復讐の系譜(5 監査人の死)
紫月は瀬戸内海に浮かぶ島で生まれ育ったが高校を卒業後は北海道の大学に進学し、卒業後も札幌に残り公認会計士試験の勉強を続けた。合格すると、大手監査法人の一角だったPKP監査法人の札幌事務所に就職した。現在は大手監査法人はみな「有限責任」の冠を付しているが、これは法制度の整備によって社員の責任範囲が限定されるようになったのを踏まえてである。
社員と言うと一般的には従業員という意味合いだが、これは会社法に沿った表現であり、監査法人では出資者であり経営に携わる役員といった存在である。もともと監査法人は会社法上は「合資会社」に準じた組織として位置付けられている。合資会社の「社員」には、会社が負った責任に対しては無制限に負担する「無限責任社員」と、自身の出資の範囲でのみ負担するに留まる「有限責任社員」が存在するが、原則として監査法人の社員は全員が連帯して無限責任を負う。
対して、財務状態など一定の法的要件を満たした「有限責任監査法人」であれば責任は緩和され、社員の中でも幹部クラスの「指定社員」を除けば自身の出資額に限定される。これは、大手監査法人の組織が巨大化したことと、近年の不正会計事件を受けて監査人の責任が過重となるのを避ける配慮を受けたものである。
道内の津々浦々、紫月は絶えず駆け回った。いくら経済の大部分が札幌に集中しているとは言っても、札幌の企業だけを見て回れば良いわけではない。上場企業でなくても会社上では一定規模以上の会社が、ゴルフ場のように株主(会員)が一定数ある会社も金商法で、それぞれ監査の対象となる。もちろん、札幌から離れた他の都市あるいは町村にも上場企業はある。
それだけではない。金融機関は規模に関わらず、会計監査が義務付けられている。どんな地方都市でも地銀、でなければ信用金庫あるいは信用組合が必ず存在する。メガバンクや大手の証券会社・保険会社であれば、東京にある金融機関に特化した部署(金融部)がこれを担うが、PKP監査法人では所轄の地方事務所が主体となり、必要に応じて本部の金融部が関与する方式だった。
紫月が釧路に本社を構える第二地銀・カムイ銀行にメインとして関わるようになって、五年が経っていた。当時の全国の地銀と同様、カムイ銀行もまたバブル後に膨らんだ不良債権に苦しんでいた。銀行の本来の役割は、お金という血液を地域全体に循環させ経済活動を維持するための「心臓」である。だが金融監督庁、のちの金融庁が地銀に求めたのは心臓の役割よりも、心臓の壊死した部位を切り取る「バティスタ手術」だった。金融機関の死とはすなわち信用を完全に失うことである。そのためには、過剰な不良債権を果敢に切り捨てて健康体を確保しなければならない。だが、健康な部位とそうでない部位、両者の境界線をどのように定めるのか。必要以上に切り過ぎれば、心臓としての役割を果たし得なくなるのではないか。
「三年前に比べれば、手数料収入は着実に増えています。危機は脱しつつあります」
札幌事務所の会議室で、紫月は代表社員(シニアパートナー)の長澤富男に経過を報告した。翌月から始まる四半期レビューの打ち合わせである。カムイ銀行は三月決算であるため、第三四半期すなわち十二月時点の四半期決算である。
「そうは言っても、自己資本比率がまだまだ厳しいねぇ」
長澤は眼鏡を直しながら、コピーに目を通した。紫月が提示したのは、カムイ銀行より送られてきた十一月付の試算表だった。金融庁が全国の金融機関に指示した通り、カムイ銀行も不良債権の大幅な償却という荒療治に取り組んでいた。ただでさえ収益力が下がっていたところに二期連続して十億円以上もの特別損失を計上し、これがさらにもう二期続けば債務超過にもなりかねなかった。
PKP監査法人札幌事務所でカムイ銀行について最も熟知しているのは紫月といっても過言ではなかった。担当クライアントの定期的なローテーションがあるため、上位の担当者から順番に外れていく。監査報告書に署名する社員は基本的に監査現場に張り付くことはなく、現場担当者から重要な要点の報告を受けた上で判断を下すのが通常なので、特定の会社について細部まで熟知しているケースは稀である。
