第2話 I am here

 きのうの雨の痕跡は、街路のところどころに染みとなって残っているが、今朝は太陽の光が地面に差し込んでいる。

 大勢の人が通り過ぎてゆくが皆急いでいる。朝の駅前は忙しない。数えきれないほどの人が右から左へ横切ってゆく。サラリーマン風の男、OL風の女、半ば禿げ上がった男、長い茶髪の女――ゆく人はいろいろだ。中には学生もいる。


 いつもの時刻に、彼女はぼくの前に現れた。足早に横切る駐輪場の入り口。冷気を帯びた風に制服のスカートがひるがえった。駅へ向かうのだろう。


 まもなく駅の改札を通った。このままホームへ上がれば電車に乗れるが、月曜日なので、構内のコンビニエンスストアに立ち寄るかもしれない――やはり、きた。月曜日の彼女はここでグミを買ってから電車に乗る。なぜだか知らないが、いつもそうする。


 キャンディ類の陳列棚でグミを手に取る彼女が、ぼくのお気に入りだ。色白で小ぶりな横顔と紺色の制服、少し尖った顎のラインとすらりとした彼女の手が画面に大きく映るからだ。


 きれいだと思う。


 彼女がコンビニにいたのは、ものの三十秒程度だろう。レジを済ませてホームへ向かった。


 これから電車で学校へ向かうのだ。彼女の制服はK女学院高校の生徒であることを示す古めかしいセーラー服。校章のプレートから二年生と分かる。名前は知らない。知る必要を感じない。それ以上のことを知っているから。


 いつも先頭車両の乗車位置に立つ彼女は、画面中でもよく見える。いま同じ制服を着た少女と挨拶を交わした。背が高く、とりすました顔は大人っぽいが、笑顔になるとまるで子供のように無防備な表情になる。大人の女性に備わる緊張感と、子供にしかないしなやかさを、その細身の体に併せもった彼女。


 ぼくは、いままさに女性へと変態を遂げようとする雌幼体――見えない殻を脱ぎ捨てようとする羽化したばかりの蝶を空想する。彼女の額で揺れる前髪ですら神秘的だ。

 毎朝、ぼくはしあわせな気分になれる。




 そのとき、トントンと二一〇号室のドアがノックされた。すると、入っていいとも言わないうちにドアが開き、眼鏡をかけたもじゃもじゃ頭の若い男が現れた。


「おはよ、Qちゃん。起きてる?」


 男は一〇四号室の「D」だ。昭和荘の古株で、もっとも長くこのアパートに住んでいる――ということは、人身安全対策課がそう呼ばれるようになる前から、ここでこうしているということだ。その彼に言わせるとぼくは二一〇号室の「Q」らしい。


