闇の足音
筑前助広
本編
(
顔は薄汚れ、月代は伸びに伸びているが、険のある目つきと前突した下顎は、まさしく与一郎であった。
藤兵衛は、肺腑を突かれたような衝撃を覚えたが、さも自然な動きを装って、
(とうとう来てしまったか)
何故? という疑問は湧かなかった。いつかは出会うことになるだろうと思っていたのだ。当然その覚悟はしていたが、やはりそれでも衝撃だった。
五年前。藤兵衛は故郷の
有り体に言えば駆け落ちであり、脱藩。しかも、他人に
それは藤兵衛も糸も、そして与一郎も、武士ではない〔
出奔して一年半ほど関八州を流浪した後に、藤兵衛と糸は江戸に辿り着いた。今は、藤兵衛の
江戸での暮しは、けっして豊かとは呼べるものではないが、早くに両親を亡くし長く独り身だった藤兵衛にとって、糸と二人で過ごす生活は幸せと呼ぶべき時間だった。
しかし、与一郎が現れてしまった。いよいよ、この日が来てしまったのだ。
(長い旅をしたのだろうな)
もし、与一郎が目の前に現れたら、潔く立ち合おうと決めていた。そうしなければ、真の意味での安寧は訪れないからだ。そう覚悟はしていたが、その日が来てしまうと、固めていた意志も揺らぐものである。
(大丈夫だ。与一郎には負けぬ)
光当流を学び、免許も得ている。真剣での立ち合った経験も、人を斬った事もある。一方の与一郎は大した腕ではない。一度、
(よし、やろう)
声を掛け、適当な場所で立ち合う。それで全てが終わるはずだ。
意を決して表通りに出ると、与一郎の姿は何処かに消えていた。藤兵衛は思わず自嘲した。無理もない。ここは天下の日本橋の袂なのだ。人の往来は激しく、立ち止まる人などいない。
(残念だ。しかし、また出会う日もあろう)
そう思っても、安堵している自分がいることに、藤兵衛は気付いていた。なんだかんだと言っても、命のやり取りに怖れがあるのだ。
与一郎が再び目の前に現れたら、その時は天命と思って潔く立ち合おう。それまで、俺は与一郎を探さぬ。巡り合わせもまた、天命なのだ。もし見つからなければ、与一郎も江戸を去るはずである。無駄に争い、血を流す必要は無い。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
糸は四歳年下で、幼馴染のように育った遠縁の娘だった。
寡黙だが心根が優しい糸を、藤兵衛はいつしか愛すようになり、糸もまたその気持ちに応えた。
いずれ夫婦にという話が内々にはあったが、糸の父親は瀧川家より豊かで、代々伊川郷士の組頭を務める西春家に嫁がせてしまった。
その時は、仕方ないと藤兵衛は諦めた。両親もなく、家も貧しい瀧川家と西春家では比べようもないのだ。ただ、糸の幸せだけを藤兵衛は祈った。
だが、西春家で糸を待っていたのは、激しい折檻だった。与一郎は酒乱の気があり、容赦なく殴る蹴るの暴力を振い、それを家族は止めようとしない。その上、義母からの冷たい言葉の数々が、糸を追い詰めた。子宝に恵まれない糸を、義母は
白山神社の裏で、顔を腫らして泣いている糸を藤兵衛は見掛け、彼女の苦境を知った。
(やはり、与一郎を斬る他に術はない)
与一郎を見掛けた日の夜、布団を並べて眠る糸の寝息を聞きながら、藤兵衛はそう考えていた。
与一郎の件は、糸に伝えていない。もし知れば、ひどく怯えるからだ。江戸から出ようとも言うだろう。しかし、藤兵衛は今の暮しが気に入っていたし、糸も奉公先の加賀屋で深く信頼され、大切に扱われている。それにこれ以上逃げても、逃げ出した先に安住の地があるとは限りない。
秘密裏に与一郎を始末し、病で死んだと伝えれば、それで万事が収まるはずである。
(しかし、探すとなると骨だな……)
人探しを請け負う稼業もあるそうだが、頼むにも元手が無い。勿論、自分でそれをするほどの暇もない。貧乏暇なしというものだ。やはり、待つしかないのか。
堂々巡りの思念の中、藤兵衛は眠り込んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日は、
