどの時間を与えられても無理だろうと思う。言葉という道具で先輩を表そうとする限界がそこなのかもしれない。いくつもの言葉を連ねて先輩という人を説明することは出来るのだろうが、受け手による意味の差異が生まれることは避けようがない事態であって、差異が生まれるような言葉の連なりではやはり不十分なのだ。そうすると、先輩を言葉で形容することはやはり難しいと結論せざるを得ない。ひとつ確かで間違えようもないことは、先輩は俺にとって先輩であり、他の何者でもないということだ。しかし、これを例えに使うことは、ただのトートロジーの始まりにしかならないので、やはり、不適切である。

 先輩が立ち止まる。俺も、その後ろへ立ち止まる。河川敷へなだらかに下る土手の手前だった。春になれば土筆や蒲公英で賑わいもするが、生憎今は真冬で、枯れ草色をした芝生が土手の表面を寂しく覆っている。河原の真ん中に通った一本道を、犬を連れた老人がゆっくり、ゆっくり歩いている。その更に向こう、川の水面はどうやら凪いでいて、日の光を反射しながらゆっくりと流れていっている。

「平和だな」と小さな声で呟いて、先輩は前を向いている。少し笑いの混じった声だった。と同時に、あからさまに安らいでいる声だった。今、俺と先輩が立っている場所から観察されうる景色は、確かに、先輩の言った通りのものである。平和、そのもの。何の異状も見あたらず、どんな異変の前触れも見つからず、ただただ、灰色の日光を浴びてしんといつも通りにしている。放っておけばこれが明日も明後日も続くのではないかと錯覚してしまいそうになる。確か、明日は荒れ模様になると、店でかかっているラジオのパーソナリティが気忙しそうに言っていた。

「厭ですか」

「そんなわけあるか、良いことだよ。何よりも得難いものだ」

「でも、明日は嵐らしいですよ」

「嵐?」

「発達した低気圧が北上してきて、南の海上の湿った空気を巻き込んでどうやらこうやら、とラジオの天気予報が」

「ふうん」気のない相づちの後、先輩はこちらを振り向く。身長差のあるおかげで先輩は俺を見上げることになるのだが、挑みかかるような険のある目元と、今にも笑い出しそうに両端のつり上がった唇は、アンバランスで魅力的だった。「冬の嵐か、趣があって楽しそうだ」同意を求められているような気分になったが、冬に来る嵐について先輩と同じ感想は持てず、かといって否定を返すのも気が引ける。考えながら黙っていると、先輩は前を向く。黒い尻尾の先が揺れ、浮き上がる。それが落ち着くのを待ちもしないで、先輩は動き出す。前へ倒れ込みそうに見えるあやういバランスで、土手を駆け下りていく。枯れ草色をモノクロームが横切って行く。手を伸ばす隙すらない、声を上げる暇さえない、あっという間のことだった。さっきまで先輩が居た土手の際まで駆け寄って見下ろせば、土色の一本道の真ん中に先輩は立っていて、こちらを見上げて片手を振っている。今度こそ、招かれている、と分かった。ため息を付きそうになるのをこらえ、息を止めたまま、一歩を踏み出す。乾いた芝生がくしゃりとつぶれるのが、靴底越しに伝わってくる。転けそうに前のめりになりながらも無事に土手を駆け下りて立ち止まると、先輩と目が合った。

「小宮先輩」

「うん」

「俺、あの人と別れました」

「そうか」

「驚かないんですね」

「まさか。びっくりしてる」

 先輩が歩き出す。河川敷の一本道の真ん中をぽつぽつと、ゆっくりと。俺はその斜め後ろをついていく。乾いた砂利を靴底が踏みしめる感触と圧迫感は、痛いような気持ち良いようなどちらともに感じられる。先輩の背中は遠ざかりもせず近づきもせず、俺の少し前を行く。他の誰ともすれ違わないで歩く、嵐の前の静けさとはこういうことを言うのかもしれない。

「いつ?」

「少し、前に。先輩にはお伝えしておかなければいけないと思って、でも、報告が遅れました。すみません」

「どうして謝るの」

 先輩が可笑しそうに笑った。乾いた冷たい風がその声をさらって、かき消してしまう。風は川面へ向かって吹いていて、静かに流れていた浅い流れの表にさざ波を立てている。明日からは嵐だという、嵐が来たらこの川も荒れるのだろうか。水嵩が増し、水は黄土色に濁り、波が河川敷に打ち寄せて濁るのだろうか。それが今日でなくて良かった、と思う。こんなに穏やかに川が流れている日だから、先輩と河川敷を歩くことが出来ている。