 以前、どうしてぼくはQなのかと聞いてみたが、Dは「だって十七番目だからね」と言ったものだ。ならばD本人は四番目なのだろう。


「また『彼女』の観察? 飽きないね」


 よれよれのジャージ姿がトレードマークのDは、ぼくの部屋へ上がりこむと、ひょいひょいとケーブルをまたいで、壁のようなモニターを回り込み、ぼくの隣に座り込んだ。


「なに。眠いんだけど」


 彼女が校門をくぐり抜けるのを見届けてから、朝食をとり、歯を磨いて、布団に入るのが、ぼくのルーチンになっている。


「怒ってんだ」

「別に」


 Dの手から、もってきたハンバーガーの入ったレジ袋をとる。近くのコンビニでチンしてきたのか、温かい。


「ひとつは、オレのだよ――。あ、ほら。電車きた。彼女乗ってく。カワイイなあ」


 ホームの監視カメラに、一瞬、彼女が電車に乗り込む様子が映る。いつもの一号車。少し伏せ気味の眼差し、伸びやかなうなじ、この角度から見る彼女もきれいだ。


「Qちゃん、変態だな」

「ケンカ売ってんの?」

「まさか、事実の指摘。ここの住人は、大なり小なりみーんな悪趣味で変態なんだからさ」


 モニターに流れる映像を目で追いながら、Dは買ってきたハンバーガーにぱくついた。うまそうだ。ぼくもいただこう。


 薄暗い六畳間に、PCが発する冷却ファンの唸りと、ふたりの男がハンバーガーを咀嚼する音。朝から寂しい「絵」だ。そうしてる間も、彼女は電車に揺られている。


「ところで……」


 指についたソースを舐めとりながらDが話し出した。


「『778』見た?」

「見た。でも、いつもと違うな」


 昨夜、稲爪から受け取ったUSBメモリには虚ろな表情をした無精ひげの男のデータが入っていた。逗子一馬――ほんとの名前かどうか疑わしいが、一応氏名はそうなっていた。


 しかし、Dが知っているということは、「778」の捜査はぼくだけの仕事じゃなかったのか。これもいつもと違うことだ。


「Qちゃん、鋭いね。あれはいつもの行方不明者じゃないし、犯罪被害者でもない。『778』は、殺人事件の犯人さ」


 まさか。殺人事件の捜査は、人身安全対策課の管轄ではない。捜査第一課の仕事のはずだ。昭和荘――人身安全第三係に殺人犯人の捜査が回ってくるなど、ありそうにない。


「一度は逮捕したんだけど、逃げ出したんだよ。警察本部の取調室から。一課の大チョンボさ」


 取調中、監視役の刑事が居眠りをした隙に逃げ出したのだという。しかし、殺人犯人逃走の情報が、まったく報道されていないのは、どういうことだ。


「警察本部の取調室は、地上十階にある。庁舎の出入りは厳しくチェックされているし、逃げられるはずはないと踏んだんだろう」


 ところが半日だっても、庁舎内から逃走した男は見つからなかった。それどころか、逗子一馬と見られる男から、暴行被害を受けたという女性からの届け出が、その夜付近の警察署にあったという。


「逗子一馬。前科二犯。強盗強姦および強姦致傷で、合計十年間服役。今回の逮捕事実がスナック店員に対する強姦殺人――」

「サイアクだ」

「そう。いまさら『逃げられました』とは言い出せない警察は、ブン屋に嗅ぎつけられないうちに、逗子をとっ捕まえようと躍起らしい」


 それでか。本来なら捜査第一課の仕事が昭和荘にまで回ってきたのは。


「一課は捜査から外された。映像捜査もウチに回ってきた」

「Dもデータを?」

「オレだけじゃない。昭和荘のみんながデータを持ってる」


 逗子の捜索に、人身安全第三係は総力戦というわけだ。いつの間に。


「Qちゃんも、ケツに火がついた?」

「ぼくのやることは変わらない」

「だから、朝から『彼女』を追いかける――と。ま、それもいいさ。じゃあ、今から寝るんだな」


 おやすみ――といい残して、Dは来た時と同じようにモニターを回り、ケーブルをまたいで部屋を出て行った。彼女は電車を降りた。畳の上に転がされたレジ袋にハンバーガーの包装紙がふたつ押し込まれている。


「おやすみ」


 やがてK女学院の校門を入ってくる彼女を確認して、四畳半の布団に潜り込む。そうしているぼくをカメラは記録し続ける。




 街角に、駅に、店舗に、バスに――。いたるところにそれはある。ぼくたちがカメラに撮影されるのは、そう意識していないだけで日常的なことだ。


 この国では常時、数百万台の監視カメラが稼働している。その一台一台が、なにかが映っていようが、いまいが、おかまいなしにレンズに写り込む映像を記録し続けている。考えてみてほしい。百万台のカメラが一時間に記録する映像は、百万時間に及ぶ。一日に記録する映像は二千四百万時間だ。監視カメラは、個人情報の違法収集だ、プライバシーの侵害だと言い募る人もいるが、そんな人にはこう言ってやりたい。


「記録された映像から、あなたの映っている箇所を探して削除してもいいですよ。一日分、探すだけで二千四百万時間かかりますけどね」


 巨大なデータの塊から個人を特定して情報を抜き取るのは至難の技だ。映像捜査の難しさは、そこにある。クラウドサービスの進展とともに、ネット空間に集積されはじめた巨大な映像データ。そこに真実が含まれているのは確かだが、人の目ですべてを確認することは不可能なのだ。


