鬼一口の屋根裏
宇部 松清
『それ』に座るのは誰なのか。
「結婚してください」
と僕が言って、君が頬を真っ赤に染めて頷いてくれて。
そうして僕達は夫婦になった。
内助の功を受けながら毎日真面目に働いてやっと金が貯まり、それを頭金にして家を買おう、という段階になったのがそのプロポーズから3年後のことだ。
「ねぇ、お願いがあるんだけど……」
普段から滅多におねだりなんかしない、欲のない妻が、恐る恐るそんなことを言ってきた。賃貸アパートの居間でちゃぶ台に並んで座り、不動産のチラシを見ていた時のことだ。
「何?」
家を買う、というのは、もちろん言葉通りの意味だ。情けないことに、僕の稼ぎでは、新築を建てるのは少々厳しかった。だから、中古物件だとか、建売の情報ばかりを見ていた。
自分達の要望で一から建てるというのは確かに魅力的ではあったけれども、何せ家を買うなんて初めてのことで、何が欲しいのか、何が必要なのか、何が譲れないのかなど、全然思い浮かばなかった。
例えば、ベランダは広めが良いだとか、子ども部屋は2つは欲しいとか、2階にもトイレがあると良いなんていうのは何もこちらから注文をつけずとも、当たり前のように備わっていたのである。
だから、洗面化粧台の向かいのドアはもっと明るい色の方が良かったし、各部屋の電気のスイッチもドアに隠れない場所の方が良かった、なんていうのは実際に住んでみなければわからなかった。もう慣れたけど。
さて、話が少々逸れてしまったが。
そう、妻のおねだりの話である。
一体どんなおねだりをされるのだろう。
中古か建売で、というのは彼女も納得済みのはずだけど、もしかしたら「やっぱり新築が良い」と言うかもしれない。予算的にはかなり厳しいが、彼女がどうしてもと言うのならば、多少無理をしてでも叶えてやりたいのが男というものだ。
さぁ、言ってごらんハニー。
なんて歯の浮くような台詞は言わなかったけど。
「出来れば……屋根裏のある家が良いんだけど」
「屋根裏?」
「実家にね、屋根裏があって」
「ああ、そうだね。あったあった」
でもそこって物置部屋になってなかった? とうっかり聞きそうになるのをぐっとこらえる。
物置部屋、と言ったのは妻自身だったが、そこは例えば五月人形や雛人形であるとか、スキーウェアや水着など、とにかくシーズンオフのものを一時的に保管する部屋、というのが正しい。色々なものが色々と置かれていたけれども、雑然とはしていたが掃除もきちんとされていて、なぜか2人掛けのソファが置いてあった。特に傷んでいるわけでもなく、捨てる予定もないらしく、まだまだ現役のように見える布張りのソファである。
「あのソファは何?」
妻の実家は遠方にあるので滅多に顔を出すことが出来ない。
3回目くらいにお邪魔した時に、その屋根裏部屋を見せてもらったのである。
季節ごとのラベリングがされた大小様々の段ボールや衣装ケースが積まれている中、そのソファだけが季節感も何も無く、また、少々日に焼けてしまっていたけれども埃にまみれてもいなかった。だから気になって聞いてみたのだ。
すると妻は、こう言った。
「それはね、鬼が座るソファなの」と。
「鬼?」
「そう、鬼。――あ、母さんが呼んでる。行こ」
「あ、う、うん」
「いま行くってー」
階下から聞こえる義母の声に、妻はちょっと面倒くさそうに応え、僕の腕を取った。
「……昔ね、母さんは鬼に食べられたのよ」
なんて気になる言葉をぽつりと吐いて。
それまでに聞いたこともないような、低いトーンの声だった。
妻はどちらかといえば怒ると声が高くなって早口になるタイプだ。だから、そんな低い声は、ほとんど聞いたことがない。
それこそ、鬼のような。
その瞬間、彼女の声だけが鬼に食べられてしまったかのような。
結局、その鬼に食べられた云々の
その後は、誰それからいただいたどこそこの有名なお茶菓子というのを食べたり、義父が最近始めたのだという俳句サークルの活動についてのお話を聞くことに忙しく、すっかり忘れてしまったのだ。
「それでね、その屋根裏にソファを置きたいの」
その言葉で思い出す。
妻の実家に布張りのソファがあったことを。
鬼が座っていたのだという、そのソファを。
「ソファ、を?」
色は何色だっただろう。
確か――赤だったような。鮮やかな赤ではなく、何ていうか……レンガのような色、というのか。
「そう。安いので良いの。2人掛けじゃなくても良いし、何なら座椅子でも。とにかく座れれば。といっても、アレよ? 椅子じゃないの。ソファか座椅子。多少はふかふかしててほしいかな」
「ふかふか、か。成る程」
「新品じゃなくても良いの。中古のでもね」
「うん、それはわかった。了解。でも、せっかくだし、新しいのを買おう。素材は何が良い? 革? それとも布?」
「そうねぇ、出来れば布が良いかな。革だと夏はべたつくし、冬は冷たいから」
「確かに」
ということは、座るのは、やっぱり君なのかい?
