復讐の系譜(6 冬の嵐)

「何なんだ、これは一体?」

 決算日が近づく中、日本JXの経営企画部には異様な空気が漂い始めていた。彼らは会議机を囲んで、A4用紙の綴りをめくっていた。

 間違いなく円高で資本が吹っ飛ぶ。

 南アフリカの子会社がヤバイ。あそこはZAR(ランド)が当時の三分の一だから紙屑も同然。

 そこはそもそも稼働していないから、価値〇円。間違いなくあぼーん。

 いずれも、ネットの匿名掲示板の投稿を打ち出したものである。もちろん、彼らも手をこまねいていたわけではない。部長の西岡は報告を受けてすぐに、事実無根として広報部を通じ掲示板の運営者に投稿の削除を要求した。だが、建前上運営者は中立の立場であると主張し、さらに下手に削除すれば事実を認めたと解されて逆効果になると言って、腰は重かった。後にインターネットのアクセスログから一部の社員が書き込んでいることが判明したが、彼らはみな一様に否定した。

 そうこうしているうちに、掲示板の投稿を転載するまとめサイトにも拡散され、更には有象無象のSNSユーザーがこれに便乗した。例えばTwitterの「リツイート」やFacebookの「いいね」「シェア」などのように、それが事実か否かにかかわらず、拡散された回数が信頼性に関する一定のバロメーターと解され、より加速度的に広まっていくのだった。事実に反しているのが明白、あるいは相応の根拠があるのであれば、それを打ち消す情報も同様に拡散されるものだが、もとより社内の機密情報である以上、誰も明確に打ち消すことが出来ないでいた。これらの根っこは、徐維維が一人で百以上のアカウントを操作したものであること、さらに言えば、日本JX社員から盗んだIPアドレスを利用したVPNを使用した投稿だった。あとは何も知らない者たちが尻馬に乗るだけだ。

 それが根も葉もないデマではないことは、すぐに分かった。唯一南アフリカにある子会社、JBFIは資本金がランド高当時のまま計上されており、しかも十年近く利益らしい利益をまともに挙げていないことも、経理部を通して明らかとなった。

「そうですねぇ。今後もまともに利益を生めないのなら、減損でほとんどゼロになってしまうんじゃないでしょうか。設備を全部売り払っても足が出てしまうでしょうから」

 西岡の質問に対して、経理部の中尾はあっけらかんとした様子で答えた。更には、急激な円高の進行により、JBFIに限らずグループ全体において莫大な為替差損とが生じると付け加えた。もちろん、外貨建の子会社を円換算することで生じる為替換算調整勘定の大幅なマイナスも、である。

「このままじゃヤバイぞ。一体どうすればいいんだ?」

 西岡自社のイメージや株価の低下を恐れたのは、言うまでもない。しかしそれ以上に恐れたのは、藤田会長の逆鱗に触れることだった。JBFIは過去の経営判断の失敗であり、円高は完全な不可抗力である。だが、藤田が果たしてそれを受け入れるのかどうか。自分の失敗を人のせいにするな、の一言で一蹴されるのは目に見えている。

 西岡は、夜もまともに眠れなくなった。この決算さえ無事にクリアすれば、役員に手が届くはずなのだ。それだけを考えて、今日までひたすら会長のご機嫌を取り続けてきたのに!

 気がつけば決算日の九月三十日が過ぎ、十月の中盤に差し掛かってきた。既にPKP監査法人が今週から期末監査に現場入りしているが、連結に着手するのはまだ先だろう。

「あれ?」

 紙コップのコーヒーを片手に昼休みから戻った西岡は、足許に一枚の紙が落ちているのに気づいた。部屋にはまだ誰も戻っていない。裏返しになっていたが、何かのブログ記事を印刷したもののようだった。拾い上げた西岡は思わず紙コップを落としそうになった。

 タイトルには、「粉飾決算の事例④・連結外し」と書かれていた。西岡は周囲を慌てて見回すと、プリントを手早く机の抽斗に滑らせた。

 ガラス扉越しにその様子を見届けた清掃業者の男の存在に、西岡は気付く由は無かった。男は左脚を引きずりながら、その場を後にした。

 その日の終業時間後、職員が誰もいなくなったのを見計らって西岡はワープロソフトを立ち上げた。過去の合弁契約並びに他社との事例を基に、文書を書き写した。日付は九月三十日。向こうは手書き署名の文化だから、ハンコはおろか印鑑証明も求められることはない。プリンターから出力すると、ボールペンを書面に走らせた。