 ぼくたち映像捜査官は、コンピュータに一定の条件を与え、ネットに溢れる膨大な映像データの中から対象となる人間の映像を検索させる。年齢、性別、身長、体格は当然として、顔の輪郭、ヘアスタイル、ほくろの位置や分かるのあれば、病歴や食事の嗜好、下着の色まで指定することができる。それでも検索にかかる映像の数は途方もない量だ。この国では一億二千万もの人が、監視カメラの前にその身を晒しているのだから。


 対象の映像を探し当てるには、映像を見分けるセンスと作業に没頭することのできる適性が必要だ。このセンスと適性をひとまとめに備えた人間がいる。カメラ越しに人を観察することに喜びを感じる嗜好の持ち主――盗撮、覗き見趣味なんでもいいが、Dは簡潔に「変態」といっている。まあ、間違ってはいない。変態でもなければこの仕事は務まらない。

 ここからはDに聞いた話だ。




 昭和荘の住人は臨時職員ばかりだ。Qちゃんもそうだろ。どうしてだと思う。興味ないか――まあ、ちょっとだけ聞いてくれよ。


 以前はいたんだよ。警察官の映像捜査官。もちろん、オレたちは警察の仕事をしてるんだし、捜査は警察の仕事だからね。最初の映像捜査官は警察官だった。「A」としようかな。


 Aは、若くて優秀な刑事だった。三係(当時はそういう名じゃなかった)が立ち上がって最初に選任された映像捜査官さ。真面目で、物事を深く考える性質(たち)だった。真面目すぎたかもしれない。この仕事を続けるうちに病んで自殺した。


 二番目は正義感の強い男だった。強盗犯人の映像を追ううちに事件に深入りしすぎた。事件班に先行して現場に突入、殺されたよ。Bだ。


 Cには、不活性な男が選ばれた。とりたてて真面目というわけでなく、特に正義感が強いわけでもない――ということは普通の男だ。だが、一年も経たないうちにここを逃げ出した。以来、行方不明だ。笑えるだろ。ここの職員が行方不明なんだ。


 警察の上層部は、ここに警察官を配置するのはやめた。適性のない警察官を消費することの愚かさに気づいたのさ。代わりにネットで募集した臨時職員を採用することにした。その第一号がオレ。


 映像捜査官は、カメラ越しに人の行動を観察し続けなきゃいけない。些細なしぐさから意思を読み取る。無感動に。しかし、執拗に。


 映像の男がもぞりと肩を揺する動きから「小便をもよおしたな」とか、女の視線の送り方から「セックスしたいんだな」とか分かるようになれなければだめさ。


 笑うなよ、マジだ。


 でも、そんなのがまともな人間だと思う? まともじゃ務まらない。Aが死んだように、Cがいなくなったように。

「変態」だ。映像捜査官は、そうでもないと務まらない。


 そういうわけで、Qちゃんは見込みがある。朝から晩まで、画面越しに女子高生を眺め続けるなんて、まともじゃない。OK、OK。変態歓迎だよ。


 ようこそ昭和荘へ。




 そして、Dはいかにも愉快だといった風にぼくの手を握った。柔らかい、冷たい、白い手だった。


 そんなDも、もちろんまともではない。時折インターネットに現れる死体の映像を漁るのが彼の性癖だ。


 ――国家による犯罪者の公開処刑。

 ――自身の首吊り自殺をネット中継する若者。

 ――刑務所内での集団リンチ。


 人が死んでゆく映像を見ると、Dはエクスタシーを得ると言う。


 本当だ。ぼくたち映像捜査官は、お互いにお互いの部屋の状況を常に監視できるよう、カメラを設置し、部屋の様子を映しあっている。Dが死体の映像を好んで見ているというのは、映像捜査官ならみんな知っている。


「古いオレが死んで、新しいオレになるんだ」


 たとえば縊れた死体にそう感じ、そうしながら仕事のなかで溜め込んできた罪悪感や疑問、羞恥心といったものを古いDと共に脱ぎ捨てる。画面に映し出された囚人の手は、血の気を失って真っ白だった。彼のなかに生と死が共にある。