「君の決めたことだよ。わたしに謝る必要がどうしてある」

「でも、先輩には色々と……相談に乗ってもらったりしたから」

「あんなの、相談の内に入らないよ。わたしは君の背中を押してただけだ」

 先輩の声はまだ笑いを含んでいる。それは、あの人のことについて先輩と話をするとき、話の最後になって先輩が俺を慰めるような言葉を発する、そのときの声と同じものだった。先輩がそういう声で言うことは、いつもごく自然に飲み込めた。特別甘くて心地良い言葉であったわけではなくて、もしくは、癖がないから、当たり障りがないから、というわけでも決してなくて、ただ単に俺によく合った言葉だったから。先輩は当然に、そういうことをしてくれる人だ。「それをね、簡単にできる人は少ないんですよ」と言ってみると、先輩はまた可笑しそうにする。鼻歌のような笑い声は、先輩が前を向いたままでも俺の方によく通って聞こえた。

「辛気くさいのにすっきりした感じだったのはそういうわけだったんだな。いや、辛気くさいのは元からだから、すっきりしただけなのか」

「辛辣ですね、先輩」

「君よりはマシ。別れたって、その方がやっぱり君には良かったってことだな」

 そうか、そうかと先輩は頷きながら呟いて、歩いている、と思ったら少し立ち止まる。足元に転がっていた空き缶をサイドキックで川面の方へ退かして、また歩き出す。空き缶はぷかりと川面に浮かんでいた。先輩が歩くのを止めないから、どんどん空き缶との距離は離れていく。なんとなく、赤と白のその空き缶の影から目を離せなくなる。久しぶりにあの人のことを思い出した。別れたといってもその前に数年の付き合いはあったわけで、それなのにこの数日すっかり思い出すこともなかったということは、先輩の言っていることは正解なのだろう。あの人と別れたことの方が俺には良かった、その方が自然だった、ということ。

 離れていく空き缶の方を見ながら首を曲げ続けるのがいよいよしんどくなって、前を向く。先輩との距離は近付いても離れてもいない。そのことに安堵しながら、先輩の後をついていく。

「先輩には色々とご迷惑をおかけしました。その……沢山相談に乗っていただいて」

「それしか言うことないの」

 先輩の笑い混じりの声に揶揄されて、何か続けようと思って開けたままだった口を閉ざす。他に言うべきこと、ならば沢山あろうが、それから一つを選ぶことはまだ容易ではない。他のことはまだ混沌としていて、うまく拾い上げることなど出来そうもない。俯いていると先輩が立ち止まって、横を向く。俺も立ち止まって同じ方を見れば、灰色の階段があった。上の道路へ登るためのコンクリートの階段を、先輩は上り始める。俺もそれに続く。ミニスカートの裾がふわりふわりと揺れているのが目に入った。この人は自分と違う性別の生き物なのだな、ということをそんなときでもないと思い出さないし、思い出さなくても先輩と俺との間柄は変わらない。

 階段を登り切ると、交差点の斜向かいにいつも寄る場所が見えた。点滅している青信号の方に向かって、先輩が少し早い歩調で歩いていくのに着いて、かすれた横断歩道を渡る。黄色い凸凹したブロックを踏んだところで、曲がってきた車の起こす風の冷たさに思わず肩が震える。さっきと直角な方向の横断歩道の手前の黄色いブロックを踏みながら待っていると、赤の光が消えて、青の光が点る。先輩と同時に俺も歩き出す、ここで横に並ぶのもいつものことだった。横断歩道を渡りきったところにある、照明のうるさいコンビニエンスストアこそがおきまりの場所で、先輩は迷いなく自動ドアの方へ向かっている。俺もそれに倣う。ドアの前で立ち止まると、ガラスのドアはひとりでに開いて、店の中に足を踏み入れると、耳慣れた電子音が流れてきた。そのまま直進して、温かい飲み物の並んでいる棚に向かう。真冬だけあって、棚の上の段から下の段まで、すべてが温かい飲み物で埋まっていた。先輩は上から順に何が置いてあるかを確かめているようだった。それを横目に見ながら、いつも買う缶コーヒーのある位置へ手を伸ばす。今日も同じのがそこにあった。缶コーヒー、ブラック無糖。真っ黒な缶の印刷は正しく中身を表している。少し熱いくらいに温められた缶を手にとると、肩の力が抜けるような気がした。