鬼、じゃなくて。
そう思ったけど、聞いてはいけない気がした。
その言葉を吐いたら、鬼がやって来る気がしたのだ。
鬼が来て――、
ぱくりと、一口で。
彼女の。
彼女の声を。
屋根裏のある家、というのは案外あっさりと見つかった。
最近の――というのか、目を付けていた不動産の建売物件だと、屋根裏付きというのは最早標準装備のようだった。屋根裏だと一部屋としてカウントしないとか何とかそういうことらしく、人気があるのだそうだ。
1階は広めのリビングダイニング。そして2階は夫婦の寝室と、それ以外に2部屋。それは子どもが出来たら子ども部屋にする予定だ。経済的な理由で、子どもは多くても2人と決めている。だけどもし出来なかったら、その時は各自が思いっきり趣味を楽しむための部屋として使う予定だ。僕はゲーム用のテレビを置こうかなと言ったら、それじゃあたしは壁一面を本棚にする、と言っていた。
そして、さらにその上、3階に屋根裏はあった。屋根の形のせいで、手前と奥とで高さが違うものの、高いところでも140cm程度だったろうか、小柄な妻でもさすがに頭をぶつける高さだ。子どもが遊ぶ分には良いのだろうが。
僕達が新居に越して、引っ越し業者の荷物が全て運び込まれたその直後、家具屋で注文していたソファが届いた。布張りの、真っ赤な一人掛けソファだ。
鮮やかなその赤を屋根裏で眠らせるのは正直もったいない気もしたが、その色を選んだのは彼女なのだから仕方がない。
例え座るのが彼女を食べる鬼だとしても。
それにしてもわからないのは、なぜ屋根裏にソファを置くのか、ということだ。
聞くのが怖くて話題にも出せないまま、年月が過ぎた。
僕達に待望の子どもが出来た。
性別は産まれるギリギリまでわからなかったから、準備した産着は白と薄い黄色ばかりだ。最後の最後の健診で女の子の可能性が高いと言われ、慌ててピンクの産着を買いに走ったのは良い思い出だ。別に白でも黄色でも良かったんだけど、もし本当に女の子だったのなら、やっぱり最初はピンクが良いんじゃないかと思ってしまうのは、僕の女の子に対するイメージってやつなのかもしれない。妻はそんなにピンクなんか着ないのに。
それから数週間の後、結構な難産で僕らのもとにやって来たのは、なかなかに大きな女の子だった。妻のお腹はそれほど大きくはないと思っていたのだが、よくもまぁあの小さな空間に収まっていたものである。
それも数ヶ月経つと、もうどう丸まったって収められるとは思えないほどに娘は大きく成長した。キャッキャと良く笑う女の子だ。
その娘が3歳になった頃、突然こんなことを言い出した。
「パパ、おうちにね、鬼さんがいるの」と。
妻は夕飯の仕度をしていて、僕は娘を膝に乗せ、絵本を読んでいた。きつねとうさぎが出て来る、可愛らしい内容だった。
どきりとした。
もしそれが本当ならば、あそこだ。
屋根裏にいるのだ。
あの、真っ赤なソファに座って。
口を。
大きな口を開けて。
ぱくりと、一口で。
しかし、彼女は園児なのだ。
僕らを遥かに凌ぐほどの想像力を持ち、夢と現実を自由自在に行き来出来る、子どもだ。
だから僕は「落ち着け落ち着け」と言い聞かせた。娘を信じることも重要だが、鵜呑みにするわけにもいかない。そんな想像上の化け物を住まわせた覚えなんてないのだから。
「鬼さん? それはどんな鬼さんだい?」
「あのね、あのね」
娘が興奮気味に語ったところによると、顔も身体も真っ赤で、角が2本生えており、虎柄のパンツを履いていて、金棒を持っている。――とまぁ、いかにもという鬼だった。
すぐにピンと来た。
こないだ買った絵本に、そのまんまの鬼が登場するのだ。
村人と仲良くなりたい赤鬼が――という、有名なお話で、読んでいるこっちの涙腺を刺激してくる内容である。
ははぁ、早速影響を受けたか。
可愛いものだ。
「そうか。それじゃきっと仲良くなりたくて来たんじゃない?」