丸一日で一両飯付きという、中々の手間賃であるが、それだけに危険が多い。嘉穂屋の隠居だと知って、
「それだけに、瀧川様しかいないのですよ」
と言ったのは、仕事を世話してくれた、浅草の手配師・
藤兵衛が嘉穂屋の用心棒を務めだして、まだ一度も襲われていない。それは隙を見せないように用心しているからであるが、前任者は肩を斬られ右腕が使い物にならなくなったそうだ。更にその前の用心棒は、嘉穂屋を庇って死んでいる。
「お前さま、いくらお手当てが良くても、危ないお仕事はお止めくださいませ」
朝餉の給仕をしながら、糸が言った。嘉穂屋の用心棒は、これで五回目になる。用心棒はいつもというわけではなく、必要な時に呼び出しを受けるのだ。
「しかし、正月に向けて何かと入用だろうしな」
既に、秋が深まりつつある。朝晩の江戸は冷え込み、火が無ければ過ごせない季節だった。
「掛かりの心配はしないでくださいまし。何とかやっていけますから」
「しかしな。俺はお前に銭の苦労は掛けたくないのだ」
「そのお気持ちはありがたいのですけど……」
「まぁ、心配するな。俺は光当流の免許持ちだぞ」
そう言って、湯漬けを流し込むと、藤兵衛はおもむろに立ち上がった。
「戻りは明日だ。戸締り気を付けるのだぞ」
用心棒は一日仕事だ。糸もそれはよく弁えていて、事も無げに頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
不穏な気配を感じたのは、下谷根岸にある
この辺りは百姓地が多く、人通りも夕暮れ時の時分には少ない。
(三人か……)
藤兵衛の感覚で察する事が出来るのは、その位だ。他にも潜んでいるかもしれない。
嘉穂屋の護衛は、藤兵衛一人だった。付き従う者はあと三人いるが、全員が嘉穂屋の者で腕の程は知らない。
「嘉穂屋殿、止まらずに聞いて貰いたい」
藤兵衛は、嘉穂屋に並び寄ると、そっと呟いた。
「曲者がおります。三名ほどが、背後に」
「ふむ」
嘉穂屋は、総白髪の
「背後からなら、斯摩藩邸に駆け込めんですねぇ」
「その藩邸からやもしれません」
すると、少し嘉穂屋は考えて笑った。
「面白い考えですが、それはありませんよ。儂を斬れば、困るのは渋川様のご家中ですのでねぇ」
斯摩藩下屋敷で何の話をしていたのか、藤兵衛にはわからないし、興味もない。しかし、斯摩藩主・
「まぁ、よいでしょう。逃げようにも私の足では無理でございます。瀧川先生、曲者を討ち払えますかな?」
相手は三人。一対多数は初めての事だ。しかし、用心棒として嘉穂屋の護衛になった以上、他に選択の余地は無い。
「特別に、十両」
嘉穂屋が、不敵に微笑む。藤兵衛は、その笑み気圧され頷いていた。
(糸。力を貸してくれよ)
藤兵衛は踵を返す。その間に、嘉穂屋と付き従う三人は、路傍に隠れた。
曲者は、やはり三人だった。
見るからに浪人。しかし、自分と似たようなものだと、藤兵衛は思った。おおよそ、銭で頼まれたのだろう。
「何者かね?」
そう訊いても反応は無い。しかし、返事とばかりに、三人は一斉に抜いた。有無を言わさず、斬る腹積もりのようだ。
藤兵衛は、腰の大刀に手を回し、鯉口を切った。
それなりに使った。しかし、人を斬れば斬るほど、その鋭さが冴えてくるから不思議である。
藤兵衛は、柄に手を回したまま、重心を落とした。そして大きく息を吐く。人を斬るのは、初めてではない。もう三度も人を斬ったではないか。そう自分に言い聞かせた。
一度目は、夜須で賊退治をした時。残りはは江戸に出てからで、用心棒をしていた時だ。どちらも斬った後の気持ち悪さに耐えきれず、盛大に反吐をまき散らした。しかし、その経験は大きい。
正面と左右に一人ずつ。正面の男は正眼だった。
裏だけは取られまいと、気を張った。
正面の男の正眼が、僅かに上がろうとした。そのまま斬りかかるつもりなのか。
藤兵衛は裂帛の気勢と共に、一息に踏み込んだ。浪人の切っ先は、上がりきっていない。