 翌日、中尾は監査チームの許へ契約書のコピーを持参し、九月三十日付でJXが保有するJBFI株式の全てを、合弁先のバスティアーンス社に売却した旨を報告した。 加えて、新たに次の仕訳を追加したことも告げた。

 (借方)未収入金 173,000,000,000  (貸方)関係会社株式  172,600,000,000

        関係会社株式売却益 400,000,000

 四億円の売却益と言えば莫大に聞こえるかもしれない。しかし、日本JXの財務諸表は百万円単位で記載される。売上高が二兆円を超える同社にあって、その〇.〇二%に過ぎない営業外収益はほとんど誤差の範囲内と言っても良かった。

 西岡は経理部長の高山に根回しするとともに、稟議書を偽造することも忘れていなかった。もちろん、偽の藤田会長の決裁印も捺してある。

 稟議書と英文の契約書を見た監査チームは完全に信じ、最終的に無限定適正意見を表明した。監査報告書には前年度に引き続いて、代表社員の長澤が署名した。


 日本JXの期末監査の峠は既に過ぎ、有価証券報告書のチェック作業に取り掛かっているところである。実際に監査した通りの財務諸表が原稿に掲載されているか、注記情報やセグメント情報など、財務諸表本体以外の情報の内容が整合しているかなど形式的な作業が中心なので、手間はかかるが仕上げ処理的な色合いも大きかった。

 同じ頃、「デイリー・タイヨー」記者の梶谷は、四谷のジャズバーのカウンター席にいた。隣には、ソフィア有限責任監査法人の赤城浪介がいた。二人は高校時代の親友同士だった。

「日本JXの噂は聞いたか」

 梶谷はカルーアミルクをちびりちびり飲みながら赤城に振った。

「何となくはな。でも言われてたようなことは決算短信には無かったな」

 赤城はジンライムのグラスを飲み干した。テーブルに置くと、氷でカランとグラスが鳴る。

「ところで梶谷。南アフリカはどうだった? 仕事とは言え、大変だったな」

「行くだけで二日がかりだよ。おまけに暑かった」

「旅行ならまだしも、仕事と思うと余計に気が滅入るよな」

 赤城は笑って、もう一杯のジンライムをカウンター越しに受け取った。

「そうそう。昨日の記事、読ませてもらったよ。相変わらず読ませるな」

 梶谷は照れ笑いした。JX・バスティアーンス・フューチャー・インベストメント(JBFI)社長のインタビュー記事である。同社は携帯電話の材料となるレアメタルのリサイクルを目的として日本JXと現地電子機器メーカーのバスティアーンス社が合弁で設立した企業であり、環境の負荷も少なく高騰し続けるレアメタルの確保も容易になる携帯電話業界の革命とさえ期待された。しかし、中古携帯電話の回収が思うように進まず、ビジネスモデルは行き詰まった。ネックになったのは、携帯電話に保存されているデータの始末だった。短縮に登録された連絡先だけでなく、メールの履歴もある。それを手放すのを惜しむ者もいれば、プライバシーが外部に漏れるのを嫌う者もいた。携帯電話が高機能化しスマートフォンが主流となることで、その傾向はより顕著となった。そこに原材料価格の下落が追い打ちをかけ、研究開発資金もとうとう底をついてしまい、日本JXは追加出資も応じようとせず、殆ど匙を投げられていた。

 しかしそれでも夢を諦めず、バスティアーンスの下請け加工で何とか食いつなぎ、辛抱強くチャンスを待っている。何より当社のビジネスモデルが確立されれば、貧困国のレアメタル鉱山で労働搾取される子どもたちを救うことができる。彼らがより安く携帯電話を手にすることで、貧困と無知から脱出するチャンスだって出来るはずだ。デイリー・タイヨーの記事の写真で、社長は目を輝かせていた。

「そうそう。これはオフレコで頼むよ。究極の隠し玉だからな」

 梶谷はニヤニヤ笑いながらタブレットを取り出し、画面を赤城に見せた。

「こ、これは? JXは合弁を解消したんじゃなかったのか?」

 JBFIの株主名簿である。現地の証券会社が作成したものだが、九月三十日付の株主の保有割合は、日本JXが五十一%とはっきり記載されていた。赤城の記憶では、南アフリカの子会社も無くなったし、事前に言われていたほどの為替換算調整勘定のマイナスも生じていなかったはずである。あれは事実だったのか?

