phase4
『
こんなことを残すの自体が矛盾の塊だけど、わたしは本当の意味で自分を殺しきってしまいたかった。そのわけを、君は理解しなくて良い。私を殺しきることに協力するのも、しないのも、君の自由だし、君が、決めればいい。
それじゃあ、さようなら。
』
最後のテキストファイルの内容をやっとすべてに投稿し終えて、長く息を吐く。長い、長い一週間だった。青い寄生虫と、顔も知らない画面の向こうの誰かと、元カレに引きずられ、振り回された一週間。極めつけの今日に至っては、元カレの兄と不可思議な邂逅をして、画面の向こうの誰かのことを考えていた。こんな奇妙な一日は、もうやってこないだろう。
スマホの画面には、はじめに青い寄生虫から受け取ったメールが表示されている。今読み返してみても妙なメールだった。元カレと別れたときの妙な気持ちじゃなかったら、きっと、ゴミ箱送りにしてしまっていただろうメール。その結びの文章もまた、確かな祈りだった。わたしという、顔も知らない誰かに向けた祈り。それを自分の口の中で小さく繰り返す。君の人生のこれからに、幸多からんことを。それと、青い寄生虫の発している言葉にはギャップがある気がして、でも、それを含めて「小宮尚史」という人だったのだろう。出会うことが決してない相手のことを想像する、というのも少し、奇妙なことに思えて、口元が緩む。それと同時に、スマホの画面が切り替わった。電話の着信を示す画面と、本体のバイブレーション。着信元は元カレのようだった。画面の上の小さい時計は昨日までの明日が今日になったことを知らせていて、なるほど、元カレは約束通り、早速電話をかけてきたのだ。せっかちだなあ、と思いながら、通話ボタンに触れて、スマホを耳へ押し当てた。
「もしもし」
「もしもし、こんばんは、ショウちゃん」
元カレの声は、走ってきた後みたいに少し弾んでいるようだった。緊張しているのかもしれない。どんな表情で電話をかけているのかを想像しようとしてみると、あまり悪い気分はしなかった。むしろいい気分とさえ言えそうだった。どうして? 理由を考えようとして、すぐに思いつく。元カレが、あたしのためにそうして表情を変えてくれることが、多分うれしかった。
「こんばんは、しろ先輩」
「……この間の、約束なんだけど」
「いいですよ」
だから、間髪入れずにそう答えていた。「えっ」と驚いた声が鋭く叫んだ後、浅い呼吸の音が続く。目を見開いて口をぽかんと開けたまま、スマホだけは固く握りしめている元カレの姿が、すんなりと想像できた。だからもう一度、繰り返す。「いいですよ、もう一度、付き合いましょう」
呼吸の音がゆっくりになる。きっと、必死で落ち着こうとしている。わたしの返事したとおりのことを期待していたはずなのに、どうしてそんなに動揺してるんだろう。おかしかった、けど、嫌ではなかった。
「マイナスからスタート?」
「ゼロからに負けときます」
「本当に?」
「こんなウソ、つきません」
しん、とふたりで黙り込む。本当の最初につきあい始めた頃が、こうだった。隣同士で座っていたのに、何を言って良いのか分からなくて、互いの視線を気にしながら、ただ黙って一緒にいた。どこまで近づいて良いのか分からなくて、指先同士をふれ合わせることにも躊躇っていた。今はまた、それと同じところに居る。電話越しに隣り合って、互いの距離を測りかねている。ゼロなのか、マイナスなのか、分からないけど、これからは離れていく一方なのに、それで寂しくなる気はしなかった。
「明日の朝、迎えに行くから」
「待ってます」
「お休み、ショウちゃん」
「はい、おやすみなさい、しろ先輩」
返事をして、しばらく経ってから、電話は切れた。愛想のない電子音を三回、数えてから、スマホを耳から離す。机の上に置いて、通話終了のボタンを押す。黒い画面にぽかりと、通知のウィンドウが浮かんでいる。「letter_space」からだった。畳みかけるみたいに色んなことが起こる、長いのに短かった一週間の最後には相応しい、知らせだ。
『
先輩。ずっと、謝らなきゃと思っていました。そして、これからも。僕は、あなたに負い目を持ち続ける。
僕は、あなたを忘れません。
』
ふと、もう昨日になった今日、一緒に過ごした人を思い出す。あの人が本当に「letter_space」だったのか、わたしには分からない。ただ、この熱烈なラブレターにも似た言葉の羅列が、あの人から発せられているという想像はしっくりとよく馴染んだ。こちらを振り返らずにすたすたと歩いていってしまった、オニイサン。ふたりがひとつ屋根の下で、何も知らずに、同じスマホに向けてメッセージを送りつけている。それは滑稽な気もしたし、そら恐ろしい気もした。けれども、幸福でもあるんだろうと思った。自分勝手な考え方、だけど。
そんなものだよ。
視界の端、机の隅の青い寄生虫が首をもたげながら云っている。相変わらず目玉も口もない、真っ青なだけの芋虫をもっと簡単にしたような姿をしている。何が本当のことかは、全部君が決めるんだ。真っ青なその虫は強い声でそう言って、机の上に倒れ込んだ。ぴくりとも動かなくなる。眠って居るみたいに、死んでいるみたいに。それを確かめてみようかとも思うけれど、触れられないことは分かっている、だったら、この寄生虫が言ったとおりにするしかない。わたしが、決めるんだ。
目を開ける。「letter_space」の恋文から画面を切り替えて、さっきまで見ていたメールを出す。私のところに寄生虫を送り込んできた、すべての元凶だった。感謝も恨みも特にしていない。申し訳ないとは少し思う、恐ろしさもまだ少しは覚えている。ただ、それは今日までだ。わたしに寄生虫が託されたのは今日まで、これからのことは分からない。寄生虫を送り込んだがそう願っていた通り、しずしずとひっそりと死んでいくのかもしれない。少なくともわたしのところにやってきた寄生虫は今日で死ぬ。わたしは、この死体と一緒に生きていく。
メールを表示させたまま、画面の下に表示されているイラストをタップする。そこへ吸い込まれるように、表示させていたメールが消えた。これはまだ完全じゃない。前の画面に戻って、「ゴミ箱」のフォルダをタップして開く。その一番上のメールをタップして開いて、もう一度、画面の下のゴミ箱のイラストをタップする。警告のウィンドウが出てきて、「本当に消去しますか?」と、青い文字がわたしに尋ねている。人差し指を画面に触れる寸前で止める。深呼吸。指先が震えている。でも、ここで止めようとは思わない。わたしは、わたしの決めたことをする。
指先を、「はい」という文字に押しつける。さっきと同じように、メールがゴミ箱のイラストへ吸い込まれて消えていった。消えてしまった。これで、本当に終わりだった。わたしのところにやってきた青い寄生虫は、もう動くことはない。
でも、青い寄生虫の死体は消えないで、ずっとそこにあるだろう。
これで、いい。
そうだね、と笑い声がする。そうだよ、と言い返してみる。
机のどこにも青い色は見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます