「あなたを信じて待つ」


 それは私の記憶ではない。

 それはメル・アイヴィーのことをよく知る大切な人の記憶だった。


 自分が自分でないような感覚があった。ただでさえ頭の中が混乱しているのに全身を張るような痛みが思考を妨げている。

 カラメルの甘い香りはない。

 コーヒーの落ち着く香りもしない。

 でも嗅ぎ慣れてしまった嫌な匂い。

 雪というよりは、あの人が悪魔と例えた白い空間。私が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。

 ふらつく身体と戦っているうちに辺りが騒がしくなってきた。看護師さんは優しくて天使のようだったし、私の置かれている状況を説明してくれるお医者さんは神様に見えた。

 でもやっぱり、あの人のいうことは正しかった。だって、話を追うごとに神様は悪魔に見えてくる。


 神様はこう言った。

「手術は成功した。君はもう一度、ステージに立って歌うことができる」

 悪魔はこう言った。

「もう一人は即死だった。君の命と引き換えに」

 本当はもっとオブラートに包んではいたけれど、要はそういうことだった。



 ――私は、彼女を救える。

 あの人は最後、そう思って死んだのだ。死に際なのに心底嬉しそうに浮かべた微笑みが網膜に焼き付いて離れない。

 私を事故から救って、一度死んだ身体さえも使って私を病気からも救ってくれた。


 誰も、そんなこと頼んでなんかいないのに。

 いや、違う。

 何も頼まなかったから、こんなことになったのだ。


 あの人は私の神様だった。もしかすると悪魔だったかもしれない。でも、そういう意味でいうのなら私だってあの人がいうような天使じゃなくて悪魔だった。

 あの日――あの人が言うところの都心の星空をバックに私が歌っていたあの日、私は死のうと思っていた。誰かに背中を押して欲しくて、祈っていた。

 何もかもどうでもいい。世の中に失望の無い楽しさなんてなくて、生きる意味は綺麗ごと。誰の記憶にも残らずふっと消えてしまえたならどんなに楽だろう。そう思っていた。

 そう歌っていた。

 私は歌が好きだった。歌には少しだけ自信があった。言葉は届かなくても、歌うだけでは響かなくても、祈りは届くと思っていた。あの人は私を認めてくれて、見出してくれて、全てを奪っていったのだ。あなたのせいで、私は全てを失った。

 あなたと出会ってから、私は一度だって死にたいなんて思わなかった。

 何もかもに何かしらの意味があって、世の中は諸行無常だからこそ儚く美しくて、生きることにも意味がある。誰かの記憶に残って何か意味を残せるなら、それはきっと幸せなことだ。そう思い直した。

 そう歌うようになった。


 これは私の罪だ。私が自らの死を望んだから、あなたと出会ってしまったから。


 私は、二度とステージに立って歌えないはずだった。もし無理をすれば大好きなプリンを食べることも、歌うこともできなくなるかもしれない。それだけ重い病気だった。

 ずっと祈っていた。もう死にたいなんて思わない。ただ、もう一度歌いたいと願っていた。歌うことだけが私の生きる意味だった。歌えないのなら死んでいるのと一緒だった。歌を失った私にあなたが笑ってくれるのが嬉しくて、応えられないのが悔しかった。毎日毎日ひたすらに、都心の星空みたいな部屋の中、あの頃のようにひとりぼっちで祈っていた。もう一度歌いたいと、誰にともなく祈っていた。


 あの人は、私を救うために死ぬつもりだった。はじめから自分の命を私のために使い潰すと決めていた。私はあの人を狂わせた悪魔で、あなたは私から全てを奪った悪魔だった。


 私は、あなたのために歌い続けたかったのに。

 それだけが生きる意味だったのに。

 あなたは私のために死ぬという。

 だから「どうして」と聞かずにはいられなかった。私の本心なんか知らない癖に、私のことを必死に考えて出した答えを否定できなかった。「うん? 何が?」なんて、何でもないみたいに笑わないで欲しかった。

 何も言えず、私は逃げ出した。

 大雪で都市機能が停滞した街に飛び出して、発作を起こして死にかけた。

 もしも――。 

 ――開いた扉が玄関じゃなくて、他の部屋だったら。発作を起こしたとき、あの人の顔を思い浮かべなかったら。あの人の好意や覚悟を無下にすることを承知で気持ちを言葉にしていたら。そもそもあの人と、出会っていなければ。

 もしかしたら――いや。

 現実として、死んだのは私じゃなくあの人だった。


 あの日、死ぬ理由を失った。

 事故であなたを失った。

 歌えない身体を失った。

 あなたに三度も命を救われた。

 すべて、あなたの命と引き換えに。

 これでは本当に、私が悪魔みたいだ。



 精密検査を終えてふと窓際を見ると、あの人の鞄とぐしゃぐしゃになってゴミだと言われても納得してしまいそうな様相の小さな花束があった。あの人の死に顔を見る勇気はまだない。

 でも、あの人が私のために書いたらしい手紙を読まないことは、私を本当に悪魔にしてしまう気がした。

 震える手で鞄を開くと、記憶通りのものが出て来た。仕事用のノートパソコン、クリスマスのステージのパンフレット、手紙。恐る恐る、手紙を開いて目を通す。可笑しいのに鼻と目の奥が熱くなる。

 手紙にはこうあった。


「『メル。私は君に救われた。

 何もかもがどうでもいい。世の中に失望の無い楽しさなんてなくて、生きる意味は綺麗ごと。誰の記憶にも残らずふっと消えてしまえたならどんなに楽だろう。

 そう思っていた。君のせいで、私は全部失ってしまった。

 君の歌声を多くの人に届けたいと思った。君の歌で感動する人を見るとどんな苦労も楽しかった。本当の生きる意味を見出した。誰も彼もが君の歌を聞いて如何なる苦しみ失ってしまえばいいと思った。

