第6話

「上がるぞぉ」


 廊下をずかずかと歩いてくる男の足音が聞こえる。間もなく現れた隼人はダイニングに突っ立っている私を、そして桜井を見た。桜井にチラッと向けた隼人の視線に少し、ほんの少し不愉快さが宿っているように見えて、私は何故だか身体が軽くなったような感覚を味わった。


「俺の荷物は?」


 ぶっきらぼうな問いかけに私は無言で寝室を指差した。迂闊に声を出せば、心の動きがばれてしまいそうだ。自分でもどっちに振れているのか分からない心の振子。


 隼人は私と桜井の関係に興味なさそうに寝室に向かった。


 寝室には隼人が残していった身の周りの品をゴミ袋に入れて置いてある。そのうち捨てようと思っていた。だけど、捨てていなかった。だって、まだ出て行って十日しか経っていないのだ。


 私は餌のにおいにおびき寄せられる犬のように、ほとんど無意識に隼人を追おうとした。だけど、身体が動かなかった。振り返ると、桜井が見たことのない真剣な表情で頬を紅潮させて私の手首を掴んでいた。


 すぐに寝室のドアの音がして隼人が戻ってくるのが分かった。


 桜井が私の手首をパッと放す。


 握られていた部分がひんやりして、男の熱い手を恋しくさせる。


 再び廊下に姿を現した隼人は銜え煙草で、ダイニングに突っ立つ二人を見た。


 何故かは分からないが、桜井が私の隣に並び立つ。


 隼人は見覚えのある赤い細身のライターで煙草に火を点け、余裕を醸し出すように片方の口の端を歪めて笑い、煙を吐き出した。


「これだけもらっとくわ。後は捨てといて」


 そう言って軽く空中に放り投げたのは私が隼人の誕生日にプレゼントしたデュポンのライターだ。今、思えば、その日が本当に彼の誕生日だったかも怪しいが。


 じゃあな、と味も素っ気も未練も感じさせない乾いた声を残して隼人は去っていった。間もなくドアが閉まる音がして、私は糸が切れた操り人形のように座り込んだ。


「何だよ、お前。つけてきたのか?」


 雨音に混じって部屋の外から隼人の驚いたような声が聞こえてきた。


「だって、心配だったんだもん」


 すがりつくような若い女の声。


「俺を信じろって」


 私は手がわなわなと震えるのを感じた。何だろう、これ。悔しさなのか。嫉妬なのか。


「松浦さん」


 頭上から桜井の声が降ってくる。


 まだそこにいたのか。私は床に目を落とし懸命に声の震えを抑えて「何?」と言った。


「カラオケ行きませんか?僕、松浦さんの好きな曲歌いますよ」


 何故私が桜井に歌ってもらわねばならないのか。私は鼻の奥がツンとするのをやり過ごしてから口を開いた。


「ミスチル、歌えんの?」

「ミスチルっすか。まあ、何とかなると思います」


 私は乾いた契約書を桜井に投げつけた。


「何とかなるレベルで歌ってほしくないのよ」


 桜井は契約書の表面を手で撫でるように確認した。


「乾いてる!ありがとうございます」


 桜井は喜色を浮かべて私に深々と頭を下げた。


 単純な男だ。嬉しかったら笑って、悲しかったら泣いて、困ったらすがりつく。


「桜井君って悩みなんかないんでしょ」

「悩みがないのが、悩みなんですよねー」


 そう言って頭を掻きながら豪快に笑う桜井を見ていると、つられて笑ってしまいそうになる。


 私はアイロンを片づけながら、「用が済んだら帰れ」と玄関を指差した。


「お邪魔しました」


 桜井は「うわっ。びっちょびちょ」と言いながら上着を羽織ってダイニングを出て行った。


 あ、そう。ここは素直に帰っちゃうんだ。


 私は去っていく男の背中を横目で確認しつつ、胸に兆した寂しさを持て余し、「めんどくさい女」とぼそっと自分のことを非難した。そして、その場で硬いフローリングの床に寝転がる。ひんやりした感触が気持ち良くて思わず目を閉じる。


「ミスチル、練習しますから、今度、カラオケ行きましょうね」


 廊下の向こうで桜井が声を張り上げている。


 私はそれを聞いて思わずクスッと笑った。


 ドアが開く音がする。


 このまま眠ってしまおうか。急に心地良いまどろみが身体に重くのしかかってきた。私は桜井に掴まれた手首をそっと撫でた。


「行きましょうね」


 耳のそばで囁くような声が聞こえ、ハッと目を開く。私の目の前に、覆いかぶさるように桜井がいた。 桜井の赤い唇が、ついばめそうな距離にあって、私の視線はそこに釘付けになる。


「何、歌ってくれるの?」

「何がいいですか?」

「んー。『抱きしめたい』かな」

「その歌、知ってます。でも、抱きしめるだけじゃ我慢できません」


 そう言って、近づいてきた桜井の唇は私の全てを溶かすように温かかった。

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