第3話 『鬼滅の刃』を第2話までしか見ていない理由

 有料のアニメチャンネルの録画時間を間違えて、『鬼滅の刃』3話と4話だけ飛ばしてしまった。再放送されるまで待てばいいのだが、その日時を確認するために番組表を繰るのも面倒臭い。

 契約者に送られてくる例の冊子は、ろくに見たこともない。それでいて、捨ててしまうのがもったいないので発送を止めてある。番組のチェックなどは、親指のボタン操作で済むことだ。

 それさえも厭うというのはもう、怠惰の極みでしかない。それはそれで罰当たりなことだと分かってはいる。それでも、予約録画の手間をかける気がどうしても起こらないのである。

 だったらもう見なければいいのだが、偶然の巡り合わせを待つしかないと思うのには、それなりに理由がある。


 『鬼滅の刃』の1話は、悪くなかったのだ。絵の質にもシナリオの運びにも、そこそこ期待させてくれるものはあった。

 原作の筆致は、週刊連載されていた「少年ジャンプ」よりも、「少年チャンピオン」のものに近い、通好みのものがあった。流行を追うならジャンプ、マンガそのもの面白さにこだわるならチャンピオン、なのである。

 しかし、アニメで原作の筆致にこだわれば、放送されるたびにスタッフの多くが病院送りになることであろう。かつて、『超時空要塞マクロス』で何万隻という宇宙戦艦を動かした第27話「愛は流れる」が、そうであったように。


 だが、マンガはマンガ、アニメはアニメである。人物を描く線の単純さは仕方のないことであるが、それを補うだけの映像効果は充分にあった。雪の舞い散る山中の寒々とした描写がなければ、主人公の置かれた運命の不条理は表現できなかっただろう。

 鬼が出ると伝えらえるほど危険な、夜の山である。夜が明けてから山中の家に帰るという主人公の判断は合理的である。確かに、その一夜の眠りのせいで、本当に現れた鬼は家族を食い殺し、生き残った妹も鬼に変わってしまっていた。だが、主人公が家に帰っていたところで、妹か他の家族か、いずれかと同じ運命をたどることになっていたはずだ。他にどうすることも出来なかったのに、その責任を背負わされる。

 こうした運命の不条理を体現しているのが、姿を見せない鬼である。何が起こったか分からぬままに、主人公は妹と共に山中を逃げ惑うことになる。この鬼がどのように姿を現すかは、第2話の大きな見せ場となって然るべきであろう。


 こんな期待をしたのがよくなかった。

 鬼は、のっけから登場して人を食う。鬼と化した妹の力がいかほどのものか描くには鬼と戦わせるしかないのを考えれば、やむを得ない展開であろう。しかし、それならそれで、得体のしれない何かを残しておかなければならなかったのではないか。主人公たちに下卑た言葉を投げつけて襲いかかる鬼たちは、『北斗の拳』でいえば、ケンシロウの指先ひとつでダウンする三下のやられキャラでしかなかった。

 せめて、せめて、原作に背いてでも、鬼たちの台詞は最小限に削ってほしかったところだ。実際、戦う妹のほうは、言葉が喋れないだけに凄みがあるのだから。

 さらに、運命の不条理もどこかへ行ってしまった。

 強い味方が現れて、頭と腕だけで木の幹に磔にされた鬼の始末をつけさせる。主人公は鬼の頭を石で打ち割ることができず、「判断が遅い」と叱り飛ばされる。この状況だけなら、不条理といっても差し支えない。

 問題は、主人公の迷いの原因である。

 鬼たちが自分たち兄妹のみならず、他の多くの人を食い殺しかねないと気付いたとき、危機は更に差し迫ったものになる。そこでのためらいは、主人公が克服すべき弱点となり得る。だが、それが「痛いだろうな」という鬼への同情であってよいものだろうか? そんなことに思い至る余裕が、どこにあるだろうか? 

 引っかかったのは、そこである。おそらく、主人公の心の優しさを描きたかったのだろうが、ここでは無理がある。原作がどうであったにせよ、ここは一考の余地があっただろう。合理性や表現効果のために、敢えて違うことをやってみせるのも演出のうちであり、作者への敬意というものではないだろうか。


 むしろ、ここでも主人公のモノローグは省くべきだったかもしれない。鬼の頭に石を叩きつけられないという逡巡は、表情と手足だけでも描写できただろう。それは見る者の想像力を掻き立て、結末の分かっている者の視線をも釘付けにして緊張感を高める。

 朝日が射しこむべきは、その瞬間である。ここで鬼は焼き尽くされ、弱点を明らかにする。時間の流れと天体の運行は必然であるが、主人公の意志によらないという点では偶然なのだ。主人公が自らの運命を思いのままにするには、厳しい修行に耐えなければならないということが、見る者には理屈抜きに伝わることだろう。


 物足りなかったところを挙げればきりがないが、一言でまとめればこの第2話、物語に重厚な背景がある割には、悪い意味で「分かりやすい」。

 分かりやすく描かれた部分を見て、敢えて伏せられた部分を察することができるならよい。だが、分かりやすく「説明」しすぎると、「感じ取る」快感が削がれてしまう。

 ドラマを見る者を楽しませるのは、話がどう展開したかという理屈ではない。その瞬間、その瞬間で何を感じ取ったかという、言葉を超えたものである。

 だいたい、言葉で説明しきれるもののために、下手すれば命に関わるほどの手間暇をかけて絵を動かす必要があるだろうか?


 まこと、満足のいく作品に巡り合えるかどうかは偶然による。怠惰な私がアニメを思いのままに楽しむには、どんな修行をどれほど積めばよいのだろうか。

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まだ何の結果も出しておりませんが私見をひとつ 兵藤晴佳 @hyoudo

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