「ところで赤城、繁忙期はもう過ぎたのか?」

 梶谷は唐突に話題を変えた。

「おっ、そうそう忘れてた」

 赤城は鞄から名刺入れを取り出すと、一枚取り出して梶谷に渡した。ソフィア有限責任監査法人に変わりはないが、所属部署は「トータル・ビジネス・サポート部」と書かれている。今年の七月から、従来の監査三部から異動したと赤城は説明した。

「監査とは違う仕事なのかい?」

「平たく言って便利屋ってとこかな。M&Aとか事業再生とか、色々特殊な仕事をしてる」

 会計監査は外部に向けて企業の財務情報の信頼性を担保するためのプロセスであり、企業経営の健全性を維持するために欠かせない社会インフラである。決して被監査会社と敵対関係にあるわけではない。そうは言っても、元々は煙たられがちな仕事だ。厳格に業務をこなすことで、相手方の売上が伸びたり経費が減ったりするわけではない。監査も十分経験を積んだし、もっと会社の役に立てて喜んでもらえる仕事がしたいという思いから、異動の募集に応募したのだった。

 現在、赤城が担当しているのは静岡にある企業の再生案件だと語った。二人の技術者が設立したベンチャー企業だったが、資金繰りに行き詰まった挙句片方が喧嘩別れも同然に会社をやめてしまった。しかもその一人が連帯保証人だったことで、メインバンクはリスケにも難色を示している。

「来週に五百万円の手形が落ちる予定だが、そんな金すら残ってない。みんなお手上げだよ」

「一体どんな会社なんだい?」

 電子回路のウェハーを加工している会社だが、携帯電話の記憶媒体について面白い技術を開発して特許を出願中である。これが実用化されれば、リサイクル率が飛躍的に向上するはずだ。

「そうだ!」

 赤城を遮るように、梶谷は思わず手をパンと叩いて声を上げた。周囲の客が一斉に梶谷に反応する。

「悪い、続きはまた今度な」

 梶谷はカウンターに五千円札を置くと、足早に店を出て行った。

 梶谷は帰宅すると、すぐに携帯電話で紫月に電話を入れた。電話で話を聞いた紫月は翌日、香港から移動した資金のうち五百万円をダミー会社の口座にプールさせた。もちろん、間に複数の口座を介することで、資金源を辿られるのを防いでいる。翌週の手形期日ギリギリに、赤城から聞いた会社の口座に五百万円が振り込まれた。一日遅れて、ダミー会社名義の貸出人で借用書が会社に郵送された。


 有価証券報告書が公開されるのは決算日のおよそ三ヶ月後、株主総会の終了後である。有価証券報告書の末尾には会計監査人による監査報告書が添付され、監査法人の社員が自署した書面は財務局にも提出される。梶谷の「デイリー・タイヨー」はその翌日を見計らってJBFIの株主名簿とともに日本JXの連結外しを暴露した。日本JXの不幸は更に続いた。紫月たちも知りえなかった全くの偶然だが、カリスマで知られた会長・藤田剛が膵臓ガンで急逝したのだ。

 紫月の依頼人であるコーヨー電子のルドルフ・フランセンは当初の狙い通り、日本JX救済を謳いながら、底値を見計らって公開買い付けを実施した。株価は粉飾決算が暴露される前の半額にまで暴落していた。

 紫月も国内の蓄えに加え七千万円以上もの軍資金を注ぎ込んで、信用取引で投資を回収するのはいつも通りだった。だが、今回は少し手法を変えた。普段通りの空売りに投入したのは、四割に留めた。そしてコーヨー電子の公開買い付けのタイミングに合わせて一旦信用取引を精算し、今度は逆に通常の買い取引すなわち信用買いに残りの六割を充てた。

 年が明けてコーヨー電子が取得した日本JX株式が四分の一に達そうとしたところで、新たなニュースが駆け巡った。JBFIが無名な日本の零細企業と技術提携することで、『ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト』がようやく実を結んだと大々的に発表した。前年に静岡市で行われた社会実験では既に一定の手応えを感じており、南アフリカ国内の主要都市で段階的に拡大していく方針とのことである。

 その技術とは、携帯電話の記憶媒体を取り外し可能なデバイスにするというものであった。小売店で店員自らデバイスを旧機体から新機体へ移し換えることでデータの引き継ぎを容易にするとともに、旧機体をその場で引き取りリサイクルに回すことが可能になる。旧機体がこれに対応していなくても、専用の端末を介してデータを移送することもできる。スマートフォンでの実用化はまだ課題が多いが、克服するのは時間の問題だろう。これとJBFIの既存リサイクル技術を活用すれば、レアメタルをはじめとする材料の再利用は飛躍的に進むことになる。

