回想 あの日のこと

 あの日のことはよく覚えている。嫌いな仕事をいつも通り終えて、いつも通りに店の裏口から外に出ると、十年間会えるはずがないと思いながらも生きる支えにしていた彼の姿が、そこにあった。

 夢か、もしくはついに頭がおかしくなって幻覚でも見ているのかと思った。だが、その彼の姿は確かに私に向けて話し始めた。


 また会えたこと、覚えてくれていたこと、話せたこと、友達になろうと言ってくれたこと、昔とあまり変わってなかったこと。彼が見せてくれる全てが飛び上がりたくなるほど嬉しかった。けれど同じくらいに申し訳なくて、そんな素振りは見せられなかった。十年前から誰も本気で信じられなかった出来損ないの私なんかが、こんなに優しい彼と今さら友達になっていいはずがない。そう頭に浮かんだ私は諦めてくれる理由をいくつか考えて、彼を傷つけないように断ろうとした。

 しかし彼は諦めてくれなかった。こんな私との約束を今も覚えていて、今の私のことを知っても話したいと言ってくれた。そんな一つ一つの言葉を聞くうちに、嬉しさはさらに私の心の中に溢れてきて、私はいつの間にか涙を流していた。

 すると、頭で断る言葉を考えるよりも先に私の顔は勝手に笑みを浮かべ、口は自然と私が長年隠し続けていた本当の気持ちを彼に伝えてしまった。それからはなぜか、昔と同じように素直な私で彼と話せるようになったのだ。


 その後の私の世界は、まるで魔法にかかったかのように大きく変わった。

 辛く険しかった仕事場までの道は、あの日同じ場所で聞かせてもらった彼の不思議な話を思い出すと、とても嬉しくなり足取りが軽くなった。私とは無縁で近づくのすら恐れ多く思っていた駅前のおしゃれなカフェも、彼と行ってたくさんの話を聞いてもらってからは、また行きたいなと思って少し好きになれた。



 昼の仕事をしていた頃、職場で将来やりたい仕事についての雑談をしたことがある。そこにいた人たちみんながキラキラした目で明るい未来を語っていたのに対して、私は何も答えられなかったのを覚えている。その日生き残るのが精一杯、次の日生き続けられる自信すら無かった私に、一年後、十年後の自分の展望を考えるなど、できるはずがなかった。

 だけど今は、来週彼と会う時にはどんな服を着て行って何を話そうか、再来週にはたくさん心配かけたお母さんたちと映画でも観に行ってみようかな、なんてことを考えるようになった。

 ただ死なないために毎日生きていた私が、一週間後も二週間後も生きているだろうと自然に考えるようになったのだ。普通の人にとってはごく当たり前のことかもしれないけど、少し前の私からすると別人のように大きな進歩だ。


 だけど、綺麗さっぱり変わってはいない。今でもたまに、以前の自分に戻ってしまうことがある。私みたいな人間が近くにいて彼らは迷惑だと思っているんじゃないか、これ以上不快な思いをさせないために距離を取った方が良いんじゃないか。一緒にいてくれる相手に失礼だと分かっていても、どうしてもそんなことを考えてしまう。たぶん私の心の底はまだ、あの監獄の中に閉じこもったままなのだろう。

 彼との記憶のおかげでこれまで生きてこれた。そして、あの日の彼の言葉と行動で私は変われた。けれど、一年後、十年後も、私が大切に思う人と歩み続けるためには、今度は自分で行動を起こす必要があるんだと思う。


 何をすべきかはなんとなく分かっている。私には、怖くて向き合うことをずっと避けていたことがある。私のことを思ってくれる彼らを大切にするため、そして私自身の幸せのために、私がこれからするべきこと。それは……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る