だから、あのお話のようにいじめたりしないで、仲良くしようね。
と続けるつもりだった。
きっと娘はまんまるの頬をもっと丸くしてにこにこと笑い、うん、と可愛く返してくれるだろう。
和菓子のようなもちもちの頬をするりと撫で、続きを言おうとした時。
「ちがうの、ママのこと、食べちゃうの」
鬼が。
ぱくりと。
「――え? 食べちゃうの?」
何てことはない。
想像だ、ただの。
そうでなくとも娘は夢みがちなところがある。想像力のたくましさは妻に似たのだ。
その証拠に、妻はあそこにいるではないか。
ジャージャーと水を出して、皿を洗っている。きっともうすぐ夕飯だろう。
「パパがいないときね、鬼さん、ママのこと食べちゃうの」
「パパがいない時に?」
「そうなの」
さらりとそう答える娘の目は真剣だ。
園での様子を伝える時のような柔らかな眼差しではない。初めて見る。こんなに真剣な顔つきは。
もしかしたら、と思った。
当時僕の仕事は土日も祝日も関係なく忙しかった。せっかくの休日に呼び出しがかかるなんてこともざらにあった。
だから、幼稚園が休みの日、母子2人きりになるということは、よくある。あらかじめ決まっていることもあれば、突発的な時もあった。
嫌な考えが浮かんでくる。
もしかしてその『鬼』というのは、僕の知らない男なのではないか、とか。
『食べる』とは、すなわち、そういうことなのではないか、とか。
もしくは、育児などのストレスを、僕がいない間、娘にぶつけているのではないか、とか。その時はいつもの優しいママは鬼に食べられてしまい、別のママになっているのだと思い込んでいる、といったような。
しかし、これに関しては、違うのではとすぐに打ち消した。さっき一緒に風呂に入ったが、怪我や痣なんてものはなかったからだ。娘の肌は、真っ白ですべすべしていて、健康そのものである。少なくとも、身体的な虐待の線は消えた。かといって、ネグレクト、ということもないだろう。娘はいつも清潔で、変に痩せているということもない。
とすると、濃厚になってくるのは、『鬼=間男説』になるわけだが、それもやはり信じ難い。
信じたくない、というのももちろんあるが、どうにも、イメージが沸かない。
彼女は夫である僕がいうのも何だが、美人だと思う。目を見張るような――とびきりの――とまで持ち上げれば白々しいと言われてしまいそうだが、それでもたまに見惚れてしまうくらいの美貌だ。それでいて社交性もそこそこあり、友人も多い。
けれども、それは対女性の場合であって、これが対男性となると、印象がまるっきり変わる。彼女は、例え近所の旦那さんやおじいさんでも、挨拶以上の関わりを持とうとしないのだ。そりゃ近所付き合いというのは大事だから、向こうから話し掛けられれば応えるし、回覧板などを渡したりはするけれども。
付き合い始めの頃、彼女のそんな態度に気付いた時、男性から何か酷いことをされたことでもあるのかと聞いたことがある。けれども彼女はきょとんとした顔をして「無いけど?」と返すのだ。
「何もされてない、っていうのはさすがに嘘になるかな。そりゃ二股かけられたりとか、小さい時はいじめられたりとかしたし。でも、襲われたとか、そういうのはないよ。ただ苦手なだけ」
「苦手って……。じゃあ僕は? 僕も男なんだけど」
例えば僕がとびきり中性的で、女に見えなくもない容姿なのだとしたら、いまの関係も納得出来る。だけど僕はどちらかといえば(外見的には)しっかりとした男で、学生時代は運動部だったし、そこそこ身体も大きい。
「知ってる。でも好きになったら苦手とか、関係ないでしょ?」
「それは……そうだけど」
「あなたは特別」
そんなことを言われたら、もう僕は舞い上がってしまって、それ以上の追求は出来なかった。良いじゃないか、彼女がそう言うのだから。
だから。
