未来への選択

 俺が彼女と再会してから、およそ一年が過ぎた。


 あれから俺たちは、小さな言い合いはあっても、大きな喧嘩をすることもなく、良好な関係を続けている。


 今日は彼女の付き添いで、ある男を訪ねている。その男が住む独り身用のワンルームアパートに着くと、俺たちはインターホンも押さずに、部屋の前でしばらく並んで立ち尽くしていた。彼女の心の準備が整うのを待っていたのだ。

 そして彼女は小さく深呼吸をすると、意を決したようにゆっくりと、インターホンのボタンを押した。室内にその音が鳴り響くと、次に中からドタドタと言う音が聞こえた。そして家主がドアを開け、俺たちの前に姿を見せたのだ。


「いらっしゃい」


 大柄なその男は、ぎこちない笑顔を見せながら低い声で俺たちに言った。

 俺にとってのその人は、現実では十一年前に一度すれ違っただけの男である。だが、一年前に記憶の中で見ていた俺は、その男をはっきりと覚えていた。一度は殺そうとすら思った人物である。当然のことながら、忘れる気にもならなかった。昔見た時と比べると、少し痩せたような印象だった。


「お久しぶりです」


 彼女はお辞儀をして他人行儀に挨拶をすると、すぐに俺のことを男に紹介してくれた。


「初めまして。いつも娘がお世話になっています」


 男はまるで一般的な父親のように俺に言った。当たり前だが、俺のことは少しも覚えていないようだった。男は俺たちを室内に入れると、ひと息つく間もなく、両膝と頭を床につけ、土下座の姿勢になって彼女に言ったのだ。


「申し訳なかった。あの頃は離婚したばかりで、仕事も上手くいってなかったんだ。それに育児まで自分一人でしなければならなくなって、プレッシャーを感じていたのかもしれない。どれもお前を責めていい理由にはならないかもしれないが、本当に申し訳なかったと思っている。俺が悪かった。どうか許してほしい」


 彼女は淡々とした調子で男の言葉に答えた。


「頭を上げてください。私が何か行動できていれば、変わっていたことはたくさんありました。あなたが一方的に悪いことでもなかったと思います」


 一方が頭を下げて謝り、もう一方が頭を上げてくださいと言っている。それだけを言うと、一年前の俺たちが再会したあの夜に似た状況に思えた。

 だが彼女の声色は全く違った。そして次に彼女が発した言葉もまた全然違うものになった。


「それでも、私はあなたを許せません」


 彼女は冷たいと感じるほど、はっきりとそう言った。しかし、その後の彼女の声は徐々に小さくなり、今にも泣きそうなくらいに震え始めた。


「あなたのせいで私は自分のことが嫌いになりました。他人を信用することができなくなりました。自分に自信が持てなくなりました」


「本当に申し訳ない」


 頭を下げたまま必死に謝る男を尻目に、彼女は涙声で厳しい言葉をかけ続けた。


「謝らなくてもいいです。何を言われても許す気はありませんから。私だけじゃないんです。あなたのせいで、お母さんにもたくさん心配をかけました。お母さんの新しい旦那さんにも迷惑をかけました」


 母親のことを話した時、彼女の声はますます震えを帯び、瞳からは涙が溢れていた。しかし、それでも彼女は続けた。


「何より彼に、多くの後悔と負担をかけさせてしまった。あなたが私にした行為は、私の大切な人たちを傷つけることになったんです。だから私は、あなたを絶対に許そうとは思いません」


「どうか許してくれ。血の繋がった親子じゃないか」


 土下座をしたままで変わらず許しを乞い続ける男に、彼女は泣きながら怒りをぶつけた。


「関係ありません!今日はお別れを言いに来たんです。私はあなたのことを綺麗さっぱり忘れます。今日から私はあなたの娘ではないし、あなたは私の親じゃない。だから今後一切、私に関わらないでください」