「いつもそれだな」

 先輩は俺の手元を見ながら呆れたように言う。両手はポケットに突っ込まれたままだから、先輩はまだどれを買うか悩んでいる最中のようだ。先輩に倣って自分の手元を見る。俺の手は、いつもと同じ、黒い印刷の缶コーヒーを握りしめている。

「たまには違うのにすればいいんだ」

「と、言われ、ても」

 牛乳や砂糖が入っているコーヒーは苦手だし、紅茶はもってのほか、もっと苦手だ。かといってコーンポタージュなんか飲んでいても苛立つだけだし、善哉はこれで買うやつの気が知れない。結局、選択肢は極小まで狭められて、買う気になれるのはこれぐらいしか残らない。現状とあまり変わりのない結論にため息が出る。苦いコーヒーは好きだ。消去法だけでなく積極的にこれを選んでもいる、と言い訳のように考えてみるが、何かすっきりしない。先輩はあくまで冗談めかして言っただけだろうに。肩でも凝っているのかと、伸びる筋を意識しながら首を捻っていると「買ってくるよ」と、先輩の白い手が俺の持っている缶コーヒーをするりと抜き取っていく。反論する暇はなく、先輩は空いたレジ台に素早く商品を並べて、店員もまけじと素早く商品をレジスターに通していく。これはもう、どうしようもない。俺に出来るのは、両者のやりとり、すなわち会計が無事に終わるのを待つことぐらいだ。先輩の後ろ姿にそっと手をあわせて、自動ドアの方へ向かう。開いたドアから人が入ってきて、電子音が鳴る。ドアが閉まらないうちにと早足になって、入ってきた人とぶつからないよう半身になって避けながら 、外へ出る。刺すような冷たい空気は店内と全く違って、痛かった。道路を挟んだ向こう側に、凪いだ川面が見える。静かな川面を遠く見つめながら、ガラスにもたれて息を吐く。あっという間に白く染まった吐息は、すぐ、冷たい空気に馴染んで見えなくなった。ため息をついても同じように、白く染まってから見えなくなる。はじめから見えなくてもいいのにと物理法則に反した考えが浮かんでくるのが可笑しかった。

 ぬるい空気の流れが頬を撫でた、かと思うと、さっきも聞いた電子音が流れてきて、ドアの方を向くと、先輩が店から出てくるところだった。茶色いビニール袋を持っていて、それを持った手を俺の方に伸ばしてくる。受け取っていいものかどうか少し迷った後、先輩の手の下に少し余っている持ち手を握って、袋を受け取る。先輩は満足げな笑みを見せると、俺の隣で、俺と同じようにガラスに背中をもたれかからせた。

 受け取ったビニル袋を広げてみる。缶コーヒーふたつにしては重たいと思ったら、缶が二つの他に、薄い紙袋が二つ、無造作に放り込まれている。何を買ったのかは分からないが、ふたつ買うなんてよっぽど腹が減ってるのだろう。ビニル袋に右手を入れると、缶と紙袋のおかげでずいぶんと温かい。温まって動きやすくなった手で自分の選んだ缶コーヒーをつかんで、袋から取り出す。少し軽くなったビニル袋を先輩の方へ差し出すと、すぐにがさりとビニルの擦れる音がして、ビニル袋の重みがなくなった。軽く自由になった手で、缶コーヒーのプルタブを押し上げて、戻す。ポカリと黒く空いた飲み口に口を付けて缶を傾ければ、熱くて苦い液体が口の中に流れ込む。飲み込んだ後、熱い液体がすっかり喉を通り過ぎてしまったにも、まだ苦味が尾を引くように残っている。

「あ」先輩が素っ頓狂な声を上げる。見れば、両手でビニル袋の持ち手を握り、袋の口を広げながらその中身をのぞき込んでいるようなのだが、俯いている先輩の表情は、急に、不機嫌なときのそれになっている。眉根を寄せて、少し強ばった目元と口元。少し尖った唇が薄く開いて息を吸い「何で残してるの」

 いかにも機嫌を損ねている声がそう言ったかと思うと、先輩は勢いよく顔をあげて首を曲げ、俺を見上げる。正面から見てもやっぱり、先輩は何故か不機嫌そうに、眉間に皺を寄せている。と考えるのと同時に、先輩が言ったのは俺に向けてだったのかと理解して、その中身を考える。ビニル袋に残っているものは缶がひとつと紙袋がふたつ。後者のことを言われている気がした。もう一つの缶が先輩のものであるのは明らかだから。