来清衡を抜きながら、脇をすっと通り抜けた。そのまま右の男に駆け寄って袈裟斬りを放ち、振り向いた所にいた最後の一人の胴を、返す刀で薙いだ。
まず最初に斬った男が、垂れ落ちた臓物を抱えながら蹲り、残りの二人が音を立てて斃れた。
居合からの連撃。これは、〔
「お見事でございました」
隠れていた嘉穂屋が、現れて言った。莞爾として笑っている。
「いえ。紙一重でした」
身体からは大粒の汗が噴き出している。それでも、以前に感じたような吐き気は無い。
「しかし、惚れ惚れするような腕前ですな。人品も申し分ない」
「いえ……」
「ん。この嘉穂屋宗右衛門。瀧川先生が気に入りましたぞ。何かありましたら言うてくだされ。何でも協力いたしましょう。そこらの手配師には入らない、お手当ていい仕事など紹介しますよ」
「それはありがたい事です」
そう返事をした藤兵衛は、骸の前にしゃがみ込むと、来清衡の刀身に纏った血と脂を浪人の着物で丁寧に拭った。
来清衡の滑らかさが、尋常ではなかった。まるで、生き血を浴びて悦んでいるかのように思える。
(この刀は魔性かもしれんな)
或いは、そう感じている俺自身が魔性なのか。艶やかな刀身に魅入られた藤兵衛は、何となく思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
十両を掴んで深川の自宅に戻ると、糸が台所で蹲っていた。
側には、嘔吐した痕跡がある。ただ、それは酸味が混じった鼻に突くものではなく、先刻嗅いだばかりの血の臭いだった。
「糸、どうしたのだ?」
「お前さま……」
今まで聞いた事のない、弱々しい声だった。
「苦しいのか? どこだ?」
「お腹が痛くて」
「腹か? いつからだ」
「少し前から。急に痛くなって」
「布団を敷くから待ってろ。それに隣のお
藤兵衛は、まず布団を寝間に敷いて糸を寝かせ、次いでお由に医者を呼んで貰うように頼んだ。
「お前さま、申し訳ありません」
寝かせられた糸が、ぽつりと言った。
「構わん。で、いつから痛むんだ? 少し前って、昨日今日の話ではないだろう」
「……」
「もっと前からだな?」
お糸の目尻から涙が零れ、藤兵衛の胸を突いた。
「どうして言わなかったんだ?」
「ご心配をお掛けするかと思って」
「馬鹿だな、お前は」
と、藤兵衛は糸の腹に手をやり、擦ってやった。腹痛はこれで治る事もある。
「俺とお前の仲じゃないか。昔からの幼馴染で、夫婦でもあるんだ。俺に言わなきゃ誰に言うつもりだ」
「そうですね。わたくしたちは夫婦ですもの」
「そうだ。幼馴染で夫婦だ」
ふと、擦っていた手を掴まれた。蒼白だった糸の顔に、生気が戻りはじめたように見える。
「何だか、痛みがなくなったみたいです」
「そりゃいい。だが、動くなよ。医者に診てもらわねばならん。それに治るまでは、加賀屋さんの奉公は休みだ。いいな?」
「ですが」
「銭なら心配するな。今日手柄を立てて、手間賃を弾んでもらったのだ」
糸がこくりと頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
三人目の医者も、わからないと首を傾げるだけだった。
それで、四人目は江戸でも名医と名高い、
雲石は、糸を丁寧に診察してくれた。そして、土間に出た時に藤兵衛に話し掛けた。
「吐血を繰り返し、腹が痛む間隔が長く多くなってはいないですか?」
藤兵衛は頷いた。それに食は細くなった。最近は粥も満足に食べていない。体重も減ったようだ。
「そうですか」
「どこが悪いのですか?」
「やはり、腹ですね。そこに腫物があるようなのです」
「先生、どうにかなりませぬか」
「……残念ですが」
目の前が、暗転した。絶望の谷へ突き落された気分だった。
「今の医術ではどうにも。せめて、早くに気付いていればよかったのですが」
家を空け過ぎた。用心棒稼業では、手当ての多さから泊まりの仕事ばかりを選んでいた。つまり、糸を一人にさせ過ぎて、僅かな変化も気付けなかったのだ。
