エピローグ あの日の路地裏で

 彼女の父親に会ってからさらに一年後。


 俺は初めて老婆に会った路地裏に向かっている。あの人に伝えなければならないことがあるのだ。

 しかし、この一週間毎晩あの場所に通って毎日周辺を探しているが、あの老婆の姿を見る事はなかった。もしかしたら、もうこの辺りで商売はしていないのかもしれない。


 今日見つけられなかったら、一旦探すのを諦めよう。そう考えながら路地裏を歩いていたところ、二年前に老婆がいた場所に全く同じ姿があるのを見つけた。あの頃と変わらず、魔女のような怪しい姿で小さな椅子に座っていた。俺が薬を飲まされて倒れた場所である。ただし風呂敷は広げておらず、以前のように怪しい商売はしていないようだった。


「お久しぶりです」


「あぁ、久しぶり。二年ぶりぐらいかね」


 老婆は相変わらず怪しい笑顔を浮かべて答えた。


「はい。昨日も一昨日も来たんですよ」


「知ってるよ。あんたが私を探してるって聞いたから、ここまで来てやったんだ。感謝しなよ」


「そうなんですか?ありがとうございます」


「それで何の用なんだい?記憶蘇生薬ならもう売ってないよ。製作中止になったんだ。誰しもがあんたみたいに、記憶をうまく扱えなかったらしい。使用者の考えによって記憶がコロコロ変わってしまったそうだ」


 老婆は饒舌に説明した。また俺があの薬を求めてやって来たと思っているらしい。冗談ではない。

 薬が製作中止になったことも特に驚きはしなかった。あの頭痛と無意識な記憶改変のリスクを考えれば、当然かもしれない。

 今日老婆を探していたのは、そんなことを話すためではなかった。


「そうなんですか。でも今日はそれは関係ないんです」


「それじゃあなんだい?」


「これです。これをあなたに渡そうと思って」


 俺が鞄から白い封筒を差し出すと、老婆はそれを受け取り、目を細めてそれを眺めた。


「これは?」


 不思議そうに見ていた老婆に、俺はその封筒の意味を告げた。


「彼女と結婚するんです。あなたに式に来て欲しい。あなたがいなければ、俺は彼女と再会できなかったから」


「ヒッヒッヒ。そうかい。良かったじゃないか。幸せになったんだね」


 面白そうに笑いながら老婆が言い、俺は自信を持って答えた。


「はい。幸せです」


「そうか。それなら断らせてもらうよ」


 老婆は封筒を開けることもなく、当然のように招待状を突き返して来た。


「なんでですか?」


 俺は思わず尋ねた。喜んでくれると思ってたから。てっきり祝福してくれるかと思っていた。


「私は幸せな奴に関わっていいような人間じゃない。あんたも、もう私に関わらないほうがいいよ」


 老婆はぶっきらぼうにそう言い放って、俺との会話を終えようとした。


「そんなので納得できるわけないでしょう。ちゃんと説明してください」


 老婆の言ったことに不満を持った俺は理解できるまでここを動かない意思を示した。

 老婆は軽くため息をついた後、仕方ないという具合に説明を始めた。


「逆に聞かせてもらうけど、あんたは彼女の父親を招待するのかい?」


「するわけないでしょう。彼女や彼女の母親たちがきっと嫌がります」


 考えるまでもない事を聞かれたので、俺は即答した。一生関わらないかどうかは分からないが、今はまだ彼女はあの男に関わるべきでない。それに、俺もあの男を許しているわけではないからだ。


「私もそっち側の人間だから。あんたたちに嫌な思いをさせたくないんだよ」


「嫌な思いなんてしませんよ」


 俺は老婆の意見に異を唱えたが、それでも老婆は聞く耳を持たなかった。老婆が俺たちの結婚式から避けるように、理由をあれこれと言い続けたため、俺はしぶとく誘い続けた。


「あんたがしなくても、周りの人はどうかね」


「何でですか?俺たちの親族にクスリでも売ったりしたんですか?」


「直接は売ってないと思うよ。でも知ってる人がいるかもしれない。あんたが今の幸せを掴むために頑張ってたことを知ってるから、私はその足を引っ張りたくないんだ」


「そんなこと気にしなくてもいいから、来てください。歓迎しますから」


「私が気にする。気持ちだけでお祝いしておくよ」


「えー。大丈夫ですよ」


「あんたもくどいね。私が大丈夫じゃないんだ。本当はこんな風に、私と親しげに話すのも良くない。あんたが危険な目にあうかもしれないよ。私を恨んでる人間の数は、私ですら把握しきれていないんだからね」


 そんな事を言われると、それを気にせずに誘い続けるという事は、今の俺にはできなかった。

 二年前の俺なら簡単にできてたと思う。一年前の俺でもできてたかもしれない。だけど、彼女との結婚を決めた今の俺は、自分の危険を顧みず勝手な希望を通す事はできないのだ。これから彼女と生きていくためにも、それが大事になることは、自分でも分かっていた。