 ぼくはどうだろう。


 Dの言うような「変態」だろうか。そうであればいいのにと思う。


 ぼくは、だれかの思うとおりの存在でいられるところをずっと探していた。それがいまここであるなら、やっと見つけたぼくの居場所だろうから。


 居心地の悪い思いをしてきたのは、子供の頃からだ。ぼくは「こうなれば楽しいな」と考えることを見境なく口にするような子供だった。皆そうだったはずだ。


 ――トンボが、お父さん食べた。


 笑ってもらえるくらいに幼いうちはよかった。ただ小学校に上がっても、


 ――学校が火事で、みんな死んじゃった。


と言っていては、「虚言癖」と言われても仕方がなかったのかもしれない。


「嘘を言わないで」


 ことあるごとにそう言い聞かされるのは、嘘との自覚がないぼくにとって非常な理不尽だった。感じたままに話すことを許されないぼくは、生身の感情のままに人と触れ合うことをしなくなった。


 モニター越しに人を眺めるようなことになったのは、そのせいだと思う。コンピューターとインターネットに出会って、ぼくは初めて人と触れ合えるようになったと感じた。機械は、ぼくを嘘つきと呼ばない。


 何かを期待してここにきたわけではなかったし、期待されていたと思わない。しかし、昭和荘での生活はぼくに合っていた。ここでぼくは、はじめて自分以外のもののために何かをするということを知った。ぼくは「職業」に出会ったのだ。


 彼女を知ったのは働きはじめてまもなくだった。監視カメラの映像に対象者を探していた時だった。


 映像から視線を感じた。紺色のセーラー服に通学鞄を持った女の子がこちら向いて立っていた。ほんの少しの間、立ち止まっていただけだったが、確かにその視線は、画面の向こうからぼくの目を貫いて、拍動を早めたぼくの心臓まで届いた。


 ――なんだこいつ。


 ぼくは驚いた。そして怖くなった。

 セーラー服の高校生に、ぼくの人には言えない職業を見透かされたように感じたからだ。でも、そんなことはあり得ない。


 彼女が見ているのは、ドラックストアに設置された二日前の監視カメラであって、この部屋でモニターを見ているぼくではない。


 彼女からは、時間も、空間も、ぼくとは繋がっていない。記録された映像をぼくが一方的に観察しているだけなのだから。でも、あのときはすごく怖かったのだ。


 ぼくは彼女を探した。ほんの数秒記録されたカメラの映像を手がかりに、仕事を後回しにしてまで。ぼくは、ぼくを恐怖させたものの正体を知りたかった。不安を消し去りたかった。


 苦労して探し出したリアルタイムの彼女の映像はつまらないものだった。

 K女学院高校の二年生である彼女は、学校と自宅を往復するだけの毎日、朝、駅前に現れ、コンビニに立ち寄り、電車に乗って登校する。夕方はその逆だ。


 取り立てて美人というわけでもない。鼻が少々高すぎるし、尖ったあごは神経質に見える。同じ年頃のボーイフレンドはその影も見せたことがない。

 国語が得意で、数学は苦手。休日に同じ高校の友達たちと食事やショッピングに出かけるのを楽しみにしている。

 普通の高校生だった。つまらない生活、どこにでもあるくだらない人生だ。


 怖いものなどどこにもなかった。ぼくの不安は消え去った。

 その代わりに湧き上がってきたのは、彼女とその生活を所有しているような奇妙な感覚と、彼女を観察することに対する異常な愛着だ。


 これは「変態」的なことなのだろうか。

 それからずっと、ぼくは彼女を観察している。彼女の映像は、映像捜査官としてのぼくにとって、お守りのようなものになった。




 暗い二一〇号室のPCは、ぼくが人と繋がるための唯一の方法で、モニターは世界に向けて開かれた窓だ。オレンジ色に傾いた陽光を孕んだカーテンが、優しく部屋を照らしている。


 目を覚ますと四時半を過ぎていた。

 そろそろ仕事を始めなければならない。洗面台で顔を洗うと昨日受け取ったUSBメモリを机の上に探す。十六分割されたメインモニターの右上に、校門を出て行く彼女が現れたところだった。


