Outroduction*forsaken


 これは私の罪だ。

 私が自らの死を望んだから、彼女と出会ってしまったから。

 彼女は、二度とステージに立って歌えない。


 もし無理をすれば彼女はプリンを食べることも歌うこともできなくなるかもしれない。それだけ重い病気だった。

 医師の話が全て嘘であって欲しいと願った。話を聞くにつれて医師の顔が悪魔に見えて来た。潔白な空間で白衣に身を包んだ白い悪魔。しかし、悪魔は私の方だった。

 そもそもの話、私はあの廃ビルの屋上になんか向かわずに、別のどこかで身投げでもすれば良かったのだ。

 こんな形で失われてしまうくらいなら出会わない方が良かった。


 彼女は歌が好きだ。

 いつか大勢の前で歌うことにも喜びを覚えて欲しいと思っていた。

 だが、今はそう思わない。

 もしステージの上で歌うことが彼女の喜びの一部になっていたとしたら、私はそれを奪ってしまった。彼女は私と出会ったことで失うものが増えてしまっていたとしたら。そう考えると泣きたくなった。

 一番泣きたいのはきっと彼女だ。私は泣くわけにはいかなかった。私だけは泣いてはいけなかった。それだけは神様が許そうと天使が許そうと悪魔が許そうと、私自身が許さない。

 もし神様がいるのなら、どうして彼女から奪うのだ。彼女以外に何もない私から奪って欲しかった。でも、私から、彼女を奪わないで欲しかった。本当に彼女だけだったのだ、私には。



 悲劇の歌声。堕ちた天使。ヒロイックなネタに仕立て上げた記事よりも、私に媚びたような笑顔を浮かべていた人間が私を見下すよりも、彼女の声が聴けないのが嫌だった。彼女が私だけに見せる――決してファンに向けてはいけない類の――悔しげに歪んだ表情を見るたびに胸が締め付けられるように痛んだ。

 きっと、私よりも彼女の方がずっと痛いのに。

 時間を持て余した彼女と多くのことを話した。お金の話。旅行の話。お世話になった人に挨拶に行く話。ファンレターが今でも届く話。彼女と私は家族だという話。まだステージに立つ希望はあるという話。これまでの話と、これからの話。

 ひきこもる彼女は電気も付けず、祈るように自らの歌を呟いていた。カーテンの閉め切られた暗い部屋でWi-Fiルーターや壁に埋め込まれた床暖房の操作パネルが放つ電子の明かりに照らされるさまに、都会の星空をバックに歌っていた彼女を思い出した。


 彼女の笑顔が見たくて、私はよくプリンを買って帰った。

 話す口実を作るための、二人分のプリンだ。

 帰宅早々にプリンの話をすると彼女は「おかえりなさい」より先に「いただきます」を口にする。私が油断して自分のコーヒーを――彼女はコーヒーが苦手で飲めないが、私は甘いものはコーヒーと一緒でなければ食べられない――淹れていると、いつの間にか私のプリンが無くなっていた。

 キッチンから戻って早々にテーブルの片付けを始めている彼女を呼び止める。

「へい、メル」

 彼女はびくりと肩を竦ませると「……なにか?」と俯きがちに応えた。

「私の分は?」

「食べたじゃないですか」

「君が二個、私が零個ね」

「……食べてるじゃないですか」

「零個は食べてるとはいわない」

 目を合わせずにふざける彼女がおかしくて、少しでも生気があるのが嬉しくて、思わず笑ってしまった。

「まあ、いいけどさ」そういって、私は液体で満たされた彼女のカップを差し出した。「ブラックコーヒー、飲むよね?」

 彼女は目を合わせる代わりに口を噤み、頭を必死に左右に振った。

「冗談だよ。見ての通り、中身はただのココアだ」

 私が差し出したカップをそっと手に取りココアを啜る。すると、よほど熱かったのか顔をしかめて小さな舌をべっと差し出した。からからと笑う私に彼女は少しムッとしたけれど、ほどなくして諦観の籠った微笑を零してくれた。


 こんな時間が永遠に続けばいいのに。そう思った。それで良かったのだ。生きる意味なんか考えず、生きる証だなんて重く捉えず、ただ好きということに意味があった。私は、もっと彼女のことをよく知るべきだったのだ。



 彼女が歌を失ってから半年が経つ頃、私は一つの希望を見出した。夢ではあるが現実味があり、理想というよりは目標というべき、紛れもない希望だった。

 その頃には、彼女は笑わなくなっていた。私だけに見せる控えめな笑顔すらない。私の冗談に苦しげに笑うことさえ、ない。

 私は彼女に、もう一度ステージに立って歌って欲しかった。

 歌を取り戻して、もう一度笑って欲しかった。

 病院からの帰り道、私は文房具屋で便箋を購入し、隣接する喫茶店で手紙を書いた。事務所には連絡を済ませ、パンフレットも鞄にしまってあるのを確認した。お祝いのために花も買った。準備は万全だった。 

