phase3-2

 オニイサンが、白いビニール袋を片手に提げて自動ドアから出て来る。一瞬目が合った。何かを期待するように輝いていたオニイサンの目から逃れるために、咄嗟に視線を逸らした。道の向こうに架かった橋の欄干に、子供達がふざけてよじ登っている。ああいうのは見ているこっちはひやひやしても、意外と落っこちないものだ。

「お待たせ、行こうか」

 かけられた声の方を向くと、オニイサンはあたしを待たずに歩き出していた。がさがさと白いビニール袋を揺らしながら。黒のニットと色褪せたデニムにビニール袋だと、ビニール袋の白色がひどく目立って仕方がない。だからそこに目がいくんだと、意味もなく言い訳めいて考えながら、オニイサンの後をついていく。けど、すぐに立ち止まった。横断歩道の黄色いブロックの手前だ。信号は赤色に変わっていた。車が勢い良く目の前を走り抜けていく。手を伸ばしたらどうなるだろう。

「君は、どうして満とつき合ったの?」

 オニイサンがあたしの方を向かずに尋ねてくる。すごく熱心というわけでもないけど、まったく適当に選んだってわけでもなさそうな感じだった。だったら、すっかり無視してしまうのも悪い。でも、オニイサンの尋ねてきたことに答えるには、違和感の方が大きかった。

「どーして、別れた理由じゃなくって、つき合った理由を聞くんですか?」

「どーしてって……どうして?」

「普通、別れた理由を聞くでしょう」

 あたしが言うと、オニイサンの首が少しだけ動いた。こっちを見るかなと思ったけど、電気仕掛けのカッコウが鳴き出したから、オニイサンは前へ歩き出す。あたしもその後をついて歩き出す。アスファルトの上の白いラインは、端から剥がれてきてすっかりぼろぼろだった。対面の自転車や、うつむいたまま歩いている女子高生とぶつからないようにすれ違いながら、横断歩道を踏みしめていく。もう一度黄色いブロックをつま先で蹴ったのと、「そうかな」とオニイサンが呟くのが、同時だった。

 でも、オニイサンはやっぱりあたしの方は向かないで、橋とは逆の方へと向かう。川沿いの道へ下るための短い斜面や階段が、左手側に見える。オニイサンは前ではなくて、左側を眺めながら歩いているようだ。横顔の雰囲気は、どことなく元カレに似ている。優しそうな、そして実際に優しかった人。優しすぎて厭になるくらいで、今考えるとあたしの言い分は我がままが過ぎるけれど、あたしにとっては本当のことだった。

 前を歩く背中が進むのを止める。それにぶつからないように、立ち止まる。オニイサンは体の正面を川の方へ向けて、前の方を指差した。その指先をたどると、斜面の中程に、古びたベンチがある。

「そこ、座ろうか」

 あたしを横目で見ながらオニイサンが言ったのへ頷く。オニイサンは腕を引っ込めて、草の生えた斜面へ足を踏み出す。そのまま立ち止まらずに、急な斜面を大股でおりて、ベンチのところで立ち止まる。あたしも、オニイサンと同じところの草を踏んで、コンクリートのブロックで歩道とは区切られている斜面に足を踏み入れる。雑草は好き放題伸びていて、色んな高さであたしの足をちくちくと刺した。痛いというよりも、くすぐったいというか、むず痒い。それを気にしていたら進めないから、引っかくような草の先端の感触を無視して、前へ、前へと足を踏み出す。ざ、ざ、ざ、と小刻みに、あたしの足が草をわけていく音、パンプスのヒールと底が柔らかい土を踏む重み、そういうものを一歩ごとにそこに置いていきながら、短い道行きを終えると、オニイサンがベンチの横で立ったままあたしを待っている。あたしがベンチの手前で立ち止まると、オニイサンは「どうぞ」とベンチの左側を示して、こだわりは別になかったから、示された側にあたしは腰掛けた。スカートの裾を整えていると、オニイサンがあたしの隣へ腰掛ける。膝の上に載せたビニール袋から缶を取り出すと、一個をあたしの方へ差し出してくる。