『778』に記録されていた逗子一馬のデータをシステムに走らせる。今朝、Dから聞いた前科のほか、これまでに警察が調べ上げた逗子の個人情報が表示される。家族構成や職歴、これまでに犯した犯罪の詳細などだ。そうしているうちにも、次々にシステムが対象者――この場合は、逗子一馬だ――によく似た人物が映っている映像を探し出してくる。モニターに表示されら映像は見る間に百件を超えた。そのうちに一万件を超えるだろう。


 そのままでは手に負えないので、データに絞り込みをかける。この絞り込み方に映像捜査官の個性が出る。腕の良し悪しが現れる。

 対象者の外見や、立ち回り先のデータを事細かく指定することで絞り込んでゆくのが一般的だ。


「でも、それがベストなのだとしたら、わざわざ人間がするまでもない。AIにさせときゃいい」


 いずれこの仕事は、人からAIに取って代わられる。Dの説だ。


「Qちゃんはそうじゃないな。直感で絞り込んでる。『これ』とキーワードを選ぶセンスとスピードは、だれにも真似できない」


 それでも結局、ぼくもAIには敵わないだろうとDはいう。ぼくたち映像捜査官は、AIがこの仕事を担うまでの繋ぎにすぎない。


 彼女が駅の改札を通る様子が、メインモニターの右上二番目に映り込んだ。シリアルコードJR1115K――。ぼくは彼女の通学経路にあるカメラコードを全て把握していて、モニターに次々と表示させることができる。


 サブモニターC-1には、メインモニターに注視しているぼくが表示されている。

 逗子。

 彼女。

 ぼく。

 斉しく監視される存在。


 逗子一馬。兵庫県神戸市生まれ。三十七歳。大学在学中、女友達をレイプした上に、携帯電話を盗んだとして強盗強姦の罪に問われた。懲役四年。

 出所後、コンビニ店員として働くが、通りすがりの女性を殴って脅し、公園に連れ込んでレイプ。強姦致傷の罪で、六年間服役。

 今年九月、行きつけのスナックの店員を帰宅したマンションで待ち伏せ、被害者の自室でレイプした上、タオルで首を締めて殺害、逃走するも逮捕された。身長178センチ、体重62キロ、やせ型。


 逗子のデータには、更にそれぞれ事件の詳細と本人の写真が添付されている。痩せて顔色の悪い男だ。逮捕された時に撮影されたものだろう。ぼさぼさした髪に無精ひげ、虚ろな表情に生気はない。


 逮捕された事件の映像データが添付されている。ファイル形式から動画共有サイトに流出したカメラ画像とわかる。


 ――再生。

 マンションのエレベーター。ドアが開き、髪が長くあごの尖った若い女が乗り込んでくる。次いで男。ひょろっと棒きれのような身体、逗子一馬だ。背を丸め、あごを突き出すようにして歩く足は軽く引きずられている。途端に出て行こうとする女。手を掴んで引き止める逗子。閉まってゆくドア。男は女の頭を壁に打ち付ける。一回、二回。拳で顔を殴りつける。何度も何度も――。


 女のほおがひしゃげ、鼻が潰れる音が聞こえてくるような映像だ。密室での暴行は続き、やがてドアが開くと女は男に引きずられるようにしてエレベーター出ていった。その時、女が血で赤く染めた顔をこちらに向けた――ぼくを見た。


 音声はなく作りものめいた映像に、ぼくは引き込まれた。女の視線だ。この女は知っている。ぼくが見ていることを……監視カメラを通じて見知らぬ誰かに見られていることを――自覚している。そのことを呪っている。この映像はネットに流出し、衆目に晒される。

 この後、尖ったあごを持った若い女は、自室で犯されたあげく、殺されることになら。これ以上呪わしいことがあるだろうか。


 逗子の犯した過去の事件に遡って資料を当たる。逗子が二十二歳のときに最初に起こした事件の被害者は、十九歳の大学生だった。色白で細面、髪の長い女性だ。二十八歳のとき、二番目の事件。被害者となったコンビニ店員も髪が長く、すっと鼻筋の通った若い女性だ。殺されたスナック店員と似ている。