 JBFIの連結外しで市場の信用を失い暴落した日本JX株式だったが、皮肉にもJBFIが連結子会社であり続けたことで再び大きく上昇した。それは円高・ランド安を補って余りあるもので、コーヨー電子が支配権を獲得するのが確実となった時点で、暴落前の株価を十%ほど超えていた。紫月はこの信用買いによって、利鞘を一千万ほど増やすのに成功した。最終的に紫月が手にしたのは、三億円近くに及んだ。

 契約の条件として個人で身銭を切ったフランセンは悲願のインド進出の足がかりを得たかと思えば、事情が複雑だった。彼はより大幅な日本JX株価の下落を見込みすぎて、決済時期を遅くにし過ぎていた。期日の時点で当初の価格を既に上回っていたため、逆に損失となった。個人財産であるため経営責任を問われることはないが、損失補填を合わせて三十億円もの自身の財産を失った。

 また、藤田剛が生前所有していた発行済総数の三分の一に及ぶ日本JX株式は、遺言によってニューヨークに住む一人息子が相続した。息子はバイオリン奏者として第一線で活動しており経営に関わる気は毛頭なかったが、いざという時にはコーヨー電子の決議案を否決したり、同社の推す取締役を解任させたりすることさえ出来る勢力である。本人にその気がなくても、社内の反対派が彼を担いで来ることもあるやも知れない。コーヨー電子による日本JXの支配は決して磐石と言えなかった。

 市場の評価は、コーヨー電子のインド進出を概ね好意的に評価していた。フランセンの今後の出世の道は、なお開かれているはずだろう。それに相応しい犠牲だったかどうかを決めるのは、彼自身しかいなかった。


 結果的に「焼け太り」となった日本JXとは対照的に、粉飾決算を見過ごしたPKP有限責任監査法人は一人負けと言っても過言ではなかった。後に検事出身の弁護士など外部専門家で構成された調査委員会によって西岡経営企画部長の偽造した英文契約書が文法的に余りに間違いだらけだったことも判明し、文字面だけを見て信頼したのは注意義務違反と指摘した。社会的損失の罪は重く、日本JX株主はPKPそして長澤ら署名した社員たちへの損害賠償請求を進めようとしていた。

 監査報告書に署名するのは、会社の規模に応じて二人から四人が共同で行うのが通常である。実際に日本JXに署名したのは、長澤以外に二人いた。しかし、署名した社員が負うのは無限連帯責任である。損害賠償をそれぞれ三等分で済む話ではない。

 ただでさえ全財産で失う危機にあった長澤に、さらなる追い討ちが待ち構えていた。

「警察が動き出している」

 毎回異なるアドレスで、長澤宛に全く同じ文面のメールが連日のように送信されてきた。事実なら、警視庁ではないのは明らかだ。確かに事情聴取は任意で受けはしたが、逮捕されたのは実行犯の西岡経営企画部長のみである。長澤の責任は、あくまで過失による不正の看過であり、それ自体が即座に刑事責任に直結することはない。まして、彼自身が積極的に関与したわけでも、故意に隠蔽したわけでもない。今回の事件に関しては、それ以上追及されるはずはなかった。

 だとすれば警察が動く理由は、長澤にとって一つしかなかった。

 長澤は夜道の中、レクサスLS六〇〇hを成田空港に向けて走らせていた。パートナー昇進と引き換えに北海道へ飛ばされたときは、もうここが終焉の地と半ば諦めていた。ひょんなことから出会ったあの人(・・・)がきっかけで、ようやく掴み取った中央への転進、そして本部理事への昇進。もう二、三年もすれば、理事長か日本公認会計士協会会長も、手が届くやも知れなかったのに。自分には、あの人(・・・)が着いているのだから。

 だが、「あの人」は長澤が何度こちらからアクションを起こしても、全く音沙汰が無かった。痺れを切らした長澤は、止むに止まれず腹を決めた。既に長年かけて、定年退職後のためにマレーシアに少しずつ蓄えを移動させていた。口座には三千万以上あるし、高級コンドミニアムもある。前倒しにはなったが、当面は何とかやり過ごせるだろう。

「お出かけですか、長澤所長(・・)」

 カーオーディオから流れていたFMラジオのジャズが突然途切れたかと思うと、男の声が真っ暗な車内に響いた。

「成田から釧路行きの便は出てませんよ。羽田へお回りください」

「誰だお前は!」

 ハンドルを握りながら、長澤は一人叫んだ。突然レクサスのエンジンが停まりゆっくりと減速したと思うと、電源が全て落ちた。どんなにセルボタンを押そうが、アクセルを踏もうが、ぴくりとも動かない。

