削除
士田 松次
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衣服に雪が染みてきて、男の体温を冷やしていく。誰もいない山の中、男は積もった雪の中に横たわって、眠くなるのを待っていた。
何気なく、ポケットに入れていた携帯を取り出した。電話帳を開いたが、自分の連絡先以外、誰のものも入っていない——。
一
それは中学生の時に、周りの子たちが持っているからと、母が買ってくれたものでした。
「なぁ、俺らのグループに入れてやるよ」
クラスの男の子が、そう誘ってくれました。メッセージアプリのグループ機能です。僕は嬉しくて、即座にオーケーしました。
だけれど、そこにあったのは
新しい友達ができて、浮き浮きとした面持ちでメッセージアプリを開いた僕の目に飛び込んできたのは、「アイツってウザいよね」、「死んでほしい」や「てか消えてほしい」、「学校に来てほしくないんだけど」
痛くて冷たい、氷のような言葉の数々でした。
彼は僕をいじめるために、わざわざそのグループに招待したのでした。
自分では気づいていなかったのですが、僕はどこかトロいようで、それが彼らを苛々させたようです。あとになって、お金を取られながら教えてもらいました。
カバンも教材も、全てをトイレのゴミ箱に捨てられた日のこと、僕は初めて、登録した人を
二
「お父さんが自殺して、お前が辛いのはわかっている。だが学校にはなるだけ来なさい。何か困っていることがあるなら、私に相談してくれ」
高校生の時、僕は不登校気味でした。
一人職員室に呼ばれた僕は、そのことを先生から心配され、二人だけの秘密ということで、電話番号を交換しました。
僕は、自分が誰かに心配されていることが嬉しくて、それからは度々、学校へ行くようになりました。そこへ向かう足が、軽くなったような気さえしました。
先生も安堵の表情を浮かべるようになって、気さくに話しかけてくれるようになりました。
「おはよう、今日も来てくれたんだな。ありがとう、先生は嬉しいぞ」「今日の学校はどうだった? 楽しかったか?」
それがいつの頃からか、変わっていきます。先生の口調は、どこか僕を咎めるようになりました。
「お前、このままじゃどこにも行けないぞ。人一倍勉強して、みんなに追いつかないとな」
最初は、そういう会話から始まりました。
「やりたいことを見つけろ。夢を持つんだ。周りの奴らを見てみろ。みんな、大学や専門学校に行こうと必死に頑張っているぞ」
みんなに追いつくために、勉強しなければいけないのでしょうか。みんながそれに向かって頑張っているから、僕も夢を持たないといけないのでしょうか。勉強する理由は、夢を持つ理由は、そういうものなのでしょうか。
それでも、僕の成績が一向に良くならないとわかると、「お前なぁ……頼むから留年だけはしないでくれよ」と、何かを諦めたように先生は言うのでした。
それからほどなくして、先生が僕に話しかけることはなくなりました。僕は一人で、せめて留年だけはしないように、頑張って勉強しました。もう失望されたくありませんでした。もう期待を裏切りたくありませんでした。
けれど、それからほどなくして、先生はクラスの女子生徒と関係を持って、先生を辞めました。
その夜、僕は先生を
三
「どうして、君は時々暗い顔をしてるの?」
たくさんの人の声が入り混じる、騒々しい居酒屋の中。僕の隣で彼女が訊いてきました。大きな丸い瞳が印象的で、優しげに笑うところが僕は好きでした。
「なんでかな。時々、生きることが辛いからかな」
「えぇー、でも一応バイトしてるんだから、お金はあるんでしょ? じゃあ困らないじゃん」
彼女は笑って、そう言いました。いつも明るくて単純な、彼女らしい答えだと思いました。
「そういうことじゃないんだけど……君は、きっと幸せなんだろうね」
僕は笑顔を作って、そう返しました。