「だって、先輩が買ったのじゃないですか」

「買ったのは私だけど、片方は君のだよ」

「どうして」

「お祝い。君の顔がひさびさにすっきりした、お祝い」

 そう言って、先輩はビニル袋に手を入れて、ひとつ紙袋を取り出し、それを俺の方へ差し出してくる。「肉まんを二つも食べさせようなんて、どうかしてる」とまだ不機嫌そうな声が言えば、俺にそれを受け取らないという選択肢はなくなる。恐る恐るゆっくりと先輩の差し出した紙袋に手を伸ばし、それを受け取る。中に蒸気がこもっているのだろうか、少し湿って温かく、柔らかい。先輩の言うのを信じるなら肉まんということだが、表情をころりと変えて笑っている先輩は、悪戯を仕掛けてきているようにも見える。「冷めないうちに食べなよ」と言うと、先輩はもう一つの紙袋を取り出し、袋を開ける。白い湯気をともなって出てきたのは、白くなめらかな生地で、先輩は大きな口を開けてそれにかぶりつく。ベースは醤油で味付けされているのだろう美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。先輩が食べているのは間違いなく肉まんらしい。

 紙袋の底を左手で支え、缶の中身をこぼさないように気をつけつつ、袋の口を開ける。白い湯気が立ちのぼってくる中に、もう美味しそうな匂いが感じられる。先輩の食べているものと同じ匂い。白くてなめらかな表面をしている生地も同じに見える。めくった紙袋の端を手のひらで押さえながら、肉まんを口元へ運ぶ。端に大きくかぶりつけば、白い生地はふかふかと柔らかく、それにくるまれた餡は、匂いから感じられるとおり、醤油をベースに味付けされている。油っ気も強く感じるこってりした庵の中に、刻んだ野菜らしい歯ごたえが気持ち良い。飲み込んだ後には、脂っこさと、微かな苦味が舌の上に残っていて、なるほど、百円と少しのチープなうまみらしい。これひとつで腹はある程度膨らせられるだろう。

 大きく口を開けて、残りの肉まんにかぶりつく。少し噛んだだけで簡単に飲み込めて、しかも味が濃いから、二、三口でもって紙袋は空になった。口の中のものを飲み込むのと一緒に、左手に残った空の紙袋を手のひらの中に握りつぶす。しつこいぐらいの脂っこさを感じつつも缶コーヒーを飲めば、コーヒーのすっきりした苦味は、肉まんの後味と混じり合って何かよく分からない味になってしまったが、飲み込んだ後の口の中は、多少さっぱりとした気がする。続けて缶コーヒーを飲むと、少しずつ、元の缶コーヒーの味が戻ってくる。

「うえ」先輩が変な声をあげた。缶に口を付けたまま視線だけ先輩の方に向けると、鮮やかに彩られた缶を片手に掲げて渋い顔をしている。その缶の中身は誰もが知っているだろう炭酸飲料だろうということは、想像がついた。「合わないな、これと肉まん」渋い顔のまま先輩はそう言う。「試してみる?」

「遠慮しときます。合わないんでしょう?」

「別々にすれば美味しいのにね。うまくいかないもんだなあ」

 しかめ面でそう言って、先輩は掲げた缶を口元に寄せる。ごく、ごくと喉の鳴る音。音に合わせて白い喉が動いている。甘みも苦みもきつい、炭酸の泡が口の中に痛い炭酸飲料を、飲み干していく。寒いのに、よくそんなことが出来るなあと思った。確か、先輩は冬になる度、手先や足先の冷えを訴えていたように思うが、よっぽど肉まんとの組み合わせが気に食わなかったのだろうか。そんな風に飲んだら、体の内側から冷え切ってしまうように思う。でも、それを指摘して良いのはきっと俺じゃない。先輩が空になったらしい缶を向こうへ放り投げる。金属同士のぶつかる高い音がした。小さくガッツポーズをしている。握った拳の関節が、ほのりと赤い。それに気が付いて出そうになるため息を飲み込んで、自分の缶コーヒーに口をつける。冷めてきたコーヒーは、さっきまでよりも苦味をましたように感じられた。