長澤は札幌事務所の所長であるが、北海道出身でないのは紫月と同じでも、大学も試験合格後に勤めていたのも東京であり、紫月に比べ北海道への愛着は殆ど無かった。会計士としてのキャリアは申し分無かったが、本社のポストが空いていなかった関係で、社員に昇進するにあたって何の地縁もない札幌へ半ば飛ばされるような形で異動となったのだ。寒いのは苦手だ、とぼやくのを普段から憚らなかった。
「ところで、奥さんの調子はどうだい?」
「ありがとうございます。先月までは悪阻がひどかったのですが、最近はだいぶ落ち着きました」
四半期レビューは年度決算の監査に対して、省力化された手続を採るのが原則である。例えば現金などの現物の実査や債務者への確認状の発送は基本的に実施せず、財務数値の分析や会社担当者へのヒアリング、稟議書や役員会議事録などの閲覧が中心となる。いや、今回に限って言えば、四半期だろうが期末だろうが紫月が直面していた課題も手続も、殆ど変わることは無かった。「繰延税金資産」である。
繰延税金資産とは簡単に言えば、将来納税する税金が浮くときに、当該金額を「税金の前払」として資産に計上するものである。逆の「繰延税金負債」もあるが、日本の企業会計においては繰延税金資産の方が圧倒的に多い。なぜこのような「資産」が生じるのかというと、法人税法などにおける課税所得の計算方法と、純然たる会計理論に基づく企業会計との不一致に起因する。
例えば、退職給付引当金である。退職給付会計は将来従業員が退職したときに支給する退職金のうち、一部を当期に発生したものとして前倒しして計上する手法である。実際に退職金の支払が無くても、労働の対価の後払いに相当するとして費用に上げ同額を引当金として積み立てなければならないというのが、会計理論の立場である。そして従業員が退職し退職金を支払ったときは、過去から積み立てた部分については退職給付引当金を取り崩す形で会計処理を行うため、支給した全額がその期の費用となるわけではない。
これに対し現行の税法上は、実際に退職金を支払うまで損金として認められない。実務上は法人税の申告書上で両者の差異を調整し課税所得を求めるのだが、退職給付引当金を計上し退職金を支払い消滅するまでの間、財務諸表と課税所得の計算との間の差異が生じ続けることになる。具体的には税率を四〇%として退職給付費用を一百万円計上したとき、これに税率を乗じた四十万円は発生した法人税等のうち、退職金を支払った時点における法人税等の「前払い」とする。なぜなら支払った時点では会計上の経費よりも税務上の損金が一百万円多くなるので、四十万円法人税等が安くなるからである。
ただし、これは毎期法人税等が必ず発生することが前提条件である。差異が解消される年度が最終赤字で税金そのものがかからないのなら、前払いという概念そのものが成り立たない。つまり、繰延税金資産が資産としての価値を有しないことを意味する。それゆえ、将来の収益性予測が極めて重大になる。だが、所詮は予測に過ぎない。その予測によって、資産価値があるかないかを判断せざるを得ないのが現実だった。
紫月は繰延税金資産の資産性を見極めるため、銀行の作成した十年間の利益計画を検証するとともに、審査室長や融資担当者にくまなくヒアリングを重ねた。カムイ銀行は青色吐息だった。だが、そんな中にあっても社内のコストカットと手数料収入の確保を可能な限り進めた。頭取の森脇勉の懸命な経営改革である。その甲斐あって、カムイ銀行の収益力は徐々に回復し、前年度には最終赤字でこそあるものの、三期ぶりに営業黒字を達成した。このまま行けば、今期には最終黒字となるだろう。それがカムイ銀行の見立てであり、紫月の中ではその通りだとの結論に達した。
全額の計上が認められるのであれば、繰延税金資産の額は四百億円。対して純資産は三五〇億円。カムイ銀行は、ギリギリ債務超過を免れるはずだ。
「地銀は地域経済の中核。お金を貸さなきゃ経済は回らないのですから、しんどい時こそ地銀はバンバン融資すべきなんですよ。でないと、地域は餓死します。地銀だけきれいなまま生き残ったって、意味がないんですよ」