明日を生きるのに必要なものは、お金だけじゃない。いや、たぶん君が強い人で、僕は弱い人だから、僕は生きるのに必要なものが多いのだろう。
その後、彼女はほかの男性と浮気していたことがわかって、僕は彼女を
四
朝のニュースで、会社員の男がビルから飛び降りて自殺したと、報道していました。成果簿を提出する僕の前で、デスクに座っている上司がそのテレビに言います。
「全く迷惑な話だよな。自分にも周りにも、良いことなんか何一つないっていうのに。せめて、死にたいならもう少し場所を選べってな」
違う。死にたいから自殺するんじゃない。生きたくても生きられないから、死ぬことを選んだのだと思う。それを選ぶ勇気が、未だに僕にはなかった。
ただ目の前の上司に向かって、「はい」と「すみません」と、頭を下げるばかりで。
仕事が終わったあとに、ようやく上司を
「最近連絡ないけど、どうしたの? 会社は行けてる? 大丈夫?」
「うん、ごめん。大丈夫だよ。じゃあ僕は忙しいから」
母からの電話にそう答えて、僕は切りました。
本当は、すでに会社は辞めていました。
誰かに名前を呼ばれると、それだけで緊張してしまうようになって、
いつからか掌に汗を滲ませながら、人と会話するようになって、
そこにいることが苦しくなって、
僕は会社を辞めてしまったのでした。
「大丈夫?」母の言葉が、頭で反響する。
心配される価値なんて、僕にはない。
後ろめたくて、申し訳なくて、僕は母を
少し、空しさを感じて……。
僕は思い出す。
いつからだろう。その行為に何も感じなくなったのは。それが当たり前のようになったのは。
裏切られたから。浮気されたから。ムカついたから。もう会わないから。
いつからか平然と。
簡単に削除するようになった。
簡単に削除できるようになった。
だけど僕は、僕だけは削除できませんでした。長い間、死ぬことを選べませんでした。
けれどそれも、もうウンザリだ。
きっと僕はこれまで、誰かと繋がることで、勝手にその人に希望を抱いてきました。勝手に救いを求めてきました。そして勝手に、失望してきました。
そんなことに、とうとう飽き飽きしました。疲れてしまいました。
だから僕は、この雪の降る山で……。
五
「やっぱり、まだ死んじゃ駄目です!」
女性の高い声と共に、白いロングコートが降ってきた。甘い香水の匂いが、僕を包みました。
やっぱりとは、なんのことだろう。
「突然、ごめんなさい。私も、ここに死のうと思ってやって来て……でも、実際に目の前で死のうとしてる人を見たら怖くなって、止めずにいられなくて……」
女性は俯いて、また「ごめんなさい」と言った。僕は驚くばかりで、ただ口を開けてその人を見ていました。おそらく僕よりも年上の、大人びた綺麗な女性を。
だけどその目は、鏡で見た時に写る僕と、同じ目をしていました。
「あの、これも何かの縁ですし……よかったらこれも」
女性は目を伏せたまま、お茶の入ったペットボトルを差し出してきました。僕は数秒が経ってから、それを受け取りましたが、手が冷えすぎていたせいで、お茶の熱さに思わず落としてしまいました。
それを取ろうと腕を伸ばした時、ふいに僕と女性の手が重なりました。
その女性の掌から伝わってくる温もり。暖かさ。
そして、僕は気づく。
何度も何度も、登録しては削除してを繰り返す。
寂しいのは嫌いなくせに、気に入らないとその繋がりを断つ。もう会わないからと、削除する。
けれど寂しいのは嫌だから、また誰かと繋がることをやめられない。
裏切られても。浮気されても。ムカついても。もう会わなくても。
苛々するぐらいに、自分勝手だ。
ただそれだけのことだった。
希望だとか救いだとか、そんなこと関係なかった。
僕はただ、寂しいだけだった。
生きたいだけだった。
削除 士田 松次 @sita-syouji
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