「しかし、痛みを和らげる事は出来ます」
「本当ですか?」
「嘉穂屋さんのご紹介ですから申し上げるのですが、ただ費用は掛かりますよ」
そこまで言うと、雲石は藤兵衛に、
「
と、この国では禁じられている、危険な名を告げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
身を切るような師走の寒風が、江戸の町を吹き荒らしていた。
昼七つの鐘が鳴る頃に自宅に戻ると、襖を開けてそっと寝間を覗いた。
薬湯の臭いが鼻を突く。それは阿芙蓉の、独特な香りでもあった。その中で、糸が寝息を立てている。
藤兵衛は、居間で来清衡に打ち粉を叩いた。
ここ最近は、特に使い込んでいる。それでも
昨日、与一郎を斬った。目の前に現れたわけではなく、嘉穂屋の
糸の為に斬ろうと思った。少しでも、彼女の苦悩を取り払おうと思ったからだ。そして斬ったその日に、与一郎は酒毒に犯されて死んだと報告した。糸の表情は動かず、喜びも悲しみも無いように見えた。
それは、藤兵衛も同じだった。骸となった与一郎を見ても、解放された喜びは微塵も浮かばなかった。
全てが終わった。しかし、それ以上のものが終わろうとしている。
声が寝間から聞こえた。
寝間を覗くと、糸が目を覚ましていた。
「お前さま」
「どうした? ん?」
「目を覚ましたら、お前さまがいないから」
「ふふ。お糸。俺は側にいるぞ。ずっとな」
と、藤兵衛は細くなった糸の手を握った。それは骨の硬さがわかるまでになっている。
こうなるまでに二か月だった。阿芙蓉により痛みは紛れるようになったが、食欲は戻らず衰弱は進むばかりだった。
いつの間に、糸は眠っていた。眼窩はくぼみ、乾ききった肌をしたその顔に、かつての面影は全く無い。あとは、その時を待つだけのような顔だ。それを思うと、どうしようもない悲しみが、双肩に重く圧し掛かった。
(そろそろ約束の刻限か)
藤兵衛は糸の顔に頬寄せ、肺を圧し潰すような呼吸の音を聞いた。
(糸……、すぐに戻るからな)
藤兵衛は心中で、そう念じた。
これから、藤兵衛は働かねばならないのだ。
銭が必要だった。嘉穂屋に貰った十両は、御禁制である阿芙蓉や医者への礼金に消えた。貯めていた銭をかき集めても、到底間に合う額ではない。
しかも、これからもっと必要になる。糸が息を引き取るまで、阿芙蓉を与えねばならない。もし止めれば、糸の全身に苦痛が襲うからだ。
糸を起こさぬよう、静かに自宅を出た。既に日は暮れて、空はみぞれ模様になっている。藤兵衛は傘を開くと、糸が眠る灯りが消えた家を一瞥して歩き出した。
向かう先は、外神田。そこで、人を一人斬る約束をしていた。報酬は三十両。かなりの大物で、仕損じは許されない。それは、嘉穂屋に紹介された、殺しの依頼だった。
濃い闇の中で、藤兵衛は自分の足音に耳を傾けていた。
〔了〕
※阿芙蓉=アヘン
◆◇◆◇あとがき◆◇◆◇
本作は、僕にとって初めて「裏社会」を意識した、自身初となる暗黒小説。「 EdoNoir(江戸・ノワール=江戸の悪)」と呼ばれるシリーズの第一弾です。
知らず知らず闇の世界に引きずり込まれている男を、病の妻との哀切を交えて描きました。
限られた文字数でしたので、あれやこれや詰め込んだ感がありましたが、僕にとっては一番思い入れが深い短編作品となりました。
また、この作品には別の側面もあって、投稿当時に「藤兵衛のその後が知りたい」という声が多く、その為(だけではないですが)に書いたものが、「谷中の用心棒 萩尾大楽」でした。
同書には、藤兵衛の「その後」が描かれます。そうした意味で、この作品はプレリュードと言えるのではないでしょうか。
そして今回、発売を記念して新しく書き直しました。読んでいただけますと、幸いです。
闇の足音 筑前助広 @chikuzen
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