phase3-1

 コーヒーショップの、窓に面したカウンター席からは、駅前の様子がよく見える。改札から出てくる人の人の姿も、入っていく人の姿も、広場で立ち止まって大時計を見上げる人の姿も。

 アイスで頼んだカフェラテの氷はもう溶けてしまっていて、それは空調のためというのもあるかもしれないけど、窓からさしこむ日光の方が問題な気がした。ストローで吸うと、カフェラテが水で薄まった何とも言い難い味がする。コップを一番窓際に寄せて置いて、寝ていた私が悪いんだけど。

 カフェラテのコップは手元に寄せたまま、机の上のスマホに右手を伸ばす。電源ボタンを押すと、暗かった画面が明るくなった。映し出されるのは、壁紙とその上の白いデジタル表示の時計だけだ。通知はやっぱり来ていない、誰からも。「letter_space」から来ていても返信をするわけじゃないし、元カレから来ていても無視するんだろうから、来ても来てなくても一緒なのに、ほんの少しは寂しいような気がして、それよりも弱いぐらいに腹が立つような気がした。時計はもう十時を示している。

 窓の外の広場には見知らぬ人影ばかりだった。よく目を凝らせばひとりやふたり知っている人が混じっているかもしれないけど、そうでもしないと見つけられないならそれはもう知っているとはいえない気もする。ただ、今日探すのは、姿を知っている、という意味での知り合いじゃない。「十時に」「駅前の広場で」青い寄生虫の本体を待っている「letter_space」の本体を探したいのだ。だから、手がかりは今からしか掴めない。「letter_space」の約束が果たされないことをあたしは知っていて、たとえそうでも「letter_space」は諦めて帰ったりをしないだろう、ということを私は何となく分かっている。つまり、十時を過ぎても誰とも合流せずに、ひとりで待ちぼうけをし続けている人物が居たら、それが「letter_space」ということだ。

 広場の端から端へ、ゆっくりと視線を移動させていく。一番奥から手前へと、くまなく視界に入るように気を付けながら。色んな人が居る。幸せそうな親子連れ、和気藹々と盛り上がる男の子のグループ、肩を寄せ合うカップル、歓談しながら歩いていくご老人たち。スーツ姿で憂鬱そうな男性、せかせかと先に歩いていくお母さん、困った顔で後を追いかける子供と、兄弟だろうか、地面に座って泣いている子供。まだ十時なのに、広場には色々なドラマがあるみたいだ。

 ひとりで立ち止まっている人影も、ちらほらとある。腕時計を見ている人、文庫本を読んでいる人、あたしと同じようにスマホを気にしている人、色々だ。でも、それぞれに別な誰かが訪れていく。顔をあげて、はっと表情を変えるから、それで分かった。待ち人来たりて、というやつだ。そういう一瞬があることが羨ましいような気がする。あたしもそうだっただろうか。いや、元カレはあたしよりも早く待ち合わせ場所にやってくるのが普通だったから、ああいう風に発見するのはあたしでなくって元カレの方だった。デートのとき、そういえば、待ち合わせ場所で最初にあたしを見つけたときの元カレも、丁度あんな顔をする。ほっとしたような明るい笑顔。その表情を、あたしは嫌いじゃなかったと思う。

 思い出された元カレの顔は、好ましいけど同時に憎らしくもあって、あたしは目を閉じる。ストローを持って、残り少ないカフェオレをかき混ぜる。店の入り口の方で、店員がいらっしゃいませ、と合図をするのが聞こえる。それ以外にも音は色々と聞こえてきて、けれどもまとめてみると静かなものだった。少なくとも、外の広場よりはずっと静かだろう

 ゆっくり目を開ける。ブラインドを閉じていない窓から差し込む日差しが眩しくて、まばたきをする。そのうち明るさに目が慣れて、瞬きの間隔が開いていく。すっかり目を開けてから改めて外を見る。誰かと目があった。正面のずっと遠くに立っている、誰かと。驚きにどきりと胸の音が跳ねる。瞬きをしてもまだ目が合っている感じがあったし、目を逸らせなかった。逸らしたら負けで、あたしの意図したことがすべて見透かされてしまう、という突飛な考えが浮かんだ。本当にそうなるに違いない、という確信が何故かあった。目をそらす、という行為が伝えることは言葉で伝えるやりとりよりも雄弁だから。あたしがこんな風に考えるのは、あそこに居るのが「letter_space」だからだろうか。分からない、でも、あたしはそう思いたいのだ。「letter_space」があたしの思い描いたここへ現れることを、果たされない約束を目撃することを、あたしは期待している。

