復讐のあとに(終章)
梶谷と赤城が同じ店で再び飲み直したのは、一月も中頃に入ってからだった。今度は赤城の方が忙しくなり都合がつくのが延びに延びた。コーヨー電子による日本JXの子会社化も一段落し、一連の粉飾決算事件もお茶の間から忘れ去られようとしていた。
「ところで、嫁さんと子どもは元気か?」
赤城はジンライムのグラスを置くと、スマートフォンを取り出した。待ち受け画面では、母親と紋付袴姿の男の子が笑いかけていた。
「昨年の七五三だよ。早いものでもう五歳だ」
赤城は目を細めた。
「最初はあんなに心配してたもんな。結構うまくいくもんじゃないか」
実は赤城とは血はつながっていない。妻の連れ子であり、前夫は生まれる前に突然自殺してしまった。
「本人もうすうすは分かっていると思う。それでも、普通にお父さんって言ってなついてくれてるよ」
妻とは大学から受験時代までの間に付き合っていたが一旦別れ、その後共通の友人と結婚して札幌に残った。前夫の訃報に駆けつけて再会した際に再び恋が芽生え、どちらからともなく再婚の話が持ち上がった。だが、赤城は前夫の忘れ形見が可哀相ではないのか、うまくいかないのではないかと悩み、梶谷に悩みを打ち明けたこともあった。
「辛い思いをさせそうだから、二人の間には子どもを作らないつもりだったんだけど、最近僕も弟や妹か欲しいと言いだすようになった。きょうだいがいる友達が羨ましいんだろうな」
「嫁さんはどうなんだい?」
「息子と同意見だなぁ」
赤城は苦笑いした。
「話変わるけどさ」
ひとしきり笑い終えた後、赤城は梶谷に切り出した。
「何だい?」
「あいつは、石原は・・・本当に死んだのかなぁ」
梶谷はビールをぐいと飲むと、頬杖をついた。梶谷がカムイ銀行の事件を追い続けていたのは赤城も知っている。梶谷が紫月本人と出会うのはもっと後の話だったが、あいつは自殺するような奴じゃないと真っ先に否定したのは赤城だった。
「いつかは話さなきゃと思うんだ。本当の父親のことを」
赤城は肩肘をつきながら、二杯目のジンライムを空けた。
「そうか・・・」
梶谷は残りのビールを飲み干すと、梶谷の方を向いた。
「その画像、俺にも送ってもらっていいか?」
「ああ。でもそんな物どうするんだ?」
怪訝に訪ねる赤城の背中を、梶谷は勢いよく叩いた。勢い余って、赤城は飲んでいたジンライムを噴き出しそうになる。
「そんなことより、もう一人作るんだろ? ほら、しっかり栄養つけなきゃダメだぞ!」
梶谷はカウンターを向いて、スペアリブのガーリックステーキを注文した。
紫月は久々にかなえの自宅を訪ねていた。一DKの簡素な部屋だ。奥の畳部屋では、二歳程の幼児がすやすやと眠っている。紫月は仏壇代わりのカラーボックスに立てられた遺影の前に正座し両手を合わせた。幼児を起こさないように、鈴(りん)は鳴らさない。遺影は、頼りなさげだが温和な笑みを浮かべた眼鏡の若い男性だった。
「わざわざありがとう。ここまでしてくれなくても良かったのに」
かなえはお茶の入ったグラスとお茶菓子をテーブルに置いた。月の兎(ルナ・コニージョ)にいるときのような濃い化粧も肌の露出も無い、清楚なブラウス姿だった。紫月はキッチンへ戻りテーブルにつく。いや、彼女がかなえと名乗ることは、もう二度と無いだろう。娘のことを考えて夜の仕事から足を洗い、今は吉野史子として、淡路町の百名ばかりの会社で事務の仕事をしている。
史子の夫は開明社の経理課で働いていた。当初は営業部だが度重なる暴力を伴うパワハラに耐えかねて異動を願い出たところ、経理に移ることができた。もともと人付き合いが苦手だったので安心した史子だったが、悲劇が襲ったのはその矢先だった。とにかく内部管理がずさんで午前帰りもめずらしくなかったものの、それでも前よりはましだった。しかし年度決算のとき、預金残高が帳簿残高よりも五十万円も足りなかったときは、経理部全体がパニックとなった。社長はまず言い訳を許すような人物ではない。帳簿をいくらひっくり返しても原因がわからないと、誰かが資金を盗んだととうとう職員間の犯人探しが始まった。スケープゴートに選ばれたのは、史子の夫だった。
