第3話

 正直、いつまでも一緒にいるつもりはなかった。当然結婚する気など全くなかった。だけど、隼人との別れが付き合い出して半年足らず、同棲し始めて三か月余りで訪れるとは思わなかった。


 もう少し、あのうっとりするような愛らしい笑顔を見ていたかった。傍に座って年齢の割には肉の付いていない腹周りに腕を回していたかった。


 少しずつ生活のすれ違いや性格の不一致を演出して、予定調和でありきたりな別れにソフトランディングしたかった。どちらかがきっかけにはなるのだが互いに結末を知っている、まるでジェンガを積み、そして崩すときのような予感と覚悟を胸に抱いてその日を迎えたかった。


 私はプリンターが印刷を終え、妙に静まり返ってしまった世界に音と温もりを求めてキッチンに向かった。


 電気ケトルに水を注ぎセットする。間もなくコポコポと音を立ててお湯が沸く。


 時刻は午後二時を回ったところ。仕事に集中していたので昼ご飯を食べていない。そう考えた途端に、きゅるきゅる、と見事に腹が鳴った。私は買いだめしてあるカップラーメンに湯を注ぐ。蓋には五分必要と書いてある。


 待ち時間を使ってメールを確認しよう。桜井には急ぎの仕事と言われたが、どれぐらいの分量なのか確認しておかなくては。パソコンの前に戻りメールを開封する。目に飛び込んできた内容に私は……フリーズした。




梶田様

先ほどの御依頼の件、翻訳の松浦さんにオッケーいただけました。

この翻訳さんは33歳のおばさんですけど、女優の米倉涼子に似ていて結構きれいで、いつもしっかりメイクされていて見た目にも若いですし、センスの良い方なので、梶田様が仰っていたように化粧品を実際に使ってもらってから、その実感とともにフランス語の宣伝文句をキャッチーに邦訳してもらうことが可能ではないかと思います。

 取りあえず、見積書と契約書の案を送付します。ご確認ください。




「何これ」


 それだけの言葉を発するのにたっぷり五分はかかった。全身はフリーズしていたが目だけはパチンコの玉のように激しく動き回り何度も文面を行ったり来たりしていた。


 カッと頭に血が上り、思わず天井を仰ぐ。


 どうやら桜井はクライアントの「梶田」に送信するメールを誤って「翻訳さん」である私に送り付けてきたようだった。


 桜井和也。


 今年から契約翻訳者に仕事を割り振る担当になり、私に業務連絡をしてくるようになった若手スタッフだ。


 私の愛するあのミスチルの桜井和寿と一字違い。そういう意味で私は彼に悪い印象は持っていなかった。


 桜井は私とは一世代ずれていて、調子が良いというか物言いの軽薄な今時の若者と私の目には映っていたが、それでも彼とやり取りをしているとミスチルの名曲がBGMとして私の頭の中で自然と鳴り響き、少なからず私のテンションを高めてくれていた。


 しかし、ここではその軽薄さが悪い方に出たようだ。


 私はキッチンに戻り、レバーを上げてシンクに水を叩きつけた。


 動揺はなかなか鎮まらない。


 とにかく気分が悪い。カップラーメンからは豚骨のにおいが漂ってくるが、食べる気になれなかった。


 おばさん


 これだ。このひらがな四文字が私のテンプルにクリティカルヒットした。


 おばさん


 この言葉が耳慣れないわけではない。同世代の女友達とは「もう、おばさんだから」みたいなことを自虐的に言い合うことは良くある。幼い甥っ子に自ら「おばさんはね」と話しかけることもある。しかし、異性から、しかも文字にして眼前に突きつけられたことは今までなかったのかもしれない。


 確かに私は三十三歳。世間的にはもうおばさんかもしれない。だけどさ……。


 桜井は入社三年目なので二十五歳ぐらいだろう。私もその頃は三十三歳の女性を内心でおばさん扱いしていた気がする。桜井は間違ったことは言っていない。おばさんのことをおばさんと呼んだだけ。ただ、それだけだ。デリガシーがないとは思うけれど、だからと言って、そこに誇張があったり嘘があったりしたわけではない。しかし、それが分かるからこそ、心にこたえるのかもしれない。


 私は水を止め、振り返って冷蔵庫を開けた。缶ビールを取り出し口をつける。清冽な黄金の液体が喉の奥で痛いぐらいに強く弾ける。


 半分ほど飲んだところで、大きく息を吐き出す。


 窓にぽつぽつと何かが当たっている音がしてリビングのカーテンを開いた。


 果たして外は雨だった。春の嵐か、急に大粒の雨が降り出したらしく、スーパーの袋をぶら下げた女性が顔を雨から守るように片手をかざしながら小走りで駆けていく。


 雨は仕事をはかどらせる。そして私の場合、アルコールも仕事に対する意欲を高めてくれる。指が勝手に翻訳を進めていくような感覚になれる。だから、疲れてきたときや煮詰まったときなどはビールを飲んで自分にアクセルを掛けることがある。


 私はパソコンの前に戻り、桜井からの先ほどのメールを引用した返信メールを作成した。




桜井様

 13:49に私に送信いただきました下記のメールは送信先を誤っておられませんでしょうか。ご確認いただきますようお願いいたします。

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