妻が僕以外の男性を進んでこの家に招き入れたというシチュエーションは、全く想像もつかなかった。いや、『鬼』なわけだから、嫌々、ということも考えられる。何か弱味を握られて、といったような。娘が『鬼』と言うのだ。そちらの方が可能性としては。
「――パパ?」
とんとん、と肩を叩かれ、振り向く。妻が不思議そうに首を傾げて僕を見つめている。その当時、子どもの前では僕達はお互いをパパ、ママと呼んでいたのだ。
「ご飯って何回も言ってるんだけど」
「あ、あぁ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「大丈夫? 何かすごいおっかない顔」
「そ……、そうかな」
取り繕うように笑みを浮かべてみたものの、頬が引きつって上手くいかない。ざらりとした顎を撫で、せめて声だけでも、と「ハハハ」と発してみる。
鬼が。
鬼がいるのか。
この家に。
屋根裏に。
あの、ソファに座って。
その日の夕飯が何だったか、正直思い出せない。でもきっと妻のことだから美味かったのだろう。食べるのがどうにも遅い娘は箸を転がしたり、口の回りを汚したりして、きっと僕や妻に注意されながら食べたのだろう。
僕はなるべくいつも通りの僕を演じることに精一杯だった。
そして、2人が寝静まった夜中、僕は屋根裏部屋に足を運んだ。
馬鹿馬鹿しい。鬼なんているわけがないのに。それでも少し緊張して。
恐る恐る階段を上がる。屋根裏はドアがなく、階段を上がりきればすぐだ。広めのロフト、といったような空間である。天井は低いものの、広さは充分にある。
その屋根裏部屋の、すぐ手前にそれはあった。日の光がなるべく当たらないような位置に置いたからか、まだまだ鮮やかな赤い色をしている。
鬼のソファ。
ごくり、と唾を飲む。
そうしてから、ゆっくりと座ってみる。
しかし、鬼がやって来る気配も、あるいは、それらしきものに憑りつかれたような感覚もなかった。
馬鹿馬鹿しい、ともう一度呟く。
けれど、そう長居していたい場所でもなかった。
心のどこかでは鬼の存在を信じていたのかもしれない。
子どもの頃に見た妖怪辞典に載っていた『鬼一口』というやつである。その姿はあまりに大きく、挿絵でも鼻から下しか描かれていない。その大きな口でぱくりと人を食べてしまうのだ。
白黒の図鑑ではあったが、鬼といえば赤である気がした。この――ソファのような。
その真っ赤な鬼が、一口で。
人を、一口で食べるのだ。
頭から。
ぱくりと。
そんなことを考えていると、このソファがまるで大口を開けている鬼の顔のように思えてきて、僕は慌てて立ち上がった。
「
天井が低いなんてことすら忘れて。
強かにぶつけた頭頂部を擦りながら、階段を下りる。
馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、と何度も呟きながら。
それから数日の後、僕は部署願いを申し出た。僕がいない時に鬼が現れる、というのなら、僕がいれば良いのだ。娘も妻も僕が守れば良い。
幸い、そちらの部署に空きがあり、また、まだ子どもも小さいという部分が考慮され、僕は土日祝日もきちんと休める部署に異動となった。
そのお蔭か、娘は鬼のことを全く口にしなくなった。――とはいえ、もちろんその『鬼』というのは、妻のことを食べる鬼のことで、相変わらずこちらを泣かせに来る鬼の絵本については何度も読まされたが。
もし仮にその鬼が妻の浮気相手だとしたら、僕が休日にいるせいで会えなくなるだろうし、そのことで彼女が不機嫌になるのでは、と考えたりもしたが、そんなこともなかった。やはり浮気などではなかったのだ。むしろ妻は休日に僕がいることを喜んでいるようだった。
それからまた年月が経ち、娘が中学生になって、やや反抗的な態度をとるようになって来た時のことだ。