「泥棒」
「金返せ」
有形無形の陰湿な言葉の暴力が彼を絶えず取り囲み続けた。部長の中村は仲裁するどころか、明らかに彼一人に責任を被せて保身を図ろうとしていた。まっすぐに歩けないほど深酷な鬱に陥った末に、夫は突発的に中央線に身を投げてしまった。
昼の仕事だけでは幼い娘を養えなくなり、かなえとして働き始めた月の兎である日、史子はヤクザの端くれの常連客から偶然紫月の話を聞きつけた。常連客の紹介そのまた二重三重の紹介を経てどうにか紫月に出会ったときは、夫が遺したなけなしの死亡保険金を持参し、仇を取って下さいと懇願した。紫月の当初の反応はつれなかったが、夫の無念を訴え続ける史子に折れた。これだけで足りないなら自身の身体でも払う覚悟の史子だったが、紫月はきっぱり固辞し、代わりに証券会社の口座を開設し、用意した保険金百万円で開明社株式を信用売りしなさいと勧めた。前金は取らず、最終的に史子が空売りによって得た利益の二割を報酬として受け取るに留めた。
中村をハニートラップに陥れたのは、史子自身の発案だった。紫月自身は彼女を中村に引き合わせるのは反対していたが、復讐への意志は固かった。夫を日常的に暴行していた営業部の元上司が森本だと知ったのは、全くの偶然だった。史子自身も森本の暴力で傷を負ったが、両方に対して復讐を果たしたことを思えば、夫の無念に比べれば、大したものではなかった。
「実はね、開明社の株を百株だけ残しているんだ」
史子はグラスのお茶を飲みながら紫月に語った。
「裁判まだ続いてるでしょ。労基署も入ってて、どうなるかわからないし」
百株といえば開明社の一単元、すなわち株主として議決権などを行使するために必要な最低限の株数だ。株主代表訴訟が続いている限り、史子も株主の一人として原告の一人ということになる。別に賠償とか未払残業代がどうのとか言うのではなくて、夫の人生を奪い去った開明社の行く末を自ら見届けることが、愛する夫の供養だと史子は語った。
畳部屋から、鳴き声か聞こえた。娘が目を覚ましてぐずり出したのだ。
「あ、ごめんなさいね」
「いや、こちらこそ長居してごめん。じゃ、俺はこれで」
布団に駆け寄る史子に、紫月は片手を軽く上げてアパートを出た。
史子の部屋を後にして歩いているときに、スマートフォンの着信が鳴った。梶谷からだった。本文は何もない。笑顔の母親と男の子の二人の写真だけがメールに添付されていた。男の子は紋付袴姿で、片手に千歳飴の袋を提げていた。それだけで十分だった。それ以上の言葉は一切要らなかった。
復讐にはおびただしい労力と犠牲を伴う一方で、喪ったものが戻ってくることはない。だからといって、決して無意味でも無価値でもない。史子は愛する人の鎮魂によって生を得ている。俺自身も、奴らの尻尾を掴む前にくたばってたまるか、と言い聞かせて生き抜いてきた。
けれども復讐とは所詮、死者の無念あるいは過去の屈辱といった、負のエネルギーを原動力とするものだ。過去に起因するもので、決して未来にベクトルが向いているわけではない。それがどんなに強大であっても、それだけでは人間は生きていけない。いや、人間であって人間でない魑魅魍魎にすら落ちぶれる危険を孕んでいる。史子にも、俺にも、未来へとつながる「生」がある。たとえ二度と会うことも、肉親として受け入れられなくとも、いつまでも生きていてくれるだけでいい。
紫月はスマートフォンを握りしめ胸に押し当てると、無言で涙した。
粉飾決算は復讐のために 宗田英李 @soutaeiri
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