 逗子に関するデータの中には、警察本部から逃走直後に発生した暴行事件の被害者に関する情報も含まれていた。濃紺のブレザーとチェック柄のスカート、被害者はまだ中学生だった。色白で髪が長く、尖りぎみのあごに、高い鼻をしていた――。


 ぼくは被害者のデータを呼び出しながら、並行して彼女の映像もチェックしていた。これだけ逗子の「嗜好」に合っているのだから、チェックしない方がどうかしている。メインモニターの右上で彼女は乗っていた電車から降りた。何事もない、いつもどおりじゃないか。


 中学生を襲った逗子は、被害者を殴りつけて狭い路地に引き入れようとしたところを、通行人に見つかり逃走している。それがいまから三日前のことだ。まだこの街にいるのか、隣県にでも逃走したのか、その後の足取りはまったくつかめていない。


 次々と人が電車からホームに降りてくる。もう彼女は画面から消えて、まもなくとなりの分割画面、JR6394J――駅ナカのコンビニの監視カメラにその姿が現れるはずだった。まだ見えない――。


 そのときだった。電車を降りる大勢の人の中に、エレベーターの中であごの尖った女を殴りつけていた男の姿を見たのは。棒きれのような身体、前かがみで足を引きずる歩き方。


 しんと胸の奥が冷えた。

 世界から視覚以外の感覚が消え去った。


 男はホームを奥から手前へ通り過ぎて見えなくなった。分割画面の表示を確認する。十月二十七日十六時五十二分三十八秒――記録された映像ではない。リアルタイムだ。

 ぼくの前にやつが現れた。




 夕闇が落ちはじめたアパートの部屋の中でたまらず立ち上がったが、しばらくはどうしていいか分からなかった。しかし、ぼくは画面の向こうに殺人犯人を捉えていた。


 コンビニに設置されたカメラの映像に彼女が現れた。コンビニに立ち寄ることなく画面から消える。何人か乗降客をおいた後、追うようにして逗子一馬が同じように画面を横切った。たったいま目の前にいる。そこにいるように感じる。しかし、それはぼくの手の届かない遠いところでの出来事なのだ。


 携帯端末を取って稲爪に連絡をとろうとした。コールする、コールする、コールする……が電話には出ない。メッセージを送るか? だが、それをいつ稲爪が見るというんだ。間に合わない。

 そう、間に合わない。やつは彼女を追っているかもしれない――いや、きっとそうに違いないのに。ぼくの手はいまそこにいるやつに届かない。


 改札を通る彼女が画面に現れて消えた。数人おいて、逗子一馬が同じ改札ゲートを通ってゆく。


 たまたま彼女と逗子の向かう方向が同じだけではないかと思ってみる。駅を出ると二人はまったく別の方角へ向けて歩き出すのだ。偶然、ぼくが知っている二人の人間が同じ電車に乗り合わせたに過ぎない。


 メインモニターの分割画面には、いつも彼女がその前を通る街頭カメラの映像が映っている。道に落ちた夕日の影が長い。この道は住宅街に通じていて、夕刻以降、住人以外が通行することはほとんどない。


 彼女が現れた。まっすぐいつもの道を自宅へ向かっている。その五メートルほど後を逗子一馬が歩いてきた。画面に映っているのは、彼女とやつの二人きりだ。


 絶望的な気分で携帯端末を操作するが、稲爪が応答する気配はない。対象者発見を伝えるメッセージも未読のままだ。


 たまらず、ぼくは部屋を飛び出した。じっとしていられなかったのだ。頭の中では、エレベーターの中で執拗に女を殴っていた男の姿が、繰り返し繰り返し再生されている。女はいつのまにか紺のセーラー服姿に変わっていた。


 Dがいる。

 混乱した頭に一筋の光が差し込んてきた。人身安全三係での仕事が長いDなら、稲爪以外の警察関係者と繋がりがあるかもしれない。アパートの外階段を駆け下りて、一〇四号室へ向かう。四番目の男、Dの部屋だ。ドアブザーを鳴らす、何度もボタンを押す――が鳴らない……。