いまとなっては何がきっかけだったのか思い出せないが、ある時僕は娘と口論になって危うく手を出しそうになった。すんでのところで踏み止まったが、ぎゅっと拳を握り締めて歯を食いしばる僕を見て、娘は明らかに怯えた顔をした。
胸が締め付けられた。
違うんだ。
僕は君を怖がらせたいわけじゃなかったんだ。
ちゃんと、それはいけないことなのだ、と諭して、一緒に話し合って、それで、君に省みてほしかった。どんな時でも暴力に訴えてはいけない。特に、大人の男と少女といった、明らかに力の差がある場合には。絶対に。
圧倒的な力でねじ伏せようとするなんて。
そんなのは鬼のすることなのだ。
なのに。
居間のソファに座り、己の小ささに肩を落とす僕に、妻は言った。
「大丈夫。そのためにあれがあるのよ」と。
「あれ?」
顔を上げると、そこにはいつもの穏やかな妻の顔があった。手を引かれ、立ち上がり、なるべく足音を立てないようにと念を押されながら階段を上る。どこに向かっているのかは、すぐにわかった。
屋根裏だ。
「どうぞ、座って」
どこに、なんて聞かなくとも、どこに座るのかなんてわかりきっている。
ちょっとくすんだ赤いソファ。
鬼が。
鬼が座るソファだ。
「座るけど……これは……」
結局、何のためのソファなんだ。
視線の先にあるのはただの壁だ。窓ですらない。日に焼けてしまうのを恐れて、位置をずらしたから。
「昔、あなたが忙しかった時ね、私、全然心に余裕がなくて」
ぽつり、と妻が語り始めた。
初めての育児。
何もかもが思い通りにいかない。
ちゃんとしたいのに。
何も出来ない。
加えて娘はかなり口が達者で、どこで覚えたのか悪気なく辛辣なことを言う。
つい、手を上げそうになってしまったのだという。
そういう時、妻はここに来た。
怒りを鎮めるために。
娘を守るために。
いまの自分は鬼に食べられてしまっているのだ。だからそんな思考になるのだ。落ち着け。落ち着いて、鬼の口から脱出するのだと言い聞かせた。
それが、『ママが鬼に食べられた』だったのだ。
「これはね、私の母さんもやってたの。怒りがピークに達したり、ストレスが溜まると、屋根裏のソファに座って心を落ち着ける、って」
「何もここじゃなくても。夏は暑いし、冬は寒いしさ。そういうことなら扇風機なりストーブなり置くのに」
コンセントはあるんだから。
けれどここにあるのは、その季節とは逆のもの。夏にはストーブが置かれ、冬には扇風機が置かれる。ここはそういう場所だから。
「駄目よ、ここが快適になったら駄目なの。長居したくなっちゃうじゃない」
妻はそう言って声を潜め、笑った。
「だけどね、例えばそのまま正座するとか、そういうのも駄目なの。罰を受けている感じになるから。どんどん自分を責めていってしまうから。だから、ある程度はふかふかしたところに座って、クールダウンさせるわけ」
「成る程、だから
だから、僕が家にいる時は大丈夫だったのだ。家事も育児も分担出来るから。
「これからはきっと、あなたもここに来るようになるわね」
思春期ですもの、と続けて、妻はまた笑った。
「そうだね。身も心も完全に鬼になってしまう前に、ここに逃げ込むことにするよ」
「そうして。これからも協力し合って、あの子を育てていきましょうね」
そう微笑む妻はやはり穏やかで優しい。けれど、その内には鬼が住んでいるのだ。もちろん、僕にも。
時にはその鬼がひょこりと顔も出すこともあるだろう。
もう幼児ではないのだから、厳しく言うことも必要だ。
それでも、抑えなくてはならないこともある。大人だからといって、僕達が完全に正しいというわけではないのだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――というわけでね、やはり屋根裏にはソファを置くべきなんだな」
「はぁ、成る程」
僕はいま、妻の――菜佳子の実家に来ている。そう遠くはないのだが、なかなかタイミングが合わず、頻繁にお邪魔することが出来ないのだった。