「これも、どうぞ。良かったら」と、あたしが返事をする前に、オニイサンは差し出した缶をベンチの上へ置いた。ブラックコーヒーだった。缶を手にとってみると、まだ充分温かかった。さっきコンビニで買ったばかりだから、今なら丁度飲みやすいぐらいかもしれない。

 ふとオニイサンの方を見ると、オニイサンは名前も知らないような炭酸飲料を飲んでいる。ひどいしかめ面で。

「……苦手、なんですか。炭酸」

 オニイサンの目だけがあたしを向いた。すぐに前へと向き直ると、缶を顔から離して、口元を拭う。やっぱり、しんどそうな表情だった。眉根を寄せ、目を細めて、への字に曲がった唇をきつく結んでいる。もう飲むまいぞ、とでも主張しているみたいだった。その表情が語ってるとおりに、オニイサンは一度、缶をベンチへ置く。

「好きになろうとしてるんだけど、なかなか」

「なかなか」

「難しい。……満は、平気なんだけどね」

 何故か元カレのことへ言及して、知っているだろう、とでも言わんばかりに、オニイサンは少し笑って見せる。笑い返すのが正解だろうと思った。笑顔を作ってみるけど、どうにもぎこちないものになっている気がして、居心地が悪い。オニイサンの視線から逃れるように俯くと、自分の手の中の缶コーヒーのプルトップが、日光を反射してまぶしかった。

「交換します?」

 ふと思いついて、そんなことを口にしながら、まだ開けていない缶コーヒーをオニイサンへ向けて差し出す。オニイサンははじめにあたしが声をかけたときと同じぐらい、目を見開いてみせた。オニイサンの視線は、あたしの手元と自分の手元とをゆっくりと往復する。そして、あたしの手の中の方を見つめながら、軽く頷く。さっきまで飲んでいた缶の飲み口のあたりを白い指先で拭って、その缶をあたしへ向けて差し出す。逆の手は、あたしの持っている缶コーヒーへ伸ばされている。あたしも、片手をオニイサンの持っている缶々へ伸ばした。缶を掴んだ指先がひやりとする。缶コーヒーのぬくもりがまだ残っている手も、缶の側面へ添えてみるけど、あっという間に冷たさが勝った。プルトップを押し上げるときの、小気味良い音がする。オニイサンは早速缶コーヒーを開けて、ブラックコーヒーを勢いよく飲んだ。あたしも、受け取った缶に口をつけてみる。人工的な甘ったるさの後に、苦味にも似た嫌な風味がやってきて、舌の上にぴりぴりと、痛みとも痺れともつかない感覚が残る。オニイサンが苦手なのは、こういう後味なのかもしれない。あたしもずっと昔、はじめのうちは、あまり得意じゃなかったような気がする。

 缶を口元から離して、オニイサンは大きなため息をついた。体を前に倒すと、缶をベンチの足元に置く。さっきので中身は一気に飲み干してしまったらしい。そうでなかったら、ためらいなく缶を地面へじかに置いたりはしないだろう。一口で渋い顔をしていたさっきとは、随分と反応が違う。炭酸はだめでもコーヒーは大丈夫なんて、なんだか中途半端に大人みたいだ、と考える。口にはしない。炭酸ジュースをもう一口飲んでみる。さっきと同じ甘さとイヤな後味が、口の中にじわじわと残っている。

「あいつは、良い奴でしょう」

 オニイサンの言うあいつ、というのが元カレのことを指しているのはすぐに分かった。そんな話になるのは、あたしがこの人へ声をかけたやり方がそうだったからだろうし、実際、あたしとこの人に共通の話題はそれぐらいしかないだろう。まさか、青い寄生虫や「letter_space」のことを話題になんて出来ない。だから、振られた話題を甘んじて受け入れて、そうですね、と頷いておく。