「あいつと別れたってさ、綴はどうするの。どうせ明日からもまた会うんだろ。同じとこに居なきゃいけないのに」

「居なきゃならん、ってことはないですけどね」

「でも、行くんだろう」

「はい、残念ながら。いい加減、卒業研究の計画を出さないと。先生に怒られるんです」

「ふうん」

 先輩から尋ねてきたことなのに、そっぽを向いて相槌を打つ声はまるでどうでも良さそうだった。怒っているのかもしれない、とふと思う。が、それは俺の願望で、こちらを向いた先輩はつまらなさそうに地面を見つめて、息を吐いた。白く染まった吐息が風にまかれて、すぐに見えなくなる。この人は俺と違う生き物だが、確かに俺と同じ種類の生き物らしい。そんなことを考えている間に、先輩の手がこちらに伸びて、俺の缶コーヒーの上部をつかむ。「あ」と思わず声をあげるが、そんなことに何の意味もない。先輩は缶に口をつけて、さっき炭酸飲料の缶でしたみたいに、一気にその中身を飲み干していく。躊躇なんてどこにもない。「苦いよ」と自分で飲んだくせに文句を言って、缶を顔の横で振る。空なのを確かめたのだろうか、先輩はまた、缶を向こう側へ放り投げた。金属と、金属のぶつかる音。「ナイスシュート」きっと、そうなのだろうと思う。くるりとこちらを振り向いた先輩は、うれしそうに笑っていた。

「先生ってさ、先に生きるって書くじゃない」

 その笑顔のまま、また唐突なことを言う。理解が追いつかない、先輩の言っている言葉は分かるけれど、淡々と紡がれた文脈も意図もまるっきり読めない。戸惑った顔をしていると思うが、先輩は「先に生きるなら」と続け始めるから、きっと理解なぞ求めちゃいないのだ。それなら聞かせなければいいのに、俺は先輩の言葉を抱えて悩むことになるのだから。

「きっと、先に死ぬね」

「……縁起でもない」

「本当のことじゃないか。先生、と呼ぶ人は大体自分より早く死ぬよ、それが普通なんだ」

「だからって、それを言葉遊びにからめていいと俺は思いませんよ」

「そうかな」先輩が首を傾げながら、俺の顔を覗き込む。口元は笑ったままだったが、目元はちっとも笑っていない。骨董市にいる目利きのようなまなざしが俺をまじまじと見つめている。ああ、先輩には遊びなんかじゃなかったのか、と気が付く。息を呑んで口元を引き締めて頷いて見せるが、そういうのだって、俺はいつも遅いのだろう。先輩は「綴にはきっと、そうなんだね」と言って改めて笑って見せたが、どこか翳りのある声音だった。「縁起でもない、かあ。考えたこともなかった」

「縁起の方が先輩を避けますものね」

「何。それ、どういう意味よ」

「先輩にはなんだって、運任せじゃない、ということです」

 俺の言葉に不服そうにした先輩は、先輩に応じて俺が言ったのへ、目を瞬かせた。唇が何か言い掛けたまま開きっぱなしになっている。しかしすぐに閉ざされて、今度、唇は弧を描いた。眉根を寄せて、目を細めた先輩は、笑っているというよりは、泣き出しそうな子どものように見えた。「そうだ」とうなずいた声はひどく落ち着いているから、俺の思い違いかもしれないが、そっぽを向いた先輩の表情を確かめることは俺には出来ない。ただ、先輩の向いたのと同じ方を見る。さっきまでいた川縁は遠く、川面は灰色に流れて、きらきらと日光を揺らめかせていた。

「その通りだね、綴。わたしは——わたしのことは何だって、自分で決めたいんだ」

 先輩は俺への答えとしてそれを言ったのに、俺の方を見なかった。道の向こう側、川のある方を向いていて、急に、走り出す。手に提げたままのビニル袋がかさかさ乾いた音を立てる。スカートが、フードのパーカーが、浮き上がる。そんなものを見ていたら、俺の足は地面に縫いつけられたみたいに動かなくて、先輩は横断歩道を向こうまでわたりきって、信号機は赤色の信号を示していた。黄色のブロックの手前までは走り寄って、横断歩道の向こう側を見る。先輩が、頭上で大きく手を振っている。車が行き交い初めても、先輩の振っている手の先だけはよく見えた。

 向こう側に早く行かなければ、と思う。だが、俺には赤信号の横断歩道を、車の行き交う片側二車線道路を、渡れる勇気はないから、黄色いブロックの手前でじっと、待っている。信号の色が素っ気ないような青色に替わって、車の行き交いが止まり、手を振る先輩の姿がはっきりと見えて、そちらに向かって走り出せるのを、待っている。

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アウトサイダーブルーの肖像 ふじこ @fjikijf

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