「どうしても来てくれないんですか?」


 老婆が今更、意見を変えることはないとはないとは分かっていたが、最後の確認として尋ねた。


「あぁ、あんたみたいな幸せ者とはもう会わない。住む世界が違うんだ」


 思った通りの答えが返ってきた。どうやらこの人とは今日でお別れらしい。



「それじゃあ、最後に何かアドバイスとかありますか?人生の先輩として」


 二年前のことを思い出して老婆に質問した。あの時は、説教じみたことになると口数が多くなっていたからだ。年寄りはそういう人が多いものだが。


「そうだねぇ」


 老婆はそう呟いてから語り始めた。


「人の感情は簡単に伝播するって事を覚えときな。悲しみを抱えた人間は周りにも悲しみを与えるし、自分が不幸だと思ってる人間は周りにもそう思わせるんだ。逆も然り。前向きな人間は、周りを前向きにさせる。あんたは良くも悪くも他人の影響を強く受けてたからね。付き合う人間はしっかり選ぶといい」


「分かる気がします。今も俺は彼女の前向きさに助けられてる」


 老婆の話は以前と同じように、的確に俺の心に響いた。俺以上に俺のことを見抜いている老婆の話を聞くのもこれで最後だ。そう思うと俺は、今まで以上に心して話を聞いた。


「あんたは昔から身を持って学んでただろう。父親に直接虐待されていたのは彼女だが、本来なら無関係なあんたは、彼女の影響を受けて深い後悔の気持ちを抱えることになった。彼女に関わったあらゆる人の中にも、そんな負担を味わった間接的な被害者がきっと大勢いるんだろうね」


「はい」


 その通りであった。彼女が父親から受けた虐待の被害者は、彼女だけではない。俺は彼女の母親やその再婚相手の旦那さん、親戚にも会ったが、その誰もが、彼女が我慢していたことに気づかなかったことを後悔していた。クラスメイトだった時の担任の先生も、申し訳ないと言っていた。俺も含めて、彼女と接して心を痛めた全ての人が、あの男の被害者だと言ってもいい。

 そう思っていると、老婆は俺の心を読んだように話を続けた。


「別に虐待に限った話じゃないよ。家庭内暴力、いじめ、詐欺、強盗、殺人、強姦。人を傷つける行為ってのは、膨大な数の間接的な被害者と負の連鎖を呼ぶ。あんたらは被害者だからこそ、自分がそれをしないように、うんと気をつけるんだ。いいね?」


 厳しくもあり優しくもある、子供を諭すような口調で言ってくれた。


「はい。ありがとうございます。気をつけます」


 それからしばらく、老婆は次から次へと俺へのアドバイスを口に出し続けた。


「あと、近くにある問題を解決しようとするのは悪い事じゃない。だけど、自分から近づこうとするのは良くないね。あんたにはそんな節もある。今が幸せならなおさら。あれだけ苦労して手に入れたものを、わざわざ手放すことはないだろう。目に入るもの全てを手に入れようとすれば、今持っている全てを失うよ」


「はい」


「結婚するなら、家事は手が空いている時に自分でやるんだよ。彼女が仕事をしてようと、してなかろうと、家事は家庭での二人の仕事なんだから。前にも同じことを言ったかもしれないが、夫婦生活は共同作業の集大成だ」


「はい」


「もし、子どもが生まれたら、その子の考えを簡単に否定しないこと。否定するたびにその子の将来の可能性を潰すってことになるからね」


「それはさすがに、気が早いですよ。まだ俺の子供なんてどこにもいません」


 老婆が会ったこともない彼女のことも心配してくれたのは、素直に嬉しかった。だが生まれる予定もない子供の将来について話し始めたのはさすがに可笑しかった。


「ヒッヒ。そうかい?」


 老婆は楽しそうに笑った後、俺に話し続けようとした。


「あとは……」


 だが、そこで言葉を詰まらせた。


「いや、そろそろやめとこう。彼女が待ってるんだろう?電車の時間もあるからね。この辺でお別れだよ」


「そうですか。いろいろありがとうございました」


 ここでもっと話すように粘っても、おそらく何も変わらないだろう。そう考えた俺は、素直に老婆の言う事に従うことにした。


「あぁ。私もあんたのことは見てて面白かったよ。ありがとう」


「さようなら」


 俺は最後にそう言うと、暗い路地裏に老婆を残して、駅への道を歩き始めた。



 時が経つのは早いものだと改めて思った。前にこんな風に老婆と別れてから、もう二年も経つのだ。まだ二ヶ月くらいしか経っていない気がする。


 あれからも後悔することは何度もあった。彼女と喧嘩することもあったし、彼女の家族のことや、仕事のこととか、やり直せたら良いのにと思うことはいくらでもある。これからもそんな事はたくさんあるだろう。さすがに彼女に抱いていたものほど、重くなるものはあまり無いと思うけれど。


 でもそれが普通なんだと思う。生きていれば後悔することも失敗することもある。俺たちは上手くそれに対応していくしかないのだ。

 前に俺がやったみたいに、昔を振り返って解決策を見つけても良い。彼女のように前を向くために、昔のことを忘れても良い。許されることならば、記憶を自分で作り変えて自信をつける事もありだと思う。

 タイムマシンを持たない俺たちは、そんな風に何とか前を向いて、今を生きていくしかない。


 もう老婆のアドバイスは期待できないし、記憶蘇生薬もない。不安な事はたくさんあるが、楽しい事もきっとある。

 そう信じて、俺はこれからも今を全力で生きていこうと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶の監獄 蒼樹 たける @k-ent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