 構わず玄関ドアを乱暴に叩く。


「おい、D!」


 しかし、応答はない。ドンドンと古びたドアを叩く音が空しく響くだけ。

 ドアノブに手をかけると鍵はかかっていなかった。ドアは難なく開いた――。が、中は真っ暗だった。


「――?」


 一歩足を踏み入れるが、2DKの部屋に人の気配はない。それどころか映像捜査官の部屋にはあるはずの、パソコンやモニター、映像機器が一切ない。

 ほこりの積んだ畳と染みの浮いた壁、すすけた天井から古びた吊り下げ照明が一つあるきりの部屋には、かびた匂いが満ちていた。Dの姿はない。いや、この一〇四号室に住人がいるとは思えない。


 そんな馬鹿な。

 となりの部屋のドアに飛びつくと、鍵はかかっていなかった。中は空っぽ。その隣もそう。一〇一号室を開けると大きく太ったネズミが足元に飛び出してきて、ぼくは飛び退った。


 どうなっているんだ。人身安全三係のみんなどこへ行ってしまったんだ! だが、二階の部屋も二一〇号室を除く、すべての部屋が空っぽだと分かると、納得せざるを得なかった。

 ここ――昭和荘には、ぼくしかいないのだと。


 どうしていいのか分からず、部屋に戻ると、彼女は自宅から一番近い監視カメラの前を通り過ぎるところだった。この先、どのくらいの位置に彼女の自宅があるのか分からなかったが、最後に彼女が映るのはいつもこのカメラだった。彼女が、そして逗子が画面を横切ってゆく。ぼくが知覚できない場所へ消えてゆく。


 手にした携帯端末で一一〇番をコールした。手遅れになる前に、ぼくにできる最後の手段だった。


「――はい、警察本部です。事件ですか事故ですか?」


 多少まごついたが、通話相手の担当官に警察本部から逃走した犯人を見つけたこと、その犯人は女性に乱暴し殺した罪で捕まっていたこと、正にいま、別の女性の後をつけていて被害に遭うおそれが強いことを伝えることができた。


「ぼくは人身安全対策課三係の九条といいます」


 電話口の相手は応えなかった。不自然なくらい、長く。そして――。


「……警察本部から犯人が逃走? そんな事実はありませんよ」

「逗子です! いま監視カメラでみつけたんだ」

「……そんな者は知らん。それに……人身安全なんて部署は県警にない。あんたいったい何者だ?」

「――!」


 相手はまだ何かを話し続けていたが、ぼくは端末から耳を離して一一〇番通報を切った。ぼくのしてきたことの何が本当で、何が嘘なんだ。


 途端に、足元から世界が崩れていくような錯覚を覚えた。もちろん錯覚とはわかっていたが、その寄る辺なさは本物だった。虚無の空中に放り出されたぼくは、ぼくがぼくであることの確信を失った。




 白々と街灯が点いている。日は落ちてビルの向こうに残光が薄くなっていく――。


 地下鉄を乗り継いで、ぼくはいつもの公園へやってきていた。あれから一時間は経ってしまった。


 どうしてここへやってきたのかは自分でもよくわからない。ただ、ぼくが考えていたぼくというものを規定する一部が、ここで稲爪に会っていた事実には間違いがない。ぼくと警察を結びつける最後の接点が、この公園――505GAB1と505GAB7、ふたつの監視カメラの映像が交わるこの場所にはある。


 雨は降っていない。日が落ちても都心の公園に人の姿がなくなることはない。昨日は誰もいなかった小さな広場のベンチにも、携帯端末を覗き込むスーツ姿のサラリーマンや、笑いさざめく若いカップル、ぼんやりとビルの明かり見上げるホームレスの姿などが見える。


 稲爪はいなかった。もちろんそうだった。いるはずはないのだ。ぼくがここに来るのは、彼から呼び出されたときに限られていたし、ぼくが稲爪を呼び出したことのなど一度もなかったからだ。