 長澤は車を降りると、周囲を見回した。空港へ向かう高速道路は、この時間誰も走っていない。静寂に包まれた道路に、一人佇む。

 コツコツと靴音を立てて、こちらに歩み寄ってくる人影がいた。乾いた風に、コートとマフラーがなびく。道路の照明にぼんやりと照らされて、近づくにつれて上半身から顔が徐々に鮮明に見えてきた。

「お前は・・・」

「本部理事へのご栄転、おめでとうございます」

 長澤は相手の顔に気づいた瞬間、腰が抜けそうになった。頭上には凍結注意の電光掲示が赤く光っているが、長澤の肌着は汗に覆われた。

「ゆくゆくは理事長も夢じゃなかったことだろう。日本JXでヘマさえ打たなければな!」

 紫月は日本JXの粉飾決算自体が、自ら仕組んだものであることを長澤に明かした。ワンマン経営者である藤田剛への恐怖心が隠蔽工作の誘因になることを見抜いた上で、JBFIの含み損を会社に焚きつけ連結外しを仕向けたこと、JBFIが連結子会社である証拠をつかんだ上で、監査報告が発表された直後に暴露したこと。全てが紫月のシナリオ通りだったのだ。

 日本JX株の投機でたっぷり過ぎるほど儲けた。が、それが本当の目的じゃない。五年前の、全てを奪ったあの復讐! 復讐のために、俺は粉飾決算を仕掛けたのだ!

 金縛りに遭ったように足のすくんだ長澤に、紫月はもう一歩歩み寄った。

「次は貴様の番だ。答えてもらおう」

 もう一人の仇である、副頭取の林だ。カムイ銀行を吸収合併したポテト銀行は道東銀行と改称し,一度頭取となった林は道東銀行の副頭取に改めて就任したが、三年前に突然姿を消した。金融庁に出向しているとの風の噂を掴みはしたが、そこから先の消息はぷっつり途絶えていた。

 いや、もう一人いる。俺を殺そうとした、真犯人が。長澤には東京での出世、経営方針を巡り森脇と対立していた林は権力の奪取という動機がそれぞれある。実際、二人はそれぞれの願望を果たした。しかし、二人がそこまで緊密な関係だった形跡はない。二人を引き合わせて俺を殺させた何者かが、必ずいる。繰延税金資産を否認されたカムイ銀行は債務超過に陥り金融機関として不適格の烙印を押され、破綻か身売りか選択を迫られるた結果、後者を選んだ。その後、地方金融機関の再編が大々的に進められた。それが真犯人の目的なのは、間違いなかった。

「さあ、答えろ!」

「た・・・助けてくれ。何も知らないんだ、本当だ!」

 蚊の鳴くような声で答える長澤に、紫月はつかつかと詰め寄った。二人の距離は、五十センチにまで迫っていた。長澤の胸倉に手を伸ばそうとしたときに、肉食獣のような低い唸り声に紫月は気づいた。それは急速に大きくなり、こちらへと近づいてきた。紫月は反射的に道路の端へと跳びずさった。ゴツッと鈍い音が響いたと思うと咆哮はそのまま彼方へと走り去った。紫月は起き上がると長澤に駆け寄り、首筋に手を当て脈を調べた。長澤は頭を中心に赤黒い地図を描き、両目を開いたまま大の字で空を仰いでいた。

「くそっ!」

 紫月は舌打ちして拳で路面を叩いた。全く減速せずに直進して来たし、ライトもわざと消していた。偶然の交通事故でないのは一目瞭然だった。咄嗟のことだったとは言え何よりも、長澤を庇いそびれたことは、悔やんでも悔やみきれなかった。林の行方も、黒幕の正体も、つかみかけた紫月の手からするりと逃げ去ってしまった。

 急がねば。警察かJHのパトロールがやって来るのは時間の問題だ。紫月は手袋を着け、長澤のスーツをまさぐった。内ポケットの財布には目ぼしいものはなかった。つづいてレクサスの後部ドアとトランクを開け、荷物を調べる。旅行用スーツケースにあったのは、着替えと現金以外ぐらいである。セカンドバッグの中に、細かい文字でびっしりとメモの書かれた手帳を見つけた。紫月はパラパラと手帳をめくると自身のポケットにしまい込み、足早に作業用階段を通り地上へと降りた。

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