第4話

 雷鳴のようにチャイムが轟いて、ぼうっとしていた私は慌ててインターフォンに向かった。そして思わず「あっ」と声をあげてしまう。画面には桜井が映っていたのだ。


 桜井にメールを送信したのは三分ほど前。まさか、メールを見てすぐに駆けつけたというわけではないだろうが。


 雨に降られたのか、画面に映っている桜井の髪が濡れて顔に貼りついている。いつも陽気な桜井だが、今日はどことなく憔悴しているように見える。


「どうしたの?」

「お忙しいところすみません。ちょっと……お話がありまして」


 画面の向こうでペコペコ頭を下げる桜井はいつになく低姿勢だ。


 私は小首を傾げながら玄関に向かいサンダルをつっかけてドアを開けた。


 雨が世界を叩く音が部屋の中に入り込んできた。


「どうしたの?ずぶ濡れじゃない!」

「あの……」


 いつもは戸を立てたいぐらいによくしゃべる桜井の口が今はもごもご動くだけで、何を言っているのか聞き取れない。風に乗って雨の飛沫が私の顔にも降りかかる。


「とにかく、入って」


 私はチェーンを外して桜井の袖を引き玄関の中に入れた。


 桜井は髪から顎から指先から水を滴らせている。


 私は、「ちょっと待ってて」と言い置いて浴室に入り、バスタオルを掴んで玄関に戻った。


 桜井は相変わらずのしょぼくれた顔で玄関に立ち尽くしている。「使いなさい」とバスタオルを放り投げると、桜井は私に言われるがままに緩慢な動きで顔と頭を拭う。


 私はそれを廊下の壁にもたれながら眺める。


「で?どうしたの?」


 桜井は顔を包んだタオルの隙間から覗く目を恐る恐るという感じで私に向けた。


「メールが……」


 やっぱりそうか。私をおばさん扱いしたメールを誤送信してしまったことに気付いて、謝罪のためにこの雨の中を走ってきたのか。


「いいのよ。別に、気にしてないから」


 私も甘いな、とは思うが、びしょ濡れで今にも泣きだしそうな大人の男を前に追い打ちをかけるようなことは言えなかった。


 しかし、私の意に反して桜井は「ああー」と断末魔のような声を上げて、鞄を放り投げ、その場に崩れ落ちた。


 私はその声に驚いて飛びずさる。


「え?何、何なの?」

「見たんですね?」

「さっきのメールでしょ?見たわよ。そりゃ、見るでしょ。届いてるんだもん」

「ああー」


 桜井はさらに大きな声を上げて頭を抱えた。


「ちょっと、何?大きな声出さないでよ」

「終わった……。終わりました」


 何が終わったというのか。支離滅裂だ。私はブクブクと気泡のように心の底辺から怒りが湧き起ってくるのを感じた。


「だから、何なの」

「見なかったことにはできませんか?」


 桜井は起こした顔がびしょびしょのぐしゃぐしゃだ。雨なのか涙なのか、よく分からない。


「でも、見ちゃったもん」


 おばさん扱いされたことは忘れられない。時間は二度と遡れない。


 しかし、また桜井が大げさに「ああー」と喚く。


 私は面倒くさくなってきた。


「だから、気にしてないって言ってるじゃん」

「松浦さんが気にしなくても、こっちが気にするんですよ」

「大体、あんなこと書いたのは桜井君でしょ。私のせいじゃないわ」

「作ったのは僕じゃないですよ。大崎さんです」

「え?そうなの?」


 大崎は桜井の上司だ。私より一回り年上で、ダジャレと下ネタが大好きな、ガサツなおじさんだ。あの人におばさんと呼ばれたのか。そう思うと胸のあたりでもやもやしていたものがスッと晴れる。「でも、桜井君のアドレスから送信されてきてたけど?大崎さんがなりすましたってこと?」


 わざわざそんなことをするのか。しかも、それを誤送信するなんて。大崎はガサツだが仕事はできる男だ。


「ですから、大崎さんが作ったのは査定の方です」

「査定?何それ」

「エクセルのファイルですよ……あれ?見てないんですか?」


 桜井が絶望のどん底から微かに光明を見出したような瞳をこちらに向ける。


 エクセルのファイル?


「見てない」

「え?マジ?」


 桜井の言葉遣いが急に変わる。


「うん。マジ」


 私がコクリと頷くと、桜井は「よっしゃー」と喜色満面で立ち上がり、冷たく湿った手で私の手を取った。


「ありがとうございます。助かりました!」

「いや。まだ、助けてない」


 私は突き放すような目で桜井を見つめた。「何のファイルだって?」


 桜井はゆっくりと私の手から手を離す。


「いやだなぁ。何でもないお遊びのガラクタファイルですよ」


 照れ隠しのように頭を掻いて笑う。


「査定って言ったよね?」

「え?そんなこと言いましたっけ?」


 桜井は私から視線を外し、「いやー、濡れた濡れた」とタオルで顔や首筋を拭う。


「見てこよっと」


 私は桜井を置き去りにして奥へ向かった。


 慌てたように桜井が「ちょ、ちょっと」と勝手に部屋に上がりドタバタ追いかけてくる。


「ちょっと!そんな濡れた靴下で上がってこないでよ!」


 私は桜井の足跡で濡れて光る廊下を指差す。


「あっ。すいません」


 桜井は慌てたように靴下を脱ぎ取る。


「ちょっとぉ。裸足で廊下を歩かないでくれる」

「えー。でも、もう上がっちゃったし」


 桜井は困惑顔でタオルで足の裏を拭く。


 私は額に手を当て脱力しながら言葉なくそれを眺めた。あのタオルは雑巾にしよう。

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