「いい人だけど、いい人過ぎました」

「ああ、それが別れた理由?」

「そうかもしれないですね。……それだけじゃないかもしれないですけど」

「はっきりしないんだ」

「怒ります?」

「どうして。僕が満の兄だから、君の今の言いぐさに怒るって思った?」

「いえ、そんなに」

 細かいのじゃなくって、と言いたかった。背中側から強い風が吹き付けてきて、びっくりして肩をすくめてしまったのと一緒に、口も閉じてしまった。足元で、からんと缶の倒れる音がする。下を向くと、倒れた缶がベンチの置かれた地面の傾斜に従って転がっていく様が見えた。草の上を転がっていって、平らな道にたどり着くと少しブレーキがかかったけど、それでもまだ止まらずに、道も越えて、川の側岸の草むらに姿を消した。「あーあ」と、オニイサンの声が朗らかに言う。「あーあ」と同じことをもう一度繰り返すから、何となく落ち着かない気分がして、オニイサンの方を見る。何がおかしいのか、缶の転がっていった方、川の方を眺めながら、笑みを浮かべている。いつの間にか脚を組んで、脚の上へ頬杖をついていた。

「いっちゃった」

「……そうですね」

「環境破壊だって、怒られるな」

「誰にです?」

「さあ。誰だろうね」

 聞いてみたことを後悔するような答えだった。人をからかってるんだろうか。それとも、ふざけているんだろうか。元々こういう言い方ややり方をする人なんだろうか。分からないけど、オニイサンは上を向いて、視線の示す方へ指を向ける。

「川は山から来て、海に流れて、それが蒸発して雲を作って、雨を降らすだろう。それが自然の堂々めぐりだから。今、転がっていった缶の中にほんの少しだけ残っていたブラックコーヒーは、その堂々巡りにある種の不純物を恐らくはもたらすわけだから、堂々めぐりの中にいる人なら誰でも、僕を怒る理由はある」

 オニイサンは説明に合わせて指を、腕を動かすから、思わずそれを目で追ってしまう。上流から下流へ流れをなぞって、それからくすんだ空をたどり、重力にしたがい落ちていって、最後に自分を示す。よくわからない理屈で自虐的なことを言っている割に、自嘲の雰囲気など全く感じさせない様子で、オニイサンは笑みを浮かべていた。「こういうことかな」と言って手を下ろし、また川の方を向く。川面は日の光を受けてきらきらと流れていた。ひとつの缶がここから転がって流されていったことなんて、全然分からない。たかが缶ひとつ、ほんの、ささいなことだったのだろう。川の流れをせき止めるほどの大きさも重さもなく、かといって川の流れに乗るには不安定で、早々に水を飲んで沈んでしまった。

「屁理屈です、そんなこと」と言った自分の声は、予想していたよりも憮然としていた。これじゃあオニイサンも気を損ねるだろうと思って見てみれば、そんな様子もなく、オニイサンは笑みを浮かべたまま頷く。「知ってる」と横目でちらりとわたしを見て、また頷く。

「そういうことを言いたい気分なんだ」

「……変な人」

 オニイサンは否定も肯定もせずに、いっそう可笑しそうに唇の端をつり上げるだけだった。細められたまなざしは、いっそう強さを増しているように思われる。「でも」と、可笑しそうな声が切り出して、わたしはとっさに彼から目を逸らした。空の遠くが暗くなっている。

「もうとっくに満と関係ない君が僕に声をかけたのだって、どうして? 僕は君のことを知らなかったし、君も僕のことなんて知らなかっただろうに」

 それは、とすら言い返せなくて、口を閉じた。理由は、多分色々とあった。この人と元カレが話しているのを見かけたこと、この人が果たされない待ち合わせをしているとわたしが見込んでいたこと、元カレとの約束が週明けに待っていること、青い寄生虫からの頼まれごとが今日までなこと。ガラスの向こうに見えたこの人に向かって走り出したときの私の気持ちは、どれかひとつで説明出来るものではないように思うし、かといって全部を合わせたってそれが本当のことにはならないようにも思う。何をどう言葉に置き換えたものか、考えようとすればあっという間に色々な情報に翻弄されて、頭の中がやかましくなる。目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。隣にいる人がわたしを見ているのが分かる。私の言葉を待っているのが分かる。深く息を吸って、息を止めてから、ゆっくり目を開ける。最初の一瞬だけが眩しくて、後は慣れるだけ。まばたきをしながら視界を整えれば、オニイサンともう目が合っていた。