「そんな……」


 顔を上げた男は真っ青な顔をして呟いた。彼女はそんな男にも容赦なく別れを告げた。


「私はこれから好きに生きますから、あなたも好きに生きてください。失礼します」


 そう言い放った後、手で涙を拭いながら彼女は男に背を向けた。そして俺の腕を引っ張って、出口へと歩き始めた。

その直後、背後から男が再び声をかけてきた。


「待ってくれ!」


 彼女は歩を止めたが振り向く事はせず、背中で男の言葉を聞いた。


「愛していたんだ。ずっとお前のことを心配してた。これからも影で応援していたい。それぐらいなら、してもいいか?」


「私に関わらないなら、お好きにどうぞ」


 彼女は背を向けたままで答えた。そして一呼吸置いて、さらに次の一言を付け加えたのだ。


「私も、昔はあなたのことを大切に思ってました」


 すると彼女は俺を引っ張って、何も言わずに男の家から立ち去った。



「これで本当に良かったのか?」


 俺はハンカチを手渡しながら、彼女に聞いた。


「うん。何度も言ったでしょ?」


 彼女は顔を拭きながら答えた。もう涙はすっかり落ち着いたみたいだ。いつもの穏やかな声に戻っていた。そしてスッキリした顔で彼女は言った。


「あの人のことを覚えている限り、私は多分、自分のことも他人のことも、本気で好きになれない」


 彼女の意見はここに来る前に聞いていた。彼女があの男の虐待のせいで、苦労してきたこともこれまでにたくさん聞いた。だから俺もその意見には賛成したし、あの男を許せないという気持ちもあった。

 だが、実の親子がその関係を断ち切る瞬間。間近でその様子を見ていると、複雑な気持ちになった。


「過去を振り返りたくないんじゃない。自分で幸せな未来を歩みたいから忘れるの。その二つは全然違うと思うわない?少なくとも私は、これで良かったと思う」


 俺の心境を察したのか、彼女はさらにそう言った。本当は俺から彼女を励ます場面だと思うが、何だかまた気を使わせたみたいになってしまった。彼女は前を向こうと頑張っているのだ。俺が応援しなくてどうする。

 そう思い、再度彼女の意見に賛成した。


「そうか、そうだな。俺もやっぱりそう思う。それにお前がそうしたいなら、それが一番いい」


 すると彼女は俺の真正面に立ち、恥ずかしそうに目を背けながら俺に言ったのだ。


「あなたのことも、ちゃんと好きになりたいからこの道を選んだの。これからあの人との辛いことを忘れるぐらい楽しい思い出、たくさん作ろうね。私もあなたも後悔しないように」


 嬉しいことを言ってくれる。そんなことを言われると、彼女のために何でもしたくなってしまうではないか。高校時代に何もできなかった分、俺は彼女と共に少しでも多くの時間を共有したかった。


「あぁ。それじゃあ、これからやりたい事とかあるか?もう誰にも遠慮なんてしなくていい。何でもいいから、お前が本当にやりたい事を教えてくれ。何でも手伝うよ」


「本当に何でもいいの?」


 彼女は控えめに聞いてきた。遠慮しなくてもいいとは言ったが、そんな慎重に確認されると、一体何を言うのか不安になってしまう。


「俺にできることなら」


 あまりにも不可能な事を言われた場合の保険のため、その一言を付け加えた。すると、彼女は俺の目をまっすぐに見て答えたのだ。


「私、修学旅行に行ってみたい」


「うーん。修学旅行か」


 意外な答えに俺は頭を悩ませた。高校を卒業してから、そんな事考えたこともなかった。


「難しいかな?」


「ただの旅行なら、お金と時間さえあれば何とかなるけど。修学旅行って何なんだろうと思ってな」


「勉強するのが修学だよ。私は高校生の間にできなかったことをいろいろやってみたい」


「例えばどこに行きたい?」


 成人してからの修学旅行のイメージが上手く掴めなかったため、彼女に聞いてみた。要は彼女が修学旅行だと思えば、それでいい話だ。


「私は京都に行きたい。自分でお寺を回る計画や電車に乗る予定を立てたり、駅の前で写真撮ったり、いつホテルに着いていつ出発するかとか、私は全部やってないから。あと枕投げもしてみたい」


 彼女は目をキラキラさせながら語った。思った以上に普通の旅行で安心した。逆に言えば、そんな普通の旅行の経験も彼女には無かったのだ。

 これは腕がなる事態である。彼女の旅行が楽しい思い出になるように俺も努力しなければならない。


「そのくらいなら、いくらでも行けるぞ。金が貯まったらすぐにでも行こう」


「うん。楽しみにしてる」


 眩しいくらいの笑顔で答えてくれた。

 再会したばかりの頃は、彼女のこんな笑顔を見る事はほとんどなかった。時々、他人に対して怯えるような顔すら見せていたので、心配になったくらいだった。だが今は、こんな風に明るい笑顔をよく見せてくれるようになっている。

 これが俺の望んだ結果だ。俺はこの先に後悔しないためにも、彼女のこの笑顔を守り続けようと心に誓ったのだ。

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