菜佳子はというと、義母と共に夕飯の買い出しに出てしまっている。
静かなリビングで義父と向かい合い、何を話したものかと思って、そろそろ家を買おうかと思ってまして、と、切り出した。援助を期待して、というわけじゃなく、ただの報告、というか、話のネタ、というか。いますぐ買う予定ではなく、良い物件があったら、くらいの考えである。
そこで開口一番聞かれたのが「屋根裏はどうするのかね?」という質問だった。
特に考えていませんが、と返したところ、滔々と語られたのが先程の『鬼のソファ』の話なのである。
「そんなことがあったなんて初耳でした」
手に持っていたカップを置き、そう答えると、義父はきょとんとした顔をして「いや?」と言った。
「え?」
何だろう。
この感じ。
身に覚えがありすぎる。
「いや、あの、お義父さんの話なんですよね?」
「いや?」
「え? いや、え?」
僕が素頓狂な声を上げていると――、
「たぁーだいまぁー。ごめんねぇ、遅くなっちゃってぇー」
と、菜佳子が……いや、違う、こっちは義母の菜美江さんか。この母子は声も顔も良く似ているのだ。やや遅れて菜佳子がひょこりと顔を出す。
「いやー、ごめんね祥之助君。お腹空いた?」
「え、あぁ、うん」
「何? どうしたの?」
「いや、その……」
「あぁ、お父さん! 祥之助君に何かおかしなこと言ったでしょ!」
菜佳子が買い物袋を調理台の上に置き、怒気をはらませた声でそう言えば、義父は、カカカ、と笑うのだ。
「いやいや、祥之助君があまりにも良い反応をしてくれるもんだから、ついつい乗ってしまって」
「もう! 祥之助君の反応を楽しまないで!!」
いや、それ、君が言う?
頬を膨らませる菜佳子に、聞いていた通りの逸材だと笑う義父。義母はというと、涼しい顔をして夕飯の準備に取りかかっている。
案外菜佳子はお義父さんの方に似たのかもしれない。外見はお義母さんの方なんだけど。
夕食を御馳走になり、「泊まっていけば良いのに」というあながち社交辞令でもなさそうな申し出を「明日は仕事なもので」と断って、妻の実家を後にする。
「相変わらず楽しいご両親だよね」
助手席の菜佳子に向かってそう言うと、彼女はまたも頬を膨らませた。先程のやり取りを思い出したのだろう。
「もう、お父さんたら! 祥之助君をからかって良いのはあたしだけなのに!!」
そうなの?
いや、まぁ確かに出来れば菜佳子だけにしてほしいけど。
「まぁでも楽しかったよ」
「……なら良いけど。一体どんな話だったの? お父さんのことだからまた有りもしないこと言ったんじゃない?」
えぇと、それ、君が言う?
「うん、まぁ、それなりにね」
とりあえず、黙っておこう、と思った。お義父さんのように上手に語れる自信もないし、彼女の怒りが倍増するだけかもしれない。
「それよりさ、家のことなんだけど。知り合いの不動産の物件でね」
結構良さげなのが――、と言いかけた時、菜佳子が思い出したように言った。
「そうだ、祥之助君。あたし、屋根裏のある家が良いんだけど。それでね、そこに――」
あぁ、やはり、彼女はお義父さんに似たのだ。
「ソファ、だろ?」
そう言うと、菜佳子は「えっ?」と驚いたような声を上げた。こんな声は滅多に聞くことが出来ない。
苦笑して、「ごめん。それ、もう聞いちゃったんだ」と白状すると、菜佳子は、
「お父さんめぇぇぇぇ!!!」
といままでに聞いたことのない、鬼のような声で吠えた。
やはり親には勝てない、ということなのだろうか。悔しそうに歯噛みをする彼女を見て、僕は――、
たまにはそんな反応をする菜佳子も良いものだ、と頬を緩ませた。
鬼一口の屋根裏 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa
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