「そういうことをしたい、気分でした」

 聞きようによっては意趣返しのようにも思われただろうけど、オニイサンはさして驚いた様子もなかった。可笑しそうな表情はそのままに、軽く頷いて、組んでいた脚を解く。それからその場へ立ち上がると、大きく背伸びをした。「あー」と声をあげているのがハマって見えるのは、オニイサンが大人だからだろうか。腕を下ろして、オニイサンは川面をさらりと眺めて、それから、私の方を向いた。

「僕はもう行こうと思うけど、ひとりで帰れる?」

「大丈夫です、子どもじゃあるまいし」

「僕からしたら、面倒見てやらなきゃいけない相手だけどね。満も、君も……君は満より年下なんだろうから、いっそうね」

「そういうの、余計なお世話っていうんですよ」

「親の心子知らずとも言うね」

 見上げながら会話をしていると、いつもと頭の重心がずれるような気がして、落ち着くところをさがして下を向く。自分の爪先を眺めてからまた顔をあげると、オニイサンはこちらを向いておらず、かといって川の方を向いてもおらず、後ろ、私たちがおりてきた斜面を見上げていた。そこから戻れるかを考えているのかもしれないし、単純に物音がしただけかもしれない。どちらにせよ、もう出るというのは本当なのだろう。

「待ち合わせ」

 わたしがそう言っただけで、オニイサンは勢いよくこちらを振り向く。さっきまでと違ってわずかに目を見開いているが、すぐに、穏やかそうな目元の表情に戻った。

「本当に、良かったんですか?」

 オニイサンに言っているのに、そうでない部分があった。青い寄生虫に成り代わって、「letter_space」へと尋ねているような気持ちになった。オニイサンが「letter_space」かどうかも分からないのに、そんな気がした。どうやら果たされなかったらしい約束のあるオニイサンは、わたしの中で「letter_space」に重なって思われる。勝手な思いこみを通して見ると、駅前から移動するときに見せたのと同じ寂しげな笑みを、オニイサンは浮かべていた。

「さっきも、言ったけど。待ちぼうけになるのは分かってたから、大丈夫。散歩でもしながら、のんびり帰るとするよ」

 まるでわたしを諭すみたいな声でオニイサンは言った。わたしはそれを受け止めて、「そうですか」なんて適当な相づちを打つ。この人の言ったことが、強がりでもなんでもない本当のことであればいいと思った。そう思うのはやっぱり、わたしがこの人と「letter_space」とを切り離して考えることが出来ていないせいなんだろうけど、そうでなくたって、誰かの平穏を願うことは決して悪いことじゃないはずだから、思うことは構わないだろう。

「よければ、満とこれからも仲良くしてやってくれ。あいつは僕と違って、ただ良いやつだから」

「いい人が過ぎるくらいですから、気が向いたら、そうします」

「じゃあ僕は、君の気が向くように祈っておこう」

 ころりと表情を変えて楽しそうな笑みを浮かべながら、オニイサンは胸の前で十字を切って見せた。ふざけているのだろう。そういえば、元カレが盆に家に来る僧侶がどうのこうのと言っていた気がする。とすればこの人も仏教徒のはずで、やっぱり今の仕草はふざけているのに違いなかった。

「それじゃ」と言って、オニイサンはわたしに背を向ける。オニイサンの笑顔が背けられていくのを眺めながら、わたしは自然と立ち上がっていた。草の生い茂った斜面を大股でのぼっていく背中に向かって、深く礼をする。丁寧だなあと笑われているような気がしたけど、すぐには顔をあげない。しばらく、を数えてから顔をあげると、オニイサンは上の歩道にたどり着いて、そこを歩き始めていた。そのまま、遠ざかっていく。こちらを一度も振り向かないで、歩いていく。そしてすぐに、見えなくなる。

 それで、わたしはまたベンチに座った。手元にした水音に、ずっと手に持っていた炭酸ジュースの存在を思い出す。勢いよく座ったけど、幸い、ジュースはこぼれていなかった。ゆっくりと缶を口元に運んで、中身を飲んでみる。まだジュースは冷たかった。わざとらしいぐらいの甘さの後に、苦みと、わずかな痛みが舌の上に残る。口の中の液体をすっかり飲み込んでしまった後も、痛みはまだ、舌の上に残っていた。

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