第5話
私は仕事部屋に戻りパソコンの画面に桜井からのメールを表示させた。何度見ても「おばさん」の文字が私の胸にキリキリと突き刺さる。先ほどは気が付かなかったが、確かに「登録翻訳者データ」というタイトルのファイルが付いている。
桜井が私の隣にやって来て、「あちゃー」と声を上げる。
「これです。松浦さんに送っちゃうとはなぁ」
「でも、これって本来はこの梶田さんって人に送るつもりだったんでしょ?それはそれでまずかったんじゃないの?」
「そうなりますね。まずいっす」
桜井は他人事のように軽い調子で言う。
「桜井君、分かってる?君は二つのミスをしているわけよ。添付すべきではないファイルを添付してしまい、送り先を間違えて送った。これってもう桜井君個人の問題じゃなくなっちゃてるの。会社の信用に関わるのよ。会社にばれたらどうなると思う?」
私の問いに桜井は少し顔色を変えた。
「実は、もうばれてるんです」
「え?そうなの?大崎さんに?」
桜井は力なく頷いた。
「もし、松浦さんがファイルを見てたら、お前はクビだって言われました」
私は嘆息して腕を組み、桜井と正対した。
「何のデータなの?」
「だから、何でもないですって。ただの……」
「見ちゃうわよ」
私は桜井の言葉を遮って、添付ファイルの上にカーソルを置いた。
「ああ。言います、言いますけど言ったら、このままメールを削除してくれますか?」
「さあね」
「そんな殺生な」
「言わないなら、いいのよ。見ちゃうだけだから」
私は桜井を威嚇するようにマウスをぐりぐり動かした。
「そんな……」
桜井は項垂れてもごもごと言った。「うちの翻訳さん全員の評価と単価です。文字数あたりの報酬が分かる内部資料です」
つまり、これを見れば私の翻訳を会社がどのように評価しているかが分かるわけだ。
「そんな大事なものをメールに添付して送信しちゃうなんて、どういう神経してんのよ」
「返す言葉もございません」
「反省してんの?」
「はい。反省してます。申し訳ありませんでした」
桜井は一歩下がり、私に向かって深々と頭を下げた。
私はそれを見て不承不承メールを削除してやった。若いとは言え大人が真面目に頭を下げたのだ。それで許してやらないようでは私の人間としての価値が下がる。
桜井は「ありがとうございます。ありがとうございます」と大きな声で何度も私に礼を言った。
それが鬱陶しくて私は桜井をシッシと仕事部屋から追い払った。
「でも、あれって、話、盛ってないですから」
「え?」
「あのメールの文面のことですよ」
桜井は私がメールを削除したことで浮かれているのか、ニタニタした顔で振り返る。
それが再度私の怒りに火を点ける。
「あんたね、本当のこというと、私、怒ってんだからね」
「そんなぁ。恥ずかしがらなくてもいいじゃないですかぁ」
「はぁ?何で私が恥ずかしがらなくちゃいけないのよ」
「僕はこう見えて根が正直なんで、嘘やおべっかは言わないんですよ」
「あんたねぇ……」
私は奥歯を噛みしめた。こいつ今「本心でおばさんだと思っています」って言いやがった。
「松浦さんって、本当に米倉涼子に似てますって。それにメイクとか服とか、いつもセンスいいなって思ってたんすよ。綺麗な人だなって」
そう言えば、そんなことも書いてあったような気がする。
「ちょ、ちょっと。人のことおばさん扱いしたくせに、急に変なこと言わないでよ」
「いや。松浦さんってちょっととっつきにくいところあるけど、そういうところも含めて僕、結構……」
桜井は突然玄関で立ち止まり、「あー!」と大きな声を上げた。
「今度は何?」
桜井はしゃがみこみ、鞄を持ち上げた。ぽたぽたと水が滴り落ちる。鞄を開いて取り出した封筒もぐっしょり濡れて変色している。封筒の中の書類を持つ桜井の手が震えた。
そこには大きく「契約書」と書かれていた。雨を吸ってふにゃふにゃになっており、文字が滲んでいる。
「契約書が……」
私はすぐに浴室に入り、新しいタオルを持ってきた。
「こっちにおいで!」
呆然としている桜井を叱りつけるようにダイニングに呼ぶと、テーブルの上にタオルを敷いた。桜井から契約書を奪うように取り、タオルで挟み込む。さらに分厚い辞書を仕事机から持ってきて、タオルの上に置いた。
「体重のせて少しでも水分取りなさい」
言い残して私は寝室に向かった。部屋の隅にあるゴミ袋は努めて見ない。クローゼットの奥からアイロンを取り出し、アイロン台を小脇に抱えてダイニングに戻る。
桜井が裸足のまま椅子に立ち、全体重を辞書に集中させるように押し付けていた。
体重をのせろとは言ったが、椅子の上に立たなくても……。後であの椅子もしっかり拭いて消毒しないと。
私は全身に気だるさを感じながら、アイロンのプラグをコンセントに差し込んだ。
「持ってきて」
桜井から契約書を受け取ると、ハンカチを載せ、その上からアイロンを掛けた。水が焦げる熱く湿ったにおいが広がる。
桜井が心配そうにのぞき込んでくる。垂れたネクタイからぽたっと水滴がアイロン台の上に落ちて、私は反射的に桜井をキッと睨み付ける。
「す、すいません」
桜井が顔をひきつらせてスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外すのと同時に、チャイムが鳴った。
誰だ、こんな時に。
私は「もう」と立ち上がり、インターフォンを見た。そして、硬直した。
そこにいたのは十日前にここを出て行った男だった。
どの面下げて、と思った。しかし、しれっと画面に映る隼人から女を作って出て行ったことに対する罪悪感は全く見られない。
もう一度、インターフォンが鳴る。
背後に桜井が立ち、怪訝そうにこちらを見つめているのが分かるが、私は動けないでいた。
ドアが開く音が玄関から聞こえてくる。
「俺、どうしましょう?」
うろたえた声で桜井に訊ねられても、私にも正解が分からない。
「奈央。いるのか?」
久しぶりに聞く隼人の声。その声を私は思わず胸の中で反芻していた。
声に媚はなかったか。私にいてほしいと願っていたか。それともいないことを期待していたのか。もしかしたら、よりを戻したいと言いに来たのかもしれない。だとすれば私はどう答えようか。
玄関に男物の靴があって、廊下にバスタオルが転がっていて、ずぶぬれの若い男が部屋にいて、私がアイロンを掛けている。隼人はそれをどのように見るのだろうか。
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