老人と少年

紅蛇

タロウという名の少年。

 寝室にて。老人は黄金色の液体を喉に流し込みながら、煙を吐き出していた。この景色だけを見ると、実に奇妙に思えるが、老人にとってはただの日常であった。呼吸を整え、額の皺を深める。同時にウイスキーを飲み、葉巻を吸う。呼吸を整え、額の皺を深める。ウイスキーを飲み、葉巻を吸う。呼吸を整え、額の皺を深める。ウイスキーを飲み、葉巻を吸う。その一連の動作のみであった。


 ウイスキーは妻と息子が家を出て行った、年のもの。葉巻は吸い口を小さく、薄い唇と添えさせる。老人はこの日、一つの悲しみに暮れていたのである。一連の動作が染み込んだ自らの体にではなく、別の理由で。

 今日は老人の愛人、ソフィーの命日であった。


「嗚呼、私のソフィー。なぜ私を置いて、天へと旅立ったのだ……」

 壁に飾られたマリアの肖像画に、紫煙しえんをひと吹き。老人は煙で歪んで見えるマリア様が、ひっそりとした妻の目元の彫りと、似ていることに気づいた。影が彼女の頬を撫でては、心臓が痙攣けいれんを起こしたような、嫌気が老人を苛ませた。


「酒が……もっと強いのが必要だ」


 思い立ったら吉である。紅茶の茶殻色をした腰掛けから立ち上がり、動くことを拒み出した膝を伸ばす。

 その間に思っていたことは、愛おしいソフィーの柔らかな感触、腰元から太ももまでのふくよかさ、左足首に小さく飾られたほくろ、首元の水色のチョーカーに、豊潤で弾力ある二つの乳房。嗚呼、彼女は誰よりも裸体が似合い、愛らしく微笑んだ表情が素晴らしかった。老人の両手は彼女の腰元を抱くことができず。ただ、両足の樹の根だけが、酒場を目指すだけであった。


 向かった先は、街の外れ。二日前に素性の分からぬ少年を雇ったと、店主のアベルが言っていたのを思い出したからである。簡単なコートと紺色のスカーフだけを着込み、夕方になった世界をさまよい歩いた。老人は天を見上げ、彼女の心臓が止まった時刻に近づいてきたことに、気づかなかったふりをして、進み続けた。

 寂れた大通りを抜け、脇道を曲がり、扉を開く。アベルではない見知らぬ声が店内から溢れ、あたりを若草色に生い茂った。老人はその若々さに驚き、身動いだが、すぐに枯れた根を店内に伸ばしていった。


「いらっしゃいませ」


 もう一度、同じ言葉が返され、相槌だけをする。老人はそれでは愛想が悪いと考え直し、「一番強い酒を」と一言添え、席に掛けた。

 少し時間が経ち、老人のまぶたが下がり掛けた頃、少年がやってきた。グラスを一つと、うっすらとした笑顔が一つずつ。背は老人が座ったよりも、握りこぶ一つ高いのみ。厚い唇に、軽く横に流した前髪が黒く、照明で輝くのみであった。老人は奇妙な感覚に陥り、思わず口を開いた。

「君、いくつかね」

 数秒の間が開き、「……十四です」と返事が届く。

「そうか。どこの国の人かね」

 またも、数秒の間。老人は時間を無駄にしないようにと思い、酒を一口飲み。渡された黄金色は、先ほどまで飲んでいた穀物の香りウイスキーを醸しだしていた。


「……エスパニョールスペインハポネス日本

「ハポネスとは、珍しい」

「よく言われます……」


 たどたどしい笑顔を見せ、律儀に頭をさげる。少年のほくろが、ころころと目尻に寄り添った。老人はその動作に驚き、おもむろにソフィーの笑顔が脳裏によぎりだした。


「父がエスパニョールなのかね」

「はい」

「それで母がハポネス……」


 グラスの中身を喉に流し込み、妙な違和感を噛みしめる。老人は、困惑していた。ソフィーの目元と彼が似ていることに。流し目に、濃い虹彩アイリス。グラスをテーブルに置くしなやかな手付きと、歩く音のリズム。長く伸びた睫毛に、目尻の撫子の花のような愛らしさを、老人は少年から感じてとっていた。

 これは偶然似ていただけなのだろうか。名前とその華やかさしか知らぬ女性に、子がいたとは、聞いていない。度数が大して変わらないであろう酒を喉に流し込んでは、いなくなった少年について思考を巡らせる。老人は、まぶたを閉じ、深く、深く、深海へ、記憶を巡らせた。


 黒髪が眩しかったソフィー。ノーチェの空よりも美しく、真夜中の虚しさも吹き飛ばしたその微笑。

 ——私、まだあなたに伝えていないことがあるの。

 ——そうか。ソフィー、君ことは体の隅々まで知っていたと思っていたが。

 ——私は秘密だらけなのよ。

 ——それはいい。それでそれはなにかね。

 ——名前。本当は違うの。

 ——何かね。本当の名はニュクス夜の女神とでも?

 ——ふふっ、違うわ。私の名前は「チエ」。知恵ソフィアと同じだから、そう呼んでいるの。

 ワインを飲みあい、次の日、彼女は瞼を自ら開けることはなかった。


 老人はグラスからシワの目立つようになった手をどかし、体を横に向けた。少年は白いシャツを腕まで捲り上げ、注文かと思ったのか、こちらを振り向いた。お互いの目が合い、少年の長い睫毛がふるえて見えた。


「君の母親の名は……なんという」


 無意識に老人は、その質問を口に出していた。重々しい空気が味の分からなくなったアルコールと混ざり、素面シラフのような、酔っているような、不思議な感覚に老人はなってしまっていたのである。

 薄紅色の唇が歪み、眉のひそみ。少年は初めてあった老人に言うべきか、一時の迷いがあったものの、切羽詰まった表情から、教えることにした。


 老人の愛した、夜の女神の名ソフィーを口に出し、少年は笑顔で答えたのである。

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老人と少年 紅蛇 @sleep_kurenaii

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