森脇頭取は最終日に設けられた銀行とPKPの監査チームとの懇親会で、熱燗の猪口を呷りながら紫月に熱弁を奮った。銀行マンらしからぬ骨っぽさの持ち主であったが、生家は漁師だった。理屈や原理原則よりも、地域経済のために何が必要なのか、地銀が何をなすべきかを皮膚感覚で体現していると言っても過言ではなかった。紫月も森脇の理念に深く共感し、まさにそうあるべきと考えていた。
「頭取、地域を元気にするためにも、まず我々地銀が健康体であればこそです」
やんわりと反論したのは、副頭取の林幸徳である。森脇と違い、こちらは典型的なエリートの家系で、世間一般の銀行のイメージに近い。
「まあまあ、ここは双方とも仕事から離れて、楽しく行こうではありませんか」
最終日だけ監査チームに合流した長澤だ。
ちなみに会計監査は当事者同士の利害関係に極めてシビアな職種だ。監査人が自らの立場を捨て被監査会社の利益のために動くのは問題外として、経済的・身分的にも一定の利害関係を持つことが禁じられている。監査人が独立性を捨てる誘引を排除するだけでなく、外部から独立性に対する疑念を抱かせないためである。かと言って、両者がドライな関係にあるかと言うと、必ずしもそうではない。監査もある意味コミュニケーションである以上、円滑に進めるには信頼関係も欠かせない。ゆえに、監査人と被監査会社双方が懇親会を開くのは決して珍しくはないし、必ずしも独立性を損なうものではない。もっとも、費用は折半するのが慣習となっている。
「先生、滅多にない機会ですし、よろしかったらお店を変えませんか?」
宴が終わり帰ろうとした紫月を呼び止めたのは、林だった。その横には、長澤もいた。三人はスナックで小一時間ほどウィスキーの水割りを傾けた後、長澤の提案で銀行が保有するクルーザーに誘い、タクシーを釧路港へと向けた。
翌朝、カムイ銀行の公認会計士が水死したと地元の新聞が報じた。林は
「自分が目を離した僅かな間に居なくなっていた」
と、長澤は
「彼は監査判断で悩んだ末に自殺したのだろう」
と、新聞やテレビにそれぞれ答えていた。
紫月なき後、繰延税金資産の計上は一切認められないとPKP監査法人は急に態度を硬化させた。それはカムイ銀行の債務超過すなわち地域金融機関としての死を意味する。森脇頭取は頑強に抵抗したが、不適正意見も辞さないとPKPの姿勢は強硬であった。何より、担当会計士が謎の自殺を遂げたという話題性もあって、あたかも粉飾決算をしているカムイ銀行とそれを追及するPKP監査法人という短絡的な構図が、世間一般に定着してしまった。すっかり悪役イメージを植え付けられてしまった森脇はとうとう折れ、繰延税金資産を全額取り崩した第三四半期決算の開示と同時に、林を後任とし頭取を辞した。
話はまだ続きがある。カムイ銀行の一連の騒動は、道内だけでなく全国的にも大きく注目された。林は新頭取に就任して早々、他行との資本提携を表明した。提携の相手となったのは、帯広
が拠点の同じ第二地銀・ポテト銀行であり、実質的な吸収合併だった。債務超過で自力では継続不能である以上、それはやむを得ない判断ではある。だが、この合併が呼び水となり、全国の地銀や信用金庫といった地方の金融機関のM&Aが一気に加速した。財務状態の厳しい金融機関を救済合併することで地域金融機関の健全化を高めるというのが、名目である。
真冬の海に投げ出されれば、普通なら生還はまず不可能だ。もがいているうちに海水を飲み込んでしまい、重みで沈んでしまう。そうでなくても、低体温症で身体はまともに機能しなくなる。まして薬を盛られ身体の自由が効かない状態だった。長澤らのクルーザーのほんの数十メートル側に灯りを全て消した漁船がいたことは、彼らは気付く余地もなかった。漁船は錨を下ろし、港に人気が完全に無くなるのを待っていた。
唐突に漁船が揺れた。何かに引っ張られるような感触で、波の揺れ方とは明らかに異なっていた。錨を結んでいるワイヤーが強く引っ張られているのに気付いてワイヤーを引き上げた乗組員の一人は、その不自然な重さと引っ張られる原因を知って肝を潰しそうになった。見知らぬ人間が、ワイヤーに絡みついていたのである。しかも、スーツ姿である。只事でないのは、誰の目にも明らかだ。息はしていないが、まだ死んではなさそうだ。
別の一人が、両手を握りしめて男の背中に叩き降ろした。一発だけでは反応はなかったが、さらに二度、三度と繰り返す。男はとうとう海水を吐き出したかと思うと、そのまま寝息を立てて動かなくなった。