 全部、君のせいだ。

 君が歌えない世界なんて滅びているも同然だ。君を笑顔にできない私なんて死んでいるも同然だ。君が祈らなくても済むように、私は私のために、私の全てを君にあげよう』」


 なんて身勝手で、クサい手紙なんだろう。心臓の音がうるさかった。それがむしろあの人らしくて、私は祈りたくなった。


 照りつける太陽の眩さに目を逸らした。返ってくしゃくしゃの小さな花束に目を取られた。

 それは紫色のアネモネだった。

 どうして。

 ――どうして。

 なんて、叫ばない。

 祈りもしない。

 私が歌うべき場所はここじゃない。

「……先生」

 目頭の熱を逃がすように、赤くなるのも構わず目を擦った。

「今日は、何月何日ですか?」

 白衣の悪魔が笑顔で答える。

「今日はクリスマスだよ。ささやかだけど、病院でもパーティーをするから楽しみにしておくといい」

 私はあの人の鞄を片手に駆け出した。どうせ残っているのは細々とした検査だけだ。構わない。引き留める手を振り切って病院の中を駆け抜ける。今さら病院内のルールなんかじゃ躊躇わない。時間はまだある。きっと間に合うはず。

 タクシーを捕まえて行先を告げ運転手さんを急かした。最初は訝る様子だったけど、珍しく必死に自己主張したのが功を成したのかお医者さんに捕まるより先に出発してくれた。

 この調子でいけば間に合う。

 そう思っていた。


 眩い太陽とは裏腹に、今日も雪が降っていた。


 都心の雪は随分と大事おおごとのようで、そこかしこから怒号とクラクションの鳴る音が聞こえている。あの日のように――私たちのように、事故に遭っている人もいるだろう。それを裏付けるが如く、タクシーは渋滞に引っかかってしまった。

「お嬢ちゃん、急ぎだっけ?」

「……はい」

「悪いんだが、見ての通り渋滞に引っかかっちまった。コンサートが目当てなら、手前の足で走っていった方が早い」

「なら、ここで」

 運転手さんの答えを聞くより先に、私はあの人の鞄から罪悪感と一緒に財布を取りだした。しかし、運転手さんは私を許してはくれなかった。

「あんた、メル・アイヴィーだろ? うちの娘がファンなんだ。お代はいいから、サイン書いてくれねえか?」

 そういって、運転手さんはサイン用の色紙を二枚とサインペンを私に差し出した。彼は私と目を合わせず、フロントウィンドウの手前にある顔写真付きのネームプレートを指し示した。

「片方は娘宛で、もう片方は……そこに書いてある名前宛で頼む」

 サインを書くのも久しぶりだ。運転手さんも取り出したメモ帳にボールペンで何かを書いている。手が覚えていたことで、歌唱力についての不安も少しだけ和らいだ。

 指示通りの宛名で書いたサインを渡すと、代わりにメモ帳の切れ端を渡された。

「この通りにいけば幾らか近道になる。気をつけてな」

 運転手さんに頭を下げて走った。


 心臓が跳ねている。けど、痛くない。

 だって、今も私にはあの人がついているから。


 会場の近くまで来て、私は勢いよく滑って転倒した。積もった雪は泥と交じって本来の白さからは想像できない汚さを地面と一緒に露わにしている。冷たい。痛い。汚い。でも、それでも、それよりも、立ち止まるわけにはいかない。

 歯を食いしばり立ち上がる。汚れた入院着で駆けていると「あれ、メル・アイヴィーじゃね?」なんて言わて顔が熱くなった。元々必要以上の露出はしない方だったから、私はファンサービスなんて考えず走り抜いた。あの人もきっと、運転手さんへの健闘分で許してくれるだろう。

 関係者用の出入り口に着くと、スタッフさんは驚いた様子で私を通してくれた。あの人の口ぶりからして話を通してはいたものの本当に私がくるとは誰も思っていなかったのだろう。タオルを手渡され、自らの手で汚れを拭きながら楽屋に向かう。

 会場の空気も久しぶりだった。ぴんと張り詰めているのは冬特有のものではなく、大舞台特有のものだ。用意された衣装は私が倒れた日と同じものだった。

 鏡を見ながら汚れを落とし、衣装に着替え、歌詞の確認と発声練習をしている内にメイクさんが着て、私のメイクをしてくれた。

「髪型はどうします?」

 首を横に振って答えた。

 それはいつも、あの人が好んでやってくれた仕事だったから。

 用意してあったプリンを食べると、急にコーヒーが飲みたくなってあの人用に用意された缶コーヒーを飲んだ。祈る代わりに胸を押さえて、笑って見せた。鏡の中の私は今にも泣き出しそうだった。

 あの人のような笑顔を浮かべる私。

 隣に、あの人の姿はない。

  

 私を呼ぶ声があった。それがスタッフさんの声か、お客さんの声か、あの人の声か、今はもうわからない。この心臓の鼓動が私のものかあの人のものかなんていうのも些細な問題だ。

 ステージ裏の薄暗がりで、胸を押さえて深呼吸をした。

 痛がっているように見えるだろうか。

 祈っているように見えるだろうか。

 あの人が望んだ笑顔が出来るように、両手の指先で頬をねた。上手く笑うためにも練習が必要だ。

 大丈夫、私はもう痛くない。

 私はもう祈らない。

 歌うことを生きる意味なんかにしない。


「見ていてください。今日は誰より楽しんでみせますから」

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All or Nothing 七咲リンドウ @closing0710rn

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