 嫌に肌寒いと思ったら雪が降っていた。ホワイトクリスマスにはまだ早い。大雪を喜べなくなったのはいつからだろう。雪は彼女に似合うから嫌いじゃない。けど、鈍色の空から降り注いでコンクリートを覆い隠す雪は大事なものも隠してしまっていた。

 私が知るべきだった、大切なもの。


 私は彼女に救われた。今度は、今度こそは、私が彼女を救う番だと思った。一度は死のうと思った私らしくない決断だと、私自身も思う。本当に、彼女には感謝してもしきれない。

 そう考えていること自体が間違いだったのかもしれない。私が彼女を救えるなんて思っていること自体が烏滸おこがましく、それが彼女のためだと思っていたのが痛々しい勘違いだったのかもしれない。

 どこまでいっても、私はメル・アイヴィーにはなれないのだ。


 家族のような関係だった。私は彼女の親代わりのつもりで、彼女は実の親のように私を頼ってくれればいいと思っていた。だからだろうか。だからこそ、だろうか。私は彼女を救いたいあまりに神様でも気取っていたのかもしれない。

 自己犠牲の精神に酔って彼女に提案したのだ。確実性のある、唯一の希望を。

「ということで、上手くいけばうちの事務所主催のクリスマスコンサートに出られるかもしれないんだ。これから忙しくなるから覚悟しておけよ」

「……どうして」

「うん? 何が?」

「――ッ」

 話を始めて間もなく、彼女は家出した。ひきこもり切りだった身体で、激しい運動の許されない身体で、大雪の降る空の下に駆け出した。

「メル!」

 叫んだとき、彼女はすでに玄関の扉に手をかけていた。最後まで、私は彼女の名前を叫び続けることになる。

 私は熱々のコーヒーを膝にぶちまけた挙句、フローリングの上を滑って転んでしまった。強かに打ち付けた肘は熱を持ち、むしろ床の冷たさが際立った。

 悪いことは重なるものだと、経験上理解していた。彼女が感情的になるなんて初めてのことだった。


 いや、違う。私が知らなかっただけなのだ。

 彼女が何を考え、何を思い、何を悔しがっていたのか。

 あの日からずっと何を祈っていたのか。


 何度も転びかけながら彼女の後を追う。それだけ私は動揺していた。彼女がどこに行くかなんて見当もつかない。私は本当に彼女のことを何も知らないのだとう痛感させられる。

 自ずと向かっていたのは私たちが出会ったあの廃ビルがある、歓楽街の方だった。

 何が悪かったのだろう。天気、時間、神様。何もかもが上手くいかない。強いて言うなら、そういう運命の下に生まれた私が悪いのだ。

 大雪は都市が都市として動くための機能を奪っていた。帰宅ラッシュの時間と重なってしまったのも悪かったのかもしれない。

 陽は見えない。

 空は青から黒に変わり始めている。

 車のクラクションと怒声があちこちから聞こえていた。

 彼女を見つけたのは、片側だけで4車線もある大きな交差点だった。信号の止まった横断歩道で蹲り、胸を押さえているようだった。抱え続けた痛みに向けて、何かを祈っているようにも見えた。

 身体の表面を叩く音があった。鼓膜から全身を伝うびりびりとした感覚は間違えようがない。私の足で走っても届くほどの距離で大型トラックがクラクションを鳴らしている。

 10トン越えの化け物が凍てつく路面を滑り、彼女の元に切迫する。

 走馬燈というのはこういうことをいうのだろうか。なんだかんだで初めての経験だった。現実の時間と思考速度が比例しない感覚を、彼女に死の手が迫っていることで初めて経験している。


 彼女と出会ったあの日の空を、失われた歌を、笑顔を、思い出していた。


 滑る足を前に出す。

 可能性に賭けて手を伸ばす。

 トラックが先か、私が先か。

 届かない。


 ――届かない。

 どうして彼女なのだ。

 どうして私ではないのだ。

 どうして誰も彼女を救ってくれないのだ。彼女は私と違って才能がある。私と同じように、無視をしないでくれ。彼女はメル・アイヴィーだ。誰でもいい。彼女以外なら何でもいい。私の全てを渡すから、誰か彼女を助けてくれ。

 お願いします。

 彼女を、救ってください。

 そうやって信じてもいない誰かに祈った。届いたのはきっと彼女の祈りだった。

 私は――。



 ――私が、メル・アイヴィーだ。


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