 距離のある睨めっこに根負けしたのはあっちが早くて、向こう側の誰かはつい、と視線を落とす。胸の前へ掲げた手を見ているような角度だった。あそこに、スマホを持っているのかもしれない。持っていないのかもしれない。それはどちらでも良いけど、そうして俯いた彼の方へ、人が近づいていく。あたしはその人影のことをよく知っている。私服は相変わらずシンプルすぎるにも程があって、でも、白いシャツのしっかりと決まった襟元は、彼の上品さを際だたしているように思う。ついこの間のやりとりからこちら、なんの音沙汰も寄越さない元カレが、まだ俯いている誰かのそばに立ち止まった。

 思ってもみなかった偶然に、自分の目が見開くのが分かる。あたしの地元は元カレにとっても地元だし、出かける場所が被ることだって充分考え得る。ただ、考え得るということは、想定済みということとは意味が違う。あたしが「letter_space」かもしれないと思った誰かに元カレが話しかけることは、何だかたちが悪い冗談であるようにも聞こえる。元カレと、元カレに声をかけられたのだろう、びっくりした様子で顔をあげて、元カレへ朗らかな笑みを向けている誰かとは、親しげに言葉を交わしている。笑い声さえ交えているようだった。

 何故だか、胸がざわつく。遠くで話をしているふたりを見ているせいだ、と思うけど、目を逸らして、目をつむってみても、同じことだった。覚えてしまった光景が瞼の裏に浮かんできてしまう。あのふたりはどういう関係? それも気になったけど、元カレがあたしに気付いたらどうしよう、という不安も大きい。テキトーに誤魔化す、という選択肢が最初に来るのは間違いないけど、そのことがひどく難しいような気がする。「letter_space」を探しに来たあたしが、ハダカだからかもしれない。誰にも何も取り繕わなくて良くって、ただ自分のことだけに専念してられる自分。そんなあたしであたしを知っている誰かと会うことは、不自然だ。したくない。そう思うけど一応の覚悟をしながら、目を開ける。元カレの姿は見えなくなっていて、見知らぬ誰かはまたひとりになっていた。

 後ろで、がらん、からん、と来店を告げる音がする。思わず振り返るけど、入ってきたのは見知らぬカップルだった。肩の力が抜ける。元カレに見つかった、ということは、どうやら今のところないらしい。だったら、すべきことはひとつに決まっている。

 スマホをカバンに投げ入れて、カバンを肩から斜めにかける。薄まったカフェオレと名残程度の氷が入っているグラスをもって席を立つ。出入り口のドアの方へ向かいながら、返却台にグラスを返して、仲良くレジ前に立つカップルの後ろをすり抜ける。ひとりでに開いたドアから外に出ると、日陰の空気の温度は一瞬、冷たく感じられるほどだった。

 小さい駆け足で広場の方に出るとそこは日なたで、日差しが温かい分日陰よりは居心地が良い。それでも、風はやっぱり冷たくて、追い風に背中を押されながら、あたしは広場の奥へ向かう。ひとりでぽつんとたたずんでいるその人の姿は目立ってよく見えた。あたしがずっとその人を見ていたせいかもしれないが、ふたり以上で連れ立って歩いている人たちの方が多いから、ひとりで居ることはきっとそれだけで目立つ。あたしだってきっと目立っている。ひとりで一直線に走っていくのなんて、端から見たら待ち合わせに遅れてやってきたように見えるんじゃないだろうか。実際はそうでなくて、でも、あたしの走って行く先にいる人には、きっとその方が喜ばしかったのだろう、その人がもし本当に「letter_space」だったなら。

 歩調を緩めながら、元カレと親しそうに話していた人へ近づいていく。彼はまた、胸の前へ掲げたスマホに目を落としているようだった。何か、言葉を送りつけているのかもしれない。それともただただ、誰かの投稿や時の流れに合わして、動いたり動かなかったりする画面を、眺めているだけかもしれなかった。どちらであっても、彼が顔をあげないということは事実であって、あたしが彼のすぐ目の前に立ち止まってみても、彼は俯いたままだった。

