第6話 その感情の名は

 首筋に冷たいものを感じて、瞳を開く。

 私が眠っていると思っていたのだろう。

 私に覆いかぶさるようにして首筋に純銀の刃を突きつけるレオンは、レオン自身が刃物を突き付けられたようにはっとした顔をしていた。


 いつまで経っても、肌を切り裂く痛みはこない。


「……殺さないの?」


 銀製のナイフは、深く刺せばたちまち吸血鬼の命を奪う。

 吸血鬼にとって、銀は毒なのだ。


 恐怖はなかった。死はさほど怖くない。

 死ねばただ同胞たちと同じように灰になるだけだ。

 ひとつ惜しく思うことがあるならば、年に一回の楽しみ――レオンに会うことが、できなくなるということだけだった。


「っ……なんでそんなに平然としてるんだ」

「あなたはどうしてそんなに憔悴してるの。自分がしていることなのに」


 レオンの顔がゆがむ。その手からナイフが滑り落ち、音を立てて床に転がった。


 そして彼は語り始めた。私の知らない、空白の時間を。


「子供の頃、この屋敷で1年過ごした後……

 俺は通りがかった馬車の荷台に忍び込んで、元いた街よりももっと大きな街に行った」


 私との約束を果たすためにも、元の虐待が横行する孤児院に戻るわけにはいかなかったのだと、レオンは続けた。

 ゆく当てもないまま街をさまよっていたレオンは、ある日教会の神父に拾われたのだという。


「神父様は俺にたくさんのことを教えてくれた。

 信仰心を持って生きるとはどういうことなのか。

 隣人への愛を胸に、善く生きるにはどうすればいいのか。

 科学が発展していく中で、人間はどう生きて行くべきか。

 そして……闇に隠れて生きる、吸血鬼たちを今後どうすればいいのか」


「……人間達の間で、私達は空想上の生き物とされてるんじゃなかったの?」

「普通に暮らす人たちにとってはそうだ。

 でも、教会は違う。一部の人間しか知らないが、ずっと裏で吸血鬼たちを殺してきた。

 ……孤児を拾って、ハンターに仕立て上げ、吸血鬼が棲む場所に刺客を放っていたんだ」


 吸血鬼は怪物であり、この世にあってはならない生き物だと、優しい神父は繰り返しレオンに教えたそうだ。

 繰り返し、繰り返し。

 しかし、『殺すべき』という言葉は使わなかった。ただ慈悲深い笑みを湛えて、『銀のナイフで救う必要がある』と表現したのだという。


 それはあながち間違いではないかもしれない。だって、レオンに会う前、一人残された私は、灰になりたいと思っていたのだから。


「この場所に棲んでいた君以外の吸血鬼が滅んだのも、教会が派遣したハンターたちのせいだ。君は……小さいせいか、幸運にも見つからなかった」

「そうだったの……」


 真相を知っても、私の心は不思議と凪いでいた。

 今の私には、灰になってしまった同胞たちよりもずっと大切なものがある。


「俺は、アンネのことを信じてた。神父様が言うような、人をむやみに殺めて傷つける怪物じゃないと。でも、吸血鬼自体のことはわからない。だって――」


 レオンはそこで言葉を切ると、少しためらいを含んだ眼差しで私を見つめた。


「君は、いつも救いを求めているように見えたから」

「私が?」

「……君は、いつまでも幼い少女のままだ。途方もないほど長い吸血鬼の命を、ひとりきりで静かに俺の来訪を待ちながら、ただ生きることしかできない。

 その悲劇は、君がまだ幼い時に、誰かの手によってここに連れてこられて、吸血鬼にされたことから始まった。

 これは紛れもなく、だ。

 もとから吸血鬼が存在しなければ、君は人間として成長し、大人になり、街で人に囲まれながら生を終えたはずだった」


 レオンの瞳の奥で、何かへの怒りが燃えている。


「あなたは、これ以上吸血鬼を増やすべきじゃないと思って、私を殺そうとしたの? いつか、私が誰かの血を一滴残らず飲み込んで、同胞を増やすかもしれないと?」

「そう――いや、違う」


 レオンはうなずきかけて、思い直したようにゆっくりと首を振った。


「……そんなのは、ただの綺麗事だ」


 レオンの手がこちらに伸び、私の細い首筋を撫でる。


「俺は、アンネを家族のように愛してる。だから……いつか誰かに殺されるくらいなら、俺が殺したかった」


 まるで睦言のようにそう囁かれた瞬間、ぞくりとした。

 これは決して、恐怖からきた感情ではない。

 震えてしまうくらいの、甘美な感情。これはなに?


「吸血鬼の生き残りはもうほとんどいない。でも存在は確認されてる。協会は、以前吸血鬼が根城にしていた場所をくまなく探して、生き残りの足跡をたどってる。……この屋敷も、調査対象に含まれてる」


 そこまで聞いて、私はやっとあることに思い当たった。

 レオンが着ている、この奇妙な服。たしか、書物の中に出てきたことがある。

 これは、人間の聖職者が着るものだ。


「……今年は、ハンターとしてここに来たのね」

「ああ。明日には他の連中も来る。だから……君は、逃げるんだ。俺と一緒に」

「え?」


 レオンが立ち上がり、私の手を取る。


「俺は君を殺すことは出来ない。でも、逃がせば必ず処分が下される。それなら俺は、神を捨てて君と逃げることを選ぶ」

「レオン……」


 私の身体に熱い血潮は流れていないはずなのに、全身に温もりが広がっていく。

 得体の知れないその熱が、止まっていた私の時間を動かし始めた。

 ――けれど、この誘いに乗って、本当にいいのだろうか。死ぬことは怖くない。けれど、レオンと離れることは、怖い。

 だったら迷うことなんてないはず――。


 でも、私もいつか誰かを牙にかけて、その人にこの孤独を負わせたくなる日が来るのだろうか。

 私は、いつまで正気でいられるのだろう。


「ねえ、レオン」

 レオンの手を握り返して、その高い背を見上げる。

「もし、私が本当に化物になってしまったり、他の誰かに殺されそうになったら――あなたが、殺して」

「……約束する」


 レオンは頷くと、私の額にキスをくれた。


「今日で神ともお別れだ」


 レオンは胸元にかけた十字架を力任せに引きちぎると、床に投げ捨てる。


 ――金属がぶつかる高い音を聞いた瞬間、私は唐突に理解した。胸の中を支配するこの感情の名前を。

 私はしゃがんで、レオンが捨てた十字架を拾い上げた。

 これは、神を信じる証。

 いつも共にあるのだと、そう感じるための道具。


「なにしてるんだ? それ、嫌いだっただろ」

「たった今から必要になったの」


 私は千切れたチェーンを結ぶと、自分の首にかけた。


 レオンに手を引かれて、屋敷を出る。

 しばらくは森の中にある小屋を転々としながら、次の隠れ場所を見つける予定だ。

 レオンと共に月夜の森を歩きながら、私は昔レオンとベッドの上で交わした会話を思い出していた。


 相手のことが大好きで、何があっても信じられるなら、それは愛。

 畏れがあり、自分の命運を託す覚悟があるなら、それは信仰。


 ――この想いは、愛と呼ぶには狂いすぎてる。


 焦げつくような甘美な胸の痛みを知ったこの日から、私は獅子の名を冠する神様を信仰することにした。

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私の神様 保月ミヒル @mihitora

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