 携帯端末を取り出して、稲爪の番号をコールする。スピーカーから呼び出し音が聞こえる。一回、二回……。夜の公園に空しく響く。五回――。


「稲爪なら出ないよ」


 はっとして視線を巡らせると、ベンチに腰をおろしているサラリーマンと目があった。いつものジャージ姿ではないが、もじゃもじゃ頭に眼鏡、Dだった。


「逗子の確保に向かってる。さすがだな」


 立ち上がったDは、仕立てのよいスーツを一分の隙もなく着こなしていて、いつもの彼とは別人のように見えた。


「どうして?」

「通報したろ。それに――オレたちは常に記録されている」


 そうだろと言ってDは薄く笑った。いつもの、少し斜に構えた彼の笑顔だった。


「来ると思ったよ」

「いったいどういうことだ」


 目の前のこの男はいったい何者だ。あのアパートはどうして空っぽなんだ。ぼくが映像捜査官だというのは本当なのか。それともそうした一切合切がすべて嘘なのか。


「本当のこと? なんだそれ。もし本当のことってのがあるとすれば、オレたちにとってそれは、モニターの向こうにあるものだろ」


 知ってるはずじゃないかと言って、歩み寄ってきたDはぼくの肩を親しげに叩いて、一切れのメモを差し出した。電話番号だった。


「一緒にやろう」


 メモをぼくの手に押し付けるとDは去った。振り向くことなくまっすぐ広場を出て行った。ぼくは追うことなくその背中を見送り続けた。


 すっかり暗くなった公園に街灯が鋭く光を投げていた。すぐそばに505GAB7のコードを持つ街頭カメラが佇んでいる。


 ぼくは記録されている。

 



 午前七時三〇分、もうそろそろいつもの時刻だ。到着した列車が吐き出した人の群に朝のホームは混雑していた。列車を降りる者と乗り込もうとする者が作る混沌が、渦を巻き、流れを形作って徐々に秩序立っていく。人の群れが、ぜん動する臓器ようになる不思議な時刻だ。


 でも、いつもと違い今朝は、ぼくもそれを構成する粒子のひとつだ。ぼくは流されるようにしてホームを改札へと歩いてゆく。若いもの、老いたもの、男、女――が様々にひとつの方向へ流れてゆく。

 改札の手前、コンビニエンスストアに滑り込む。ここの出入口からは自動改札を流れてゆく人がよく見える。


 グミの陳列棚を探そう。


 ゆうべは昭和荘に戻らなかった。空虚な建物。偽りが詰め込まれた部屋。不確実な真実。ぼくには「そうではない確かなもの」が必要だった。

 夜通し確かなものを探して歩いた。歩いても歩いても見つからなかった。ぼくにそんなものはないと突きつけられたような気がした。


 そしていまここにいる。


 店内の時計を見る。午前七時四〇分。いつもの時刻だ。自動改札は途切れることなく人を招き入れている。まだ現れない。


 息苦しくなってきた。胸を大きな手でわしづかみにされたように。ぼくは浅い息を繰り返す。


 ――どうして彼女は現れないのだろう。


 あの後のことは何も知らない。逗子がどうなったのか。稲爪が逮捕したのか。彼女は無事だったのか。それとも、ぼくが知ってる全てのことは、だれかの作り出した虚構だったのだろうか。人身安全三係と昭和荘のように。


 午前八時。彼女は姿を見せず、諦めたぼくはコンビニエンスストアを出て改札へ向かった。自動改札を通る。吸い込まれた切符から視線をあげると、視界の端に紺色のスカートが揺れた。


 足が止まった。


 ぎこちない動作でぼくの方へ向かってくる少女は、足に包帯を巻き、片脇に松葉杖をついていた。K女学院の制服。尖ったあごと不釣り合いに高い鼻。すれ違うときに見ると、あごと目元が赤く、うっすらと腫れて見えた。


 ぼくが足を止めたのは、ほんの二、三秒のことだった思う。すれ違ったのはほんの一瞬だけ。それで十分だった。振り返ると彼女はホームへのスロープに差し掛かったところだった。ゆっくりと、しかし、まっすぐに歩いてゆく。もちろん彼女がぼくを振り返るなどということはない。そして、ぼくも二度とは。


 再び歩き始めたぼくは、携帯端末を取り出して登録したばかりの番号をコールした。一回、二回、三回……。




「もしもし――Dか」

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ここにいる 藤光 @gigan_280614

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