「なあ、どうするよ? このまま置いとく訳にも行くめぇ?」
「せっかく命拾いしたのを殺すってのか?」
乗組員たちは不幸な招かれざる客を囲んで、うろたえ続けた。彼らは今しがた、ロシアの領海に侵入して還ってきたところである。漁船には、密漁した毛ガニを満載していた。警察沙汰になるのは有難迷惑以外の何物でもない。かと言って、瀕死の人間を見殺しに出来るほど彼らは人間としての良心を捨てることは出来なかった。あるいは、下手に死体が見つかれば却って自分たちが容疑者となってしまうやも知れなかった。
侃侃諤諤した末に、一旦この男を自分たちで介抱することに決め、密漁船は港へと向かった。
紫月が意識を取り戻したのは、それから二日後だった。床の間にニポポ人形やら鷹の剥製やらが飾られていた。田舎によくある、昔ながらの日本家屋の六畳間の真ん中に、布団が敷かれていた。
「おう、やっと起きなすったか。調子はどうだべ?」
紫月に気づいたのか、程なくして六十半ばを過ぎた老人がやってきた。身体は痩せているが引き締まっており、節くれだった手には血管が太く浮き出ていた。浅黒い肌は、明らかに潮焼けによるものだ。
「すみません。いろいろご迷惑をおかけしました」
いきなり見知らぬ場所で見知らぬ相手に遭遇し、紫月は全く状況がつかめず、困惑したままぎこちなく応えた。田澤と名乗った老人は、自分の漁船のワイヤーに紫月が偶然引っかかっていた経緯を、包み隠さず紫月に話した。
「単刀直入に聞こう。こいつは、おめぇさんのことだな?」
田澤は片手に持っていた新聞紙を紫月に見せた。昨日の朝刊だった。紫月の反応は、田澤の予想通りだった。しかしそれ以上に紫月を戦慄させたのは、
「彼は監査判断で悩んだ末に自殺したのだろう」
という長澤のコメントだった。彼の言葉を受けてか、紫月の「水死」は完全に自殺として扱われている。ふざけるな! あれが自殺するほど悩む代物なのか? カムイ銀行の業績回復は一目瞭然だった。死人に口なしとばかりに、何を雄弁に語っているのか。しかも、死体の捜索もまともに行われていないのにも関わらず、だ。
「ところで、これからどうするつもりだい?」
「当然ですよ。今すぐ警察に行って何もかも説明します。殺されかけたんですよ!」
紫月は布団で半身を起こしたまま、顔を紅潮させた。
「いや、やめた方がいい」
「あなた方には絶対に迷惑をおかけしません。お礼もきちんとします」
密漁者である以上、彼らが嫌がるのはわかっている。しかし、他にどうすればいいというのか? 助けた相手が誰かさえ言わなければ、密漁云々を警察に咎められることはないだろう。
「もし全然無関係だったら、そのまま帰すつもりだった。お代も要らねえ。しかし・・・」
田澤の密漁船で働く者たちは、大なり小なり曰く付きの者ばかりであった。債権者より人身御供として送られて来た者もいれば、逆に諸般の事情で身を潜めるために自らやって来る者もいる。田澤は彼らを大勢見てきたがゆえに、紫月を見て感じるものがあった。
「おめぇさんを殺そうとした奴は、間違いなくまた殺そうとするぞ。諦めずに何度でもやって来る」
紫月は固唾をのんだ。たとえ長澤と林が逮捕されても、まだ真犯人がいることを、この老人は見抜いていたに違いない。
「おめぇさん、独り身か?」
「いいえ。妻と腹の中の子どもが」
「わしが殺す側なら、必ずそっちを狙ってくるな。誰だって、そうするだろう」
死の淵から這い上がったはずが、再び深海の奥底に引き戻されるようだった。愛する妻からも永遠に別れ、生まれてくる子どもの顔を見ることもなく、死んだ人間として生きなければならない。ましてや、公認会計士として今まで通り働くことも出来ない。一体、これからどうすれば良いのか。
「悪いことは言わねぇ。ほとぼりが覚めるまで、身を隠した方がええ。良かったら、うちで働かねぇか?」
しばらくの沈黙の後、紫月は力なく頷いた。
「辛かろうが、おめぇさんのためにも家族のためにも、今は辛抱しな。溜めた分だけ、熨斗着けて返してやればええじゃないか」
田澤はうなだれた紫月の肩をポンポンと叩いた。紫月の布団には、一滴また一滴と雫が垂れた。