「あの」と、声をかけてみる。それでようやく、彼はスマホ見るのを止めてあたしの方を向いた。動作は落ち着いていたけれど、表情はびっくりしていた。目を見開いて瞬きをしながらあたしを見ている。ここで目を逸らしてはいけない、と思った。目を逸らすのは負けるってことだから。

「さっき、しろ先輩と」まで言ってから、それがあたししか呼ばない言い方だっていうことを思い出す。慌てて口を閉じてから、少し考える。元カレの、滅多に呼ばない本名。「後ヶ崎(うしろがさき)先輩と」とちゃんと元カレの本名が出てきたことに安心して、軽く息を吐く。

「先輩と、お話ししてられましたよね?」

 あたしが尋ねると、その人は困惑した様子で眉根を寄せて、頷いたのかそうでないのか微妙なぐらいに首を動かしてみせる。「確かに、話はしていたけど」スマホをズボンのポケットにしまいながらそう言って、その人は軽く首を傾げる。軽く細められた目が、あたしの頭のてっぺんからつま先までをなぞって、最後にあたしの目を覗きこむ。「君は?」

 もっともな疑問をぶつけられて、あたしは答えに迷う。どこまでをさらけだしたものだろうか、と考えたのだ。あたしが、この人を見つけたところの理由から? それとも、声をかけてみようとしたきっかけだけで良いだろうか。こんな簡単なことを決めかねるだなんて、あたしは何も考えなしにここまで走ってきたんだなとふと思う。ただ、考え無しと言うだけなら最初からだった。あの、青い寄生虫のメールを受け取ったときから、あたしは多分何も考えずにやってきた。

「後ヶ崎先輩と、お付き合いをさせていただいてたものです」

 一番簡単に説明すると、目の前の人の目が一際大きく見開かれた。ゆっくりとした瞬きの後、「満(みつる)と」と言った声は上ずって、率直に驚きを表現しているようだった。満というのは元カレの名前だったはずで、ということは、この人は元カレとそれなりに親しい間柄なのだろう。目の前の人は、見開いた目でまたまじまじとあたしを見つめる。不意に目が合うと、「ええと、ごめん」とさっきよりも落ち着いた声が謝った

「ごめん、驚いてしまって……満は、僕の弟だから」

 そう言われてみれば、目の前の人の声の調子やら目元には、どことなく元カレを思わせるところがある。けれど、顔立ちそのものや浮かべている表情は、あまり似ていないように思う。あたしが元カレをあまりに見慣れすぎていて、似ていると思えないだけという可能性だって、なくはないけれど。

「それで、満と付き合ってる女の子が、僕に何か聞きたいことでも?」

「付き合ってる、じゃありません。付き合ってた、です」

「こだわるね、細かいことに」

 思わずあたしが言い返したら、元カレの兄だという人は、苦笑いをする。その笑みの作り方はどこかで見たことのあるような感じだった。元カレがそういう表情を作るときと同じだった。なるほど、兄弟だということは、確かに本当なのかもしれない。ひとりで納得しながら目の前の人をじっと見つめていると、「うーん」と低くうなって、腕組みをする。腕の下から少しだけのぞいた指が、とんとんと紺色のコートの袖をたたく。視線は宙をさまよっていた。何かを考えているのかもしれない。それは、あたしを追い払うための算段かもしれないし、元カレと復縁させるための懐柔作かもしれない。「そうだなあ」と呟いた声は長閑で、悪巧みをしてるような感じはしなかったけど、皮と中身が別だなんて、よくある話だ。

「とりあえず」と言いながら、目の前の人は腕組みを解いて、軽く目を閉じる。首を元の位置へ戻しながら目を開けていって、あたしとしっかりと目を合わせた。先に逸らしたら負け、なんて子供っぽい考えを浮かべながら、考えの読めない目の前の人と、先の読めない睨めっこを続ける。「立ち話もなんだし、移動しようか」

「いいんですか。お兄さん」と言ってしまってから、その呼称はまずかったと考えるけどもう手遅れで、何ともなかったふりをして、続ける。「……待ち合わせ、してるんじゃないんですか」

 あたしの率直な問いに、元カレのお兄さんは少し口元を緩ませた。けれど、眉根はきゅっと寄って、眉尻は下がっている。笑顔と呼んで差し支えない表情ではあるけれど、どちらかといえば寂しそうに見えた。

「いいんだ。どうせ……このままここに居たって、待ちぼうけだから」

 あたしの方を見ずに、遠くにまなざしをやりながら言う声も、やっぱり、ひどく寂しがっているように聞こえた。

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