漁船の上は過酷を極めた。木の葉のように揺れる船の上で、重いカニ籠と甲板を越えて襲いかかる大波と格闘しなければならない。しかも密漁となると、沿岸警備艇に見つかれば容赦なく銃弾が飛んでくる。どんなに屈強な男でも、心身を壊したり海に転落したりする者は後を絶たなかった。紫月は島育ちで船酔いにある程度耐性があったことが幸いした。しかしそれでも、絶望しそうになることもあった。
「熨斗着けて、返してやればいいじゃないか」
折れそうになる度に自身に言い聞かせて、紫月は耐え続けた。
紫月の転機が訪れたのは、それから一年近く経ったときだった。突然、田澤は紫月を一人の男と引き合わせた。彼の名刺に書かれた社名は普通の建設コンサルティング会社だが、全国に最大級の組織網を持つ暴力団の企業舎弟と田澤は説明した。こちらの親分とは古い仲だと、田澤は付け加えた。
男の会社の系列にあるリース会社は、ある土建業者に建機を貸し付けた。契約自体は至って合法的だったが、土建業者は業績不振を理由にいつまでも代金を支払わないどころか、建機を売却していたことが分かった。本来なら土建業者を吊るし上げて金を搾り取りたいところだが、暴対法による彼らへの締めつけは厳しくなる一方だから、下手に手荒な真似はできない。まして相手の土建業者はヤクザとは無関係であり、それだけでもこちらの分が悪い。かといって、このまま債権を諦めて泣き寝入りするわけにはいかないし、何より自身のメンツに関わる。悩んだ末に紫月の噂を聞いて、相談にやって来たのだった。
さすがに、自分か生きているうちにヤクザと接点を持つことになるとは、夢にも思っていなかった。下手を打てば、命どころでは済まされないかも知れない。悩んだが命の恩人の手前断るわけにもいかず、紫月は乗った。
紫月が考えた案は、事業再生コンサルタントと名乗り紫月自ら土建業者に乗り込むことだった。公認会計士と名乗るだけで、相手には十分インパクトがあった。土建業者はずさんな会社経営の結果、資金繰りが逼迫し自転車操業に陥っていた。掛代金の支払から借入金の返済全てが綱渡りで、引っ張ってこれるものなら、なりふり構わず資金に充てた。まさに紫月の読み通りだった。あとは、ヤクザ得意の硬軟織りまぜた交渉術で、社長に事業再生を受け入れさせた。
紫月がまず着手したのは、土建業者の財務デューデリジェンスだった。デューデリジェンス、通称デューデリないしDDとは、事業再生やM&Aなどにあたって、対象となる会社の現状を調べく手続で、簡単に言えば会社そのものの棚卸である。上場企業でない限り、財務諸表は法人税法に準拠して作成されているため、損金計上できない資産の含み損や減価償却の未計上が珍しくない。逆に不動産などについては時価評価の結果、含み益が生じることもある。
土建業者の顧問税理士が作成した財務諸表における同社の純資産は三千万円ほどあったが、紫月の財務デューデリジェンスによる純資産は一千五百万円のマイナス、すなわち債務超過となった。もちろん、紫月のデューデリジェンスは会計基準に沿ったものであり何のごまかしも無いため、表に出ても何ら問題はない。だが、依頼主にとってはそれだけで十分だった。あとは建設コンサルティング会社が社長夫婦の持つ会社の全株を二束三文(但し本来の価値はゼロ円である)で買い叩くとともに、六千万円を超える社長から会社への貸付金の債権放棄も署名させた。
紫月が着目したのは本社土地だった。建設会社でありながら、歓楽街の外れにある。「企業舎弟」となったコンサルティング会社は社屋をすべて取り壊して更地にすると、飲食店向けの商業ビルを建てた。あとは株式を外部に売り払えば、ビルを底地ともども売ったのと同じような形となるし、SPCの形態を取れば家賃収入も持株に応じて得られる。
紫月の目論見は大きく当たり、債権を回収するどころか多大な不動産収入をもたらした。裏社会において紫月の活躍の場が出来、紫月自身も国内外でのネットワークを築くに至った。しかし、彼が裏で暗躍すればするほど、かつての表の世界は紫月から遠ざかることを意味した。
紫月は、